アルザス・ロレーヌ問題(読み)あるざすろれーぬもんだい(その他表記)la question d'Alsace-Lorraine フランス語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルザス・ロレーヌ問題」の意味・わかりやすい解説

アルザス・ロレーヌ問題
あるざすろれーぬもんだい
la question d'Alsace-Lorraine フランス語
Elsaß-Lothringische Frage ドイツ語

フランス北東部をめぐるフランス・ドイツ間の係争。アルザスのほとんど大部分はドイツ語圏に入り、ロレーヌは北東部がドイツ語圏、その他はフランス語圏に入るが、ともに神聖ローマ帝国の範囲に属していた。近代に入り、フランス絶対主義権力の拡大に伴い、アルザスは三十年戦争(1618~1648)後のウェストファリアウェストファーレン)条約(1648)により(その中心の帝国都市ストラスブールは1681年)、ロレーヌはさまざまな段階を経て1766年に、ともにフランスの支配に服した。しかし、とくにアルザスとドイツとの経済的、精神的関係は断絶せず、ストラスブール大学ゲーテが遊学した1770年ごろは依然としてドイツの大学であった。啓蒙(けいもう)思想の浸透とともにようやく知識層にフランス文化の影響が強まり、フランス革命とナポレオン戦争を通じてアルザスのフランスへの融合が進展した(孤立してスイスと結び付いていたミュルーズが1798年フランスに合併した)。

 ナポレオンの没落後、プロイセンはアルザスのドイツへの返還を要求したが、第二次パリ講和会議(1815)で貫徹しえず、ランダウだけがバイエルンのライン・プファルツに戻った。このころになって、革命の結果、農民と小市民が政治的、社会的に解放されたことにより、アルザス人のフランス国民感情が強まった。しかしドイツ語(アレマン方言)は維持された。経済的にも繁栄し、コルマル、ミュルーズは木綿工業の中心となった。社会的には有産者層と知識層が優位し、政治的にはカトリック主義の組織が指導的地位にたった。フランス第二帝政はこの発展を促進した。

 プロイセン・フランス戦争普仏戦争)の結果、フランクフルト講和条約(1871年5月)でベルフォールを除くアルザスとメス(メッツ)を含むロレーヌ北東部がドイツ帝国に譲渡された。ロレーヌのフランス残留部では以後激烈な対独敵意が生じ、バレスポアンカレなどの反独的強硬派の人物が輩出した。ドイツに併合された部分はアルザスとの間に強い対立があったが、両者は一つの行政単位にまとめられて、帝国州エルザスロートリンゲンになった。同州は帝国直属領で、連邦制をとるドイツ帝国の邦国ではなかった。住民の独仏混合文化はプロイセン風の行政、軍隊に対して反感が強く、対外的にも同州の問題がフランスの宥和(ゆうわ)しがたい敵対心を刺激したから、ドイツ帝国にとってエルザス・ロートリンゲンは初めからやっかいな問題であった。住民のなかで帝国政府の政策に対する反対派の中心はカトリック勢力であったが、帝国内で自主権をもった邦国になることを目標とする自主派がそれに対抗した。1879年、同州は皇帝の任命する総督、州政府、それに立法機関として州委員会を備えたが、州憲法と帝国の連邦参議院への参加権、さらに二院制の州議会を得たのはようやく1911年のことであり、住民の帝国内第二市民意識はついに解消されなかった。この間にカトリック勢力との宥和策もとられ、ストラスブール(シュトラスブルク)大学にカトリック神学部が設置されている。反対派もしだいに後退し、エルザス・ロートリンゲン党に結集してドイツのカトリック政党である中央党に接近した。しかし、同州をめぐる独仏の関係はしばしば緊張を招き、フランスの対独復讐(ふくしゅう)心は、シュネブレ事件を契機とするブーランジェ事件(1887)、またツァーベルン事件(1913)などを引き起こした。

 第一次世界大戦の休戦後フランス軍が進駐すると、住民の大部分はこれを歓迎した。ベルサイユ条約(1919)でアルザス・ロレーヌはふたたびフランス領に編入され、ロカルノ条約(1925)でドイツは重ねてその放棄を確認した。しかしフランスの中央集権強化の行政は、ドイツ帝国時代に、とくにアルザス住民の間で培われた自立感情に遭遇、また共和制の世俗主義がカトリック勢力と対立した。第二次世界大戦中フランス軍が敗れ、1940年6月の休戦条約でアルザス・ロレーヌはドイツ占領地区とされ(したがって法的にはフランス領)、民政が敷かれたが、ヒトラーはさらにビシー政権の反抗を排して、アルザスをバーデンに、ロレーヌをザールプファルツ管区(のちにウェストマルク)に併合し、国際法を犯して住民に労働奉仕、防衛、その他抑圧的義務を強制した。

 大戦後アルザス・ロレーヌはフランスに復帰したが、とくにアルザスは、ドイツに対してはフランスとの国民的結合を、フランスに対しては独特な文化的自律性を示すことによって、独仏両者間の自然的な中間的地位を徐々に獲得している。

[岡部健彦]

『F・ハルトゥング著、成瀬治・坂井栄八郎訳『ドイツ国制史』(1980・岩波書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「アルザス・ロレーヌ問題」の意味・わかりやすい解説

アルザス・ロレーヌ問題 (アルザスロレーヌもんだい)

アルザスAlsaceとロレーヌLorraineはフランス北東部の地方である。1870-71年の普仏戦争の結果,フランスはベルフォール管区を除くアルザスとロレーヌ北部をドイツに割譲した。この地方はドイツとフランスの接触地帯として軍事的に重要な地位にあり,また鉄鉱,石炭,カリウムなどの資源が豊富であるため,独仏両国の絶えざる係争の地となった。1872年11月1日以前に,フランス国籍を選んだアルザス・ロレーヌ人は15万8000で,フランスやアルジェリアに亡命した。1871年から1914年にかけて,アルザス・ロレーヌ領有問題はフランスの軍事計画と外交政策に重要な意味をもっていた。両地方を失った結果,戦略上の重要性以外に,ドイツがルールの石炭と鉄鉱産地,製鉄・製鋼設備を手に入れたことである。アルザス・ロレーヌ地方の人々は併合に抗議し,国民投票を要求したが拒絶された。1879年に地方政府が認められたというものの,ドイツ帝国政府の代理者が絶対的な権限をもち,地方自治へのあらゆる試みは芽のうちに摘まれた。95年以後,フランス政府は教権反対政策によってアルザス・ロレーヌのカトリック教徒の大多数をドイツから離間させ,ドイツ領内の自治州化をはかった。1911年の新憲法によって自治への道は開かれたが,その政治効果は駐留するドイツ軍によって相殺された。その結果,軍隊と市民の衝突がしばしば起こった。第1次大戦後,再びフランス領になり,列強としてのフランス復活の象徴となった。しかし,フランスへの急激な同化政策は宗教教育を廃した学校教育と,公用語としてアルザス語からフランス語へ切り換えようとした際,摩擦を引き起こした。第2次大戦中,ドイツは再びアルザス・ロレーヌを併合し,同化をはかったが失敗に終わり,戦後再びアルザス・ロレーヌはフランスへと復帰した。ドーデの《月曜物語》中の〈最後の授業〉は,この地方の民族の悲劇を描いたものとして著名である。
アルザス
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