日本歴史地名大系 「アブタ場所」の解説
アブタ場所
あぶたばしよ
近世の場所(持場)名。場所請負制の成立とともにシツカリ(現長万部町)、レブンゲ・ヲフケシ・ベンベ(現豊浦町)、アブタ(オコタラヘ)に至る広範な地をアブタ場所とよぶようになった。元禄郷帳に「べんべ」「おこたらへ」がみえ、天保郷帳に「アブタ持場之内 レブンゲ・ヲフケシ・ベンベ・フレナイ」とある。オコタラヘの地名はイタヤ川(現板谷川)とアブタペッ(アブタ川、現在は消滅)との中間を流れるオコタンヌベツ(現在は消滅)という川名に由来するといわれ、この三本の川を中心に発達したオコタラヘはアブタを含む地と考えられる。また後述のように会所の移転などから、フレナイをもってアブタと称することもあった。何度か境界の変更があったが、一八五九年(安政六年)には、西側はシツカリ川中央(現長万部町字静狩)をもってヤムクシナイ場所に、東側は「ヲクシユンコウシ」(本名ウコソンコウシ、現虻田町字入江付近)でウス場所に接し、レブンゲ場所が存在した時には東境はヲタニクル(現豊浦町字大岸)であった(「場所境調書」など)。「狄蜂起集書」に蝦夷地の所付として「へへ」(ベンベ)、「れふんけ」「おこたらへ」が列記され、「つやしやいん」の持分で、酒井庄右衛門の商場とある。やがてアブタ場所と称し、代々松前藩士酒井氏の世襲場所であった(虻田町史)。
一七三九年(元文四年)頃には「アブタ」は酒井逸学の預地で、産物は干鮭・昆布・鯡数子・干カスベ、イタラ貝の殻(杓子などに使用)、カバの木皮などで、運上金は年々不同であった(蝦夷商賈聞書)。一七八〇年代後半の状況を記した「蝦夷草紙別録」によると乙名はクイムシシ、小使はウヱンシヤハで、酒井伊左衛門給地、運上金一二〇両、請負人は箱館の笹屋治兵衛。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報