日本歴史地名大系 「アブタ」の解説
アブタ
あぶた
漢字表記地名「虻田」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名として記録されている。当地一帯は近代に入って虻田村に包含された。仮名表記は「アブタ」が多いが、「あふた」(享保十二年所附)、「アフタ」(「蝦夷巡覧筆記」、木村「蝦夷日記」など)、「あぶた」(寛政蝦夷乱取調日記)、「アプタ」(「風俗人情之沙汰」「蝦夷草紙別録」など)もある。漢字表記は「阿部田」(木村「蝦夷日記」)、「阿武多」(東蝦夷地場所大概書・駅路抵記)、「安武田」(西蝦夷地日記)、「安布田」(行程記)がみられる。秦「地名考」は「アプタ」とし、その語義について「アフは鉤の称。タの語解し難し。一にアブトといふ。アブトは雨の名なり。地名となりたる事、つまひらかならす」と記す。「地名考并里程記」には「夷語アプタとは鉤針を作ると云ふ事。扨、アプとは鉤針の事。ターとハ作る、又は拵ると申意なり。此故事未詳」とあり、松浦武四郎も「名義石にし而直に臼が嶽の方へツヾく」(「蝦夷日誌」一編)などと海岸から有珠山にかけての穏やかな広がりについて述べたものが多い。戸口は「蝦夷迺天布利」に「蝦夷の栖家は八十斗もありといふ」と記されているが、その後の記録では六三軒・八〇三人(木村「蝦夷日記」寛政一〇年五月二九日条)、六二軒(「東行漫筆」文化六年四月五日条)、六五軒・三三四人、うち男一五九・女一七五、乙名役三人・小遣役二人(前掲大概書)、六八軒(廻浦日記)、六一軒・二五八人、うち男一四五・女一一三(玉虫「入北記」安政四年九月二二日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報