日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラリック」の意味・わかりやすい解説
アラリック
あらりっく
Alaric
(370ころ―410)
西ゴートの王(在位395~410)。ビザンティン帝国領トラキアに定住した西ゴート人の一部から王に推された。配下の臣民を率い、新しい定住地を求めてバルカン半島の各地を荒らしたのち、ビザンティン帝国皇帝アルカディウスからイリリクム(アドリア海東岸)地方の支配を認められた。401年以降しばしば西ローマ領に侵入、西ローマの事実上の支配者スティリコと戦った。スティリコが殺害されると、409年ローマ知事アッタルスを皇帝ホノリウスの対立皇帝にたてたが翌年これを廃して、ホノリウスに提携を求め、拒否されると、ローマ市を占拠、3日間にわたり市内を略奪した。さらに北アフリカに渡るべく南イタリアに進んだが嵐(あらし)に阻まれ、北に転じた直後、コゼンツァ付近で急死した。
[平城照介]
『P・クルセル著、尚樹啓太郎訳『文学にあらわれたゲルマン大侵入』(1974・東海大学出版会)』▽『P・リシェ著、久野浩訳『蛮族の侵入』(白水社・文庫クセジュ)』▽『H・シュライバー著、岡淳・永井潤子・中田健一訳『ゴート族』(1979・佑学社)』
アラリック(2世)
あらりっく
Alaric Ⅱ
(?―507)
西ゴート王(在位484~507)。有能な父王エウリコのローマ化路線を継いで多数派のローマ系住民の支持を得ようとしたが、施策に矛盾があって十分な成果を得られなかった。一方、当時西ゴート王国はロアール川以南とローヌ川以西のガリアも領有していたところから、ガリア再統一をねらうフランク王クロービスとの対立がしだいに表面化していった。507年ポアチエ近くのブイエーの一戦で西ゴート軍はブルグンド王と結んだクロービスによって敗れ、アラリックは戦死。以後、西ゴートの支配は地中海沿岸のセプティマニアを除いてガリアからイベリア半島に移り、6世紀中葉にはトレドを首都とした新国家を形成した。
[小林一宏]