デジタル大辞泉 「ポアンカレ」の意味・読み・例文・類語
ポアンカレ(Poincaré)
(Raymond Nicolas Landry ~)[1860~1934]フランスの政治家。のいとこ。蔵相・外相・首相を歴任後、大統領。在任1913~1920。軍備拡大と三国協商の強化により第一次大戦を勝利に導いた。戦後も首相となり、1923年にはルールを占領、1926~1929年には挙国一致内閣を率いて財政危機を克服した。
フランスの数学者、物理学者。ナンシーに医師の子として生まれる。5歳でジフテリアにかかり、以後、疲れるような遊びは禁じられ、読書するしかなくなったが、このことが彼の文才を育てたといわれる。1871年理工科大学校(エコール・ポリテクニク)を受験、1科目で0点があったが、彼の才能を見込んだ試験官は入学を認めた。1875年2番の成績で卒業、ついで鉱山学校に入学し、1879年鉱山技師となった。この間、時間の許す限り数学の研究を続け、微分方程式論に関する論文をパリ大学に提出して学位を得た。1879年終わりにカーン大学の講師に招かれ、1881年にはパリ大学に移り、1885年パリ大学教授となった。1887年にはパリ科学アカデミー会員となり、1906年にはアカデミー会長になった。なお、フランス第三共和政第9代大統領のR・ポアンカレは彼の従兄弟(いとこ)である。
ポアンカレの学問上の業績は広範囲である。若いころ、微分方程式によって定義される曲線族とともに一次変換群によって不変な一価解析関数、つまり保形関数の存在とこの関数の深い研究を行い、保形関数論の創始者の一人となった。またこの研究のなかで、非ユークリッド幾何のポアンカレのモデルを発見した。1892~1899年『天体力学の新しい方法』Les méthodes nouvelles de la mécanique céleste全3巻を出版、続いて『天体力学講義』Leçons de mécanique céleste全3巻(1905~1910)を刊行した。ポアンカレの天体力学上の成果をもとにしての、微分方程式の解の漸近級数展開、無限次行列式の収束問題、微分方程式の定性的性質の研究は、今日の力学系の理論の基礎を与えた。2変数の代数関数の研究、有理曲線の研究、多様体の概念の導入から今日の代数的位相幾何学における基本概念を導入し、三次元の閉じた多様体が1点に縮むとき、この多様体は球になるというポアンカレ予想も発表した。この予想は五次元以上のときは早期に解かれたが、三次元の場合、1世紀の間未解決のままだったが、2003年ロシアの数学者G・ペレルマンGrigori Y. Perelman(1966― )が「リッチ・フロー」とよばれる方程式を用いて証明した。閉じた曲線上の測地線の研究は今日の大局的解析学の基礎となった。さらに次元とは何か、を初めて研究した。また確率論での基本法則を抜き出す仕事もポアンカレによって始められた。ポアンカレは優れた科学評論家でもあった。彼の思想は『科学と仮説』(1902)、『科学の価値』(1905)、『科学と方法』(1908)や『晩年の思想』『科学者と詩人』などのなかにみられる。
[井関清志]
『河野伊三郎訳『科学と仮説』(岩波文庫)』
フランスの政治家。弁護士として早くから頭角を現し、1887年代議士に当選、自由主義的共和派たる「進歩派」(プログレシスト)に属した。たちまち弁論と財政家的力量をもって名声を得、周囲にバルトゥー、デルカッセらの気鋭の政治家を集めて新しい強力な保守グループを形成し、文相(1893)、財務相(1894)、下院副議長(1895)を歴任した。しかし、ドレフュス事件の過程で、左翼が政府に参加した時期には、政治の中枢から離れている。この間1903年に上院議員となった。1911年のアガディール事件(第二次モロッコ事件)に際しては、急進派カイヨー内閣の失敗の後を受けて翌1912年有力者を連ねた強力内閣を組織し、国内世論を背景に対ドイツ強硬政策を貫き、モロッコを保護国とすることに成功した。またこれによって生じたドイツとの対立に対処するため三国協商の強化に奔走した。1913年2月、クレマンソーの推す急進派の候補者を破って大統領に選出されたときは「対独復讐(ふくしゅう)大統領」として大衆の喝采(かっさい)を博した。しかし第一次世界大戦が長期化し、兵士、国民の士気が低下して危機的段階に入った1917年11月、政敵クレマンソーをその鉄腕に期待して首相に起用し、強力な戦争指導を行わせて勝利を得た。
戦後の任期満了後上院に復帰し、ブリアン内閣の対独(対英)和解政策に反対して、これの辞職後は自ら首相となり(1922)、賠償の「担保とり」政策としてドイツのルール地方を占領した。これは完全な失敗に終わって下野したが、1926年左翼連合政権の経済政策失敗の後を受けて挙国一致内閣を組織した。議会から全権委任を得て増税のうえ財政を均衡させ、1928年6月フランを5分の1に切り下げ(いわゆる「ポアンカレ・フラン」)、これによって輸出を増大させ、国債の償還を容易にし、経済を安定させた。1929年7月病により辞任、1934年10月15日死去。
[石原 司]
フランスの政治家。1887年弁護士から下院議員に当選し,漸進的保守派であった〈進歩派〉に属した。1893年には早くも文相となり,翌年蔵相に転じ,次いで下院副議長を務めた。ドレフュス事件後の急進派高揚期には野にあってこれと対抗し,この間1903年に上院議員となった。12年1月第2次モロッコ事件に際しては指導力を失った急進派内閣に代わって挙国一致内閣を組織して,ドイツに対する強硬態度を貫き,モロッコの保護国化に成功した。翌年2月には宿敵クレマンソーの推す候補者を破って大統領に当選し,イギリス,ロシアを訪問して三国協商のきずなを強化した。第1次世界大戦勃発後は戦争指導に精力を注いだが,フランス大統領職の制度的無力,戦局膠着と前線・後方にひろがった厭戦気分,議会内の政争に悩まされた。17年11月ついに年来の政敵クレマンソーを,その鉄腕に期待して首相に任じた。この選択がフランスに勝利をもたらした。戦後の任期終了後の22年再度首相となり,賠償不払いを名としてルール地帯占領という対ドイツ強硬策に出て失敗し,下野した。続く左翼連合政権が経済・財政政策に失敗したあとをうけて,ポアンカレは26年7月第3次内閣(挙国内閣)を組織し,フランを1/5に切り下げ(いわゆる〈ポアンカレ・フラン〉),輸出の増進,景気の回復,財政の再建に成功した。29年7月病を得て辞任。1909年にはアカデミー・フランセーズ会員に選ばれている。
執筆者:石原 司
フランスの数学者,哲学者。ナンシーに生まれ,エコール・ポリテクニクを卒業,1881年パリ大学教授,87年アカデミー・デ・シアンス会員,1908年アカデミー・フランセーズ会員。数学者としては,微分方程式論に新境地を開き,〈フックス関数〉を発見,また,天体力学的数学を出発点とした太陽系生成論など,物理学的関心も濃厚だった。三体問題に関する論文(1889),《天体力学》全3巻(1892-99)は著名。さらに晩年は,トポロジー概念の基本をつくり上げた。彼の晩年と重なる数学基礎論的な展開にあっては,ヒルベルトらの公理主義的方法にはむしろ批判的であった。哲学的態度としては,その規約主義(コンベンショナリズム)が注目される。すなわち,数学的法則と同様,自然科学の法則も,規約としての意味をもち,規約であるがゆえにその真理性が保証される,と唱えた。とくに幾何学理論としてのユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の対立,それに絡む物理理論としての古典論と相対論との関係に関して,いずれの場合にも,正否が問題なのではなく,どの規約をとることが〈便利〉なのか,という問題しか存在しないという立場をとった。主著は〈科学三部作〉といわれる《科学と仮説》(1902),《科学の価値》(1905),《科学と方法》(1909)。なお,政治家レーモン・ポアンカレは彼の従弟にあたる。
執筆者:村上 陽一郎
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…さらに19世紀後半になると,J.W.R.デデキント,M.B.カントールにより実数の概念が確立するとともに,カントールによる点集合論の研究がはじまる。このような状況の下で,位相幾何学が学として独立の分野を確立するのは,H.ポアンカレによってである。1895年にはじまるポアンカレの位相幾何学に関する一連の研究は,ホモトープhomotopicとホモローグhomologusという二つの概念を基礎にしている。…
…他方,哲学の領域においては,とくに,20世紀初頭以来,過去の思弁的形而上学に対する反感と批判がさまざまな形の言語分析の哲学を生み,すでに,一種の科学批判の学として成立していた現象学とも間接的に相たずさえて,科学内部における問題意識にこたえて科学哲学を生み出すのである。かくして現れた最初の科学哲学が,マッハ,ポアンカレ,デュエムらの科学者による科学論であり,そして,1930年前後のウィーン学団の新しい活躍の中で,〈科学哲学〉という名称が現代的な意味において徐々に定着していくことになるのである。
[科学哲学の課題]
(1)科学的世界観の確立 現代の科学哲学は1930年代の論理実証主義の勃興を機に始まったと考えられるが,そこでまず急務とされたのは,過去の形而上学的世界観を排して,科学に基づく新しい世界観を確立することであった。…
…リーマンは前記の講演において,n次元多様体の概念を導入して空間の概念を拡張し,その幾何学を考えることを提唱したが,ベッチE.Betti(1823‐92)はその考えに沿って多様体の高次元連結度を表す位相的不変量としてのベッチ数の概念を得た(1870)。このような先駆的業績の後,位相幾何学の基礎がH.ポアンカレによって築かれた。彼はn次元多様体を明確に定義して,それは各点の近傍がn次元ユークリッド空間と同相な点集合であるとし,多様体は多面体,すなわち単体とか胞体と呼ばれる初等的図形をある一定の方法で連接させてできる図形,として組合せ的に取り扱うのが便利であるとした。…
…カントを規約主義者と呼ぶことはできないが,カント的な認識論は,客観的妥当性を,主観の側に属する認識の形式としての思惟の形式,すなわち範疇(はんちゆう)(カテゴリー)に求めたという点で,規約主義的な立場の可能性を切り開いたといえる。ポアンカレは,法則のア・プリオリな真理性を,概念規定として把握するという大胆な主張を展開した。この主張によれば,例えば空間がユークリッド的であるか,非ユークリッド的であるか,どちらが正しいかを問うことは意味がない。…
…ユークリッド幾何学,非ユークリッド幾何学がともに成り立つというのは,(A,E),(A,Ē)とも無矛盾であるという意味であった。(A,Ē)の無矛盾性が確認されたのは,そのモデルが(A,E)の中につくられることがA.ケーリー,F.クライン,H.ポアンカレらによって示されたからである。ヒルベルトはさらに実数を用いて(A,E)の諸命題が成り立つモデルをつくり,(A,E)の無矛盾性を示した。…
…ラプラスはまた《天体力学》全5巻(1799‐1825)の著者としても知られるが,本書によって〈天体力学〉ということばとともにその体系を築いたといえる。 19世紀に入ると,天体力学の研究はC.F.ガウス,J.ヤコビ,U.J.J.ルベリエ,J.C.アダムズ,S.ニューカム,G.W.ヒル,H.J.ポアンカレなどの多くの学者によって行われてその全盛時代を迎えた。とくに天王星の運動の不整から純理論的に未知惑星(海王星)の予想位置を計算し,実際の発見にまで導いたことは,天体力学の勝利とうたわれた。…
…また,この構造が内容や方法上で問題となる数学のことを広くトポロジー(訳して位相数学)と呼ぶこともあるが,ふつうはもっと狭く,図形の位置や形状に関する性質で,図形を構成する点の連続性にのみ依存するものを研究の対象とする数学のことをトポロジー(訳して位相幾何学)と呼ぶ。リスティングJ.B.Listingは1847年に著書《Vorstudien zur Topologie》を出版し,トポロジーということばを使っているが,この数学の実質的創始者であるH.ポアンカレは,この数学をanalysis situs(位置解析学)と呼び,長らくこのことばが使われていた。トポロジーということばが普及したのはS.レフシェッツの著書《Topology》(1930)の影響が大きい。…
…これらに対応してユークリッド幾何学は放物幾何学と呼ばれる。 19世紀の終りころには,非ユークリッド幾何学のモデルをユークリッド幾何学の中に作るという仕事がE.ゲーリー,F.クライン,E.ベルトラミ,H.ポアンカレらによってなされた。例えば,ポアンカレが《科学と仮説》(1902)に記述しているモデルは次のようである。…
※「ポアンカレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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