改訂新版 世界大百科事典 「歴史教育」の意味・わかりやすい解説
歴史教育 (れきしきょういく)
歴史的・社会的存在である人間のもつ,自己の属する集団の系譜や,人類と民族の過去のできごとなどを知ろうとする要求にこたえ,それらを計画的に教えて歴史の流れのなかで自分の立っている位置を自覚し,社会発展の担い手として育っていくのを助ける教育。広義には,未開社会で若者たちに部族の生いたちにまつわる神話を,また家庭で祖父母が子や孫たちに家の系譜を語り聞かせたりすることも歴史教育に含まれる。しかし体系的な歴史教育の開始は,近代国家成立と結びついている。ただしヨーロッパでも18世紀に入ってなお古代史に重点がおかれており,イギリスのオックスフォード,ケンブリッジ両大学で近世史が開講されたのは1724年である。19世紀に入りナショナリズムの高揚とともに欧米諸国で自国史の研究が盛んとなり,それをもとに歴史教育は国民形成の観点から重視されるにいたった。国家の栄光,国民の道義,産業,文化,武力などの優秀性を子ども・青年に教え,国王や政府への忠誠心を持たせ,国家意識の形成をめざした。
変遷
日本では江戸時代,藩校において日本史よりも中国史の教授に重点がおかれ,《左氏伝》《史記》《漢書》《十八史略》などが教材として使用された。日本史では《日本外史》《国史略》などが使われたが,それは中国史の半分以下にすぎなかった。これら中国や日本の書物はいずれも古典として尊重されてきたものであり,支配層の子弟には,これらの書物によって過去のできごとの原因結果を知らせる必要があるとされた。これに対し寺子屋ではまとまった歴史教育は行われず,歴史のなかから武勇談や教訓を断片として抜き出して教えるにとどまった。
1872年(明治5)の〈学制〉では上等小学で〈史学大意〉,下等中学で〈史学〉を課すことが規定された。当時は五ヵ条の誓文の精神もあって日本史だけでなく外国史がとりいれられ,それも中国史より先進欧米諸国の歴史が万国史として重視され,視野を世界に広げる努力があった。日本史の皇室関係の記述では,いたずらに美化することなく事実がとりあげられた。しかし,このような歴史教育は81年の〈小学校教則綱領〉によって転換を余儀なくされる。この綱領で内容は日本史に限定され,目的については〈務メテ生徒ヲシテ沿革ノ原因結果ヲ了解セシメ,殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養成センコトヲ要ス〉とされ,〈殊ニ〉以下が重視され,必ずとりあげるべき事項として,建国の体制,神武天皇の即位,仁徳天皇の勤倹,延喜天暦の政績,源平の盛衰,南北朝の両立,徳川氏の治績,王政復古があげられた。起草者の江木千之(かずゆき)によれば綱領原案には神武の東征,保元・平治の役,南北朝の乱,維新の役など戦乱に関する事項が多く,これについて明治天皇が後世子孫が乱を思うおそれがあると指摘し,上述のように訂正されたという。ついで教育勅語発布の翌91年の〈小学校教則大綱〉では〈国体ノ大要ヲ知ラシメテ国民タルノ志操ヲ養フ〉ことが目的とされ,10年前の〈綱領〉にあった〈沿革ノ原因結果ヲ了解セシメ〉ることが削除され,科学的な歴史認識の教育がさらに後退した。内容も,建国の体制,皇統の無窮,歴代天皇の盛業,忠良賢哲の事跡,国民の武勇,文化の由来などがあげられ,大日本帝国憲法と教育勅語の趣旨に沿うように改められた。とりあげる人物の言行については修身科で示した格言などに照らして正邪是非を弁別させることとされた。
この時期以降の歴史教育の方針を強化するうえで重要な役割を果たした事件が二つある。一つは1892年の久米邦武事件。これは帝国大学教授久米邦武が論文《神道は祭天の古俗》において,神道は豊作を祈り天を祭る古来の習俗で,三種の神器は祭天に用いられたもので神聖視は誤りと論じたため神道界から強い反発を受け,大学の職を免ぜられた事件である。第二は1911年の南北朝正閏問題。小学校歴史科では1904年から国定教科書が使用されており,10年の改訂版にあった南朝・北朝両立という記述に対し,翌11年,万世一系に反するとの非難が起こり,元老山県有朋らの指示により,南朝(吉野朝)を正統とするよう書き改められたという事件であり,以後,人物についても楠木正成・正行父子が忠臣孝子の代表とされるようになった。さらに17-18年の臨時教育会議では忠良な帝国臣民の育成にとっての小学校歴史教育の重要性が確認され,26年より教科名も〈国史〉と改称された。以後,教科書改訂のたびに皇国史観の色彩が強められ,日本は神国であるとの記述が増え,たとえば元寇のさいに吹いた大風は34年改訂以降,〈神風〉と記されるようになった。
一方,中等学校では日本史のほか,外国史も教授されたが,これについて1894年,那珂通世が東洋史と西洋史に二分することを提案,99年の中学校令にもとづく1902年制定の中学校教授要目により,第3学年で東洋史,第4,5学年で西洋史を扱うこととされ,とくに日本と関係する事項に留意して教授するよう指示された。ついで小学校教科書で南北朝問題の起こった11年に出された文部省訓令で,日本の国体や大義名分を明らかにすることを主とすべしとされ,〈我国体ト背馳スルガ如キ事歴ニ就キテハ彼我国情ノ異ナル所以ヲ明ニシ生徒ヲシテ誤解セザラシメンコトヲ期スベシ〉とされた。これにより,たとえば東洋史では,その大部分を占める中国について,万世一系の天皇をいただく幸福な日本の歴史と対比し,争乱と革命が繰り返される悲惨な歴史の国であると強調された。
戦後の歴史教育とその問題点
第2次大戦後,1945年11月には,いち速く歴史学研究会の主催により国史教育再検討座談会が開かれ,戦前・戦中の国史教育への批判と同時に歴史学者,歴史教育者としてのみずからの生き方への反省が行われた。しかし連合国総司令部による歴史教育への批判はきびしく,同年12月31日には修身・地理とともに日本史の授業停止と教科書回収の指令が出された。翌46年9月,神話ではなく石器時代に始まる文部省著作《くにのあゆみ》などの新教科書の刊行により同年10月授業再開は許可されたが,初等教育段階における通史の学習は,翌47年9月の社会科の授業開始とともに行われなくなる。しかし中等教育段階では51年版学習指導要領で示された中学校の日本史,高校の日本史と世界史の内容構成は戦前のそれと異なり,原始社会,古代社会,封建社会,近代社会という時代区分の下に社会発展史的にとらえさせようとする画期的なものであった。そこで重視されたのは〈歴史の発展を科学的・合理的に理解するとともにその時代観念を明確にする能力を養うこと〉であった。さらに日本史と世界史との関係を明らかにしながら,〈日本の社会の発展を常に世界史のもとに理解するとともに日本の特殊性を考え,現在の社会問題を世界史的にはあくする能力を養うこと〉があげられていた。
その後,学習指導要領の改訂のたびごとに,社会科,そのなかでもとくに歴史の扱いの変化が教育界だけでなく広く社会的に問題となった。1950年代末の平和と戦争の扱いの縮小,60年代末の神話の導入,70年代末の諸外国の地理・歴史に関する事項の削減などがそれである。1977-78年に改訂された小・中・高校の学習指導要領では,歴史教育を含め社会科の目標は〈公民的資質の育成〉で統一された。また教科書の検定でつねに問題が集中するのも歴史教科書であり,家永三郎は自著の高校日本史教科書に対する検定を違憲・違法として1965年,67年さらに84年と,3次にわたり訴訟を提起した(教科書裁判)。1982年には,文部省による歴史教科書検定が近代のアジア史,とくに日本によるアジア諸国への侵略の歴史を歪曲しているとして,中国,韓国などアジア諸国から批判を受け,日本の歴史教育と歴史教科書検定とは国際的に注目の的となった。歴史教科書における歴史の歪曲の問題は日本だけにあるのではないが,文部省検定という方式による政府の歴史教育への介入は,国際的にみて際だっている。
歴史教育の課題は,次の世代に,人類と民族の歴史を主体的に学ばせることによって科学的歴史観を獲得させ,さらに現実の課題と積極的にとりくむ能力と意欲を養うところにある。そのために子どもの歴史意識・歴史認識の発達を考慮して教育内容を編成し,指導方法に創意工夫をこらす必要がある。たとえば小学校低学年では祖父母の幼少年期と原始古代とを混同するなど時間認識が育っていないので通史の教授は意味がない。また小・中・高校でしだいに詳しくなる通史の教授を繰り返すより,小・中・高校一貫した歴史の教育課程を編成する必要がある。小学校高学年には原始・古代・中世を多くの挿話をまじえながら時間をかけて教え,中学校では3年間に近世・近代から現代までを教えるという方式もあっていい。さらに歴史の転換期については,他教科や科外の読物,映画,テレビ番組などで得た知識も活用しながら総合学習の方式でとりあげることも有意義である。
執筆者:臼井 嘉一+山住 正己
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報