日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポアンカレ」の意味・わかりやすい解説
ポアンカレ(Jules Henri Poincaré)
ぽあんかれ
Jules Henri Poincaré
(1854―1912)
フランスの数学者、物理学者。ナンシーに医師の子として生まれる。5歳でジフテリアにかかり、以後、疲れるような遊びは禁じられ、読書するしかなくなったが、このことが彼の文才を育てたといわれる。1871年理工科大学校(エコール・ポリテクニク)を受験、1科目で0点があったが、彼の才能を見込んだ試験官は入学を認めた。1875年2番の成績で卒業、ついで鉱山学校に入学し、1879年鉱山技師となった。この間、時間の許す限り数学の研究を続け、微分方程式論に関する論文をパリ大学に提出して学位を得た。1879年終わりにカーン大学の講師に招かれ、1881年にはパリ大学に移り、1885年パリ大学教授となった。1887年にはパリ科学アカデミー会員となり、1906年にはアカデミー会長になった。なお、フランス第三共和政第9代大統領のR・ポアンカレは彼の従兄弟(いとこ)である。
ポアンカレの学問上の業績は広範囲である。若いころ、微分方程式によって定義される曲線族とともに一次変換群によって不変な一価解析関数、つまり保形関数の存在とこの関数の深い研究を行い、保形関数論の創始者の一人となった。またこの研究のなかで、非ユークリッド幾何のポアンカレのモデルを発見した。1892~1899年『天体力学の新しい方法』Les méthodes nouvelles de la mécanique céleste全3巻を出版、続いて『天体力学講義』Leçons de mécanique céleste全3巻(1905~1910)を刊行した。ポアンカレの天体力学上の成果をもとにしての、微分方程式の解の漸近級数展開、無限次行列式の収束問題、微分方程式の定性的性質の研究は、今日の力学系の理論の基礎を与えた。2変数の代数関数の研究、有理曲線の研究、多様体の概念の導入から今日の代数的位相幾何学における基本概念を導入し、三次元の閉じた多様体が1点に縮むとき、この多様体は球になるというポアンカレ予想も発表した。この予想は五次元以上のときは早期に解かれたが、三次元の場合、1世紀の間未解決のままだったが、2003年ロシアの数学者G・ペレルマンGrigori Y. Perelman(1966― )が「リッチ・フロー」とよばれる方程式を用いて証明した。閉じた曲線上の測地線の研究は今日の大局的解析学の基礎となった。さらに次元とは何か、を初めて研究した。また確率論での基本法則を抜き出す仕事もポアンカレによって始められた。ポアンカレは優れた科学評論家でもあった。彼の思想は『科学と仮説』(1902)、『科学の価値』(1905)、『科学と方法』(1908)や『晩年の思想』『科学者と詩人』などのなかにみられる。
[井関清志]
『河野伊三郎訳『科学と仮説』(岩波文庫)』
ポアンカレ(Raymond Nicolas Landry Poincaré)
ぽあんかれ
Raymond Nicolas Landry Poincaré
(1860―1934)
フランスの政治家。弁護士として早くから頭角を現し、1887年代議士に当選、自由主義的共和派たる「進歩派」(プログレシスト)に属した。たちまち弁論と財政家的力量をもって名声を得、周囲にバルトゥー、デルカッセらの気鋭の政治家を集めて新しい強力な保守グループを形成し、文相(1893)、財務相(1894)、下院副議長(1895)を歴任した。しかし、ドレフュス事件の過程で、左翼が政府に参加した時期には、政治の中枢から離れている。この間1903年に上院議員となった。1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)に際しては、急進派カイヨー内閣の失敗の後を受けて翌1912年有力者を連ねた強力内閣を組織し、国内世論を背景に対ドイツ強硬政策を貫き、モロッコを保護国とすることに成功した。またこれによって生じたドイツとの対立に対処するため三国協商の強化に奔走した。1913年2月、クレマンソーの推す急進派の候補者を破って大統領に選出されたときは「対独復讐(ふくしゅう)大統領」として大衆の喝采(かっさい)を博した。しかし第一次世界大戦が長期化し、兵士、国民の士気が低下して危機的段階に入った1917年11月、政敵クレマンソーをその鉄腕に期待して首相に起用し、強力な戦争指導を行わせて勝利を得た。
戦後の任期満了後上院に復帰し、ブリアン内閣の対独(対英)和解政策に反対して、これの辞職後は自ら首相となり(1922)、賠償の「担保とり」政策としてドイツのルール地方を占領した。これは完全な失敗に終わって下野したが、1926年左翼連合政権の経済政策失敗の後を受けて挙国一致内閣を組織した。議会から全権委任を得て増税のうえ財政を均衡させ、1928年6月フランを5分の1に切り下げ(いわゆる「ポアンカレ・フラン」)、これによって輸出を増大させ、国債の償還を容易にし、経済を安定させた。1929年7月病により辞任、1934年10月15日死去。
[石原 司]