英露協商(読み)エイロキョウショウ

デジタル大辞泉 「英露協商」の意味・読み・例文・類語

えいろ‐きょうしょう〔‐ケフシヤウ〕【英露協商】

1907年、イギリスロシアとの間に結ばれた協定アフガニスタンをイギリスの勢力範囲とし、ペルシアにおける両国の勢力範囲を決定、さらにチベットに対する内政不干渉などを決めた。これによってドイツ進出対抗する英・仏・露三国協商成立した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「英露協商」の意味・読み・例文・類語

えいろ‐きょうしょう‥ケフシャウ【英露協商】

  1. 一九〇七年、イギリス・ロシア間に成立した協定。英仏協商とともにドイツ包囲体制を形成

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「英露協商」の意味・わかりやすい解説

英露協商【えいろきょうしょう】

1907年,英露間に結ばれた協約。ペルシア,アフガニスタン,チベットに関する両国の勢力範囲を定め,英仏協商と合わせて三国協商を成立させ,三国同盟との対抗を明確にし,第1次大戦の原因となった。
→関連項目イラン立憲革命協商グレー日英同盟露仏同盟

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「英露協商」の意味・わかりやすい解説

英露協商
えいろきょうしょう
Anglo-Russian Entente

1907年8月 31日,イラン,アフガニスタン,チベットに関してイギリスとロシアが結んだ協約。アジアにおける両国の利害対立から,日露戦争に際しても,イギリスはロシアに敵対的な外交政策をとった。しかし,ロシアの敗北,ドイツの強硬な世界外交をみて,中東における英露の勢力範囲を調整し,ドイツ包囲の協商網の実現をはかろうとし,06年から交渉を進め,ペテルブルグで協約を成立させた。内容は,(1) イランについては,テヘランを含む北部および中部をロシアの,南東部をイギリスの勢力範囲とし,その間に緩衝地帯をおく。 (2) アフガニスタンについては,イギリスの勢力範囲とする。 (3) チベットについては,中国の宗主権を認め,内政不干渉を守る,など。この協商の結果,ドイツ包囲の英仏露三国協商が成立した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「英露協商」の解説

英露協商(えいろきょうしょう)
Anglo-Russian Entente

1907年8月成立したイギリスとロシアの間の協約。ペルシア,アフガニスタン,チベットに関する三つの協定からなる。ペルシアについては英露の勢力範囲を画定し,アフガニスタンはイギリスの勢力範囲内にあるものと認められ,チベットについては内政不干渉が約された。これは英仏協商と同様に植民地従属国の犠牲による大国の妥協であって,イギリスとロシアの広範な地域における対立を終わらせたものであった。これによって三国協商が成立して,三国同盟との対抗関係が明確に形成され,第一次世界大戦の原因となった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「英露協商」の解説

英露協商
えいろきょうしょう
Anglo-Russian Entente

1907年,ペルシア(イラン)・アフガニスタン・チベットでのイギリス・ロシアの利害関係を調整した条約
英仏協商と同じく,日露戦争後の極東情勢の変化に対応して誕生した。ペルシアは北部がロシア,南部がイギリスの勢力範囲,アフガニスタンはイギリス領,チベットは相互不干渉(中国の主権を承認)とされた。この結果,三国協商が成立。イギリスとの対立緩和により,ロシアのバルカン政策がいっそう進行し,第一次世界大戦の勃発を促す要因の1つとなった。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「英露協商」の意味・わかりやすい解説

英露協商
えいろきょうしょう

イギリス・ロシア協商

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の英露協商の言及

【三国協商】より

…1891‐94年にかけて成立した露仏同盟,1904年の英仏協商,07年の英露協商により生じたイギリス,ロシア,フランス3国間の友好関係の総称。三国協商についての特定の規約はない。…

【第1次世界大戦】より

…このためイギリスはむしろドイツとの同盟の締結を期待し,98年,99年,1901年の3回にわたり交渉したが,ドイツ側がもっと有利な条件で締結できるときを待つという態度をとったために英独同盟は成立せず,そこでイギリスはフランスへの接近に政策を転換し,04年4月8日に英仏協商を締結した。ついで05年の日露戦争終結とともにこれまでの英露対立も解消すると,イギリスは07年8月31日に英露協商を締結することができた。これは第1次大戦前史における三国協商体制の成立を意味する画期的な出来事であるが,さらに巨視的に展望すると,ドイツの急激な膨張により,かえってクリミア戦争以来の長年にわたる英露両超大国の対立が解消したことを示す,国際関係史上の一大変動であった。…

【チベット・インド条約】より

…この結果1904年チベット側とチベット・インド条約を結び,チベットをその勢力範囲に組み込んだ。07年の英露協商成立によって,イギリスのチベットでの地位は幾分後退するものの,この条約締結以降イギリスはチベット問題に強い影響力をもつこととなった。【中見 立夫】。…

※「英露協商」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android