1880年代後半のフランスにおいて、ブーランジェ将軍を中心に引き起こされた反議会主義的社会運動。
1880年代の第三共和政をリードしていた保守的共和派の路線は、オポルチュニスム(日和見(ひよりみ)主義)とよばれ、大銀行資本の利害には忠実であったが、共和主義的改革への取り組みは十分でなかった。しかも、82年以降の不況で失業者が増大するなど、大衆の不満が鬱積(うっせき)していた。このような状況のもとで陸相となったブーランジェは、炭坑ストで坑夫に共感を示して労働者に歓迎され、さらには兵制の民主化や独仏国境紛争での強硬姿勢によって、一躍国民的英雄ともてはやされた。
彼の大衆的人気は、プロイセンとの戦争(プロイセン・フランス戦争、1870~71)に敗れて以後国民の間に広く存在した対独復讐(ふくしゅう)熱をあおるものであり、ビスマルク外交の前に弱腰なフェリーらオポルチュニストの対外政策ともまっこうから対立するものであった。そのため、87年に彼が陸相を更迭され、地方の軍司令官への左遷が決定されると、パリではこの措置に反対する大衆運動が爆発し、ブーランジェはにわかに反オポルチュニスム諸潮流を糾合するシンボル的存在となった。すなわち、極左のブランキ派、デルレードPaul Déroulède(1846―1914)の率いる「愛国者同盟」、さらにはボナパルト派から右翼王党派に至るまで、左右の急進的諸派がブーランジェを担ぎ出し、「議会解散、憲法改正」を旗印に華々しい街頭キャンペーンを展開した。
1888年に入ると、このような議会外大衆運動の盛り上がりを背景に、ブーランジェは各地の補欠選挙に次々と勝利を収め、かつてナポレオン3世が行ったように一種の人民投票的運動の積み重ねによって世論をあおった。翌年1月のパリの補選で、議会主義共和派の統一候補に圧勝した夜、「ブーランジスム」は最高潮に達し、首都は文字どおりクーデター前夜の熱気に包まれた。だが、彼はこの決定的瞬間に支持者の促すエリゼ宮への進撃を逡巡(しゅんじゅん)するという失態を演じた。逆に反撃に転じた政府の訴追を恐れてベルギーに逃亡(1889年2月)、欠席裁判で無期国外追放の処分(同年8月)を受けてブーランジスムは終息する。
ブーランジスムは、議会外民衆運動に依拠して反議会主義、人民投票型民主主義を標榜(ひょうぼう)し、左右の諸派を糾合した点で、ナポレオン3世時代に現れたボナパルティスムと共通している。しかし、その支持基盤が大都市と北部工業地帯にほぼ限定され、都市急進運動の色彩が濃厚であった点で、後者と異なっている。そのため、第三共和政の支柱である農村に浸透することができず、かえってオポルチュニストと急進共和派との議会主義的結合による共和制の再編強化を促す結果となった。この民衆運動の熱気は、1890年代に入ると、社会主義とサンジカリスムの興隆、および右翼ナショナリズムに継承され、世紀末には、ドレフュス事件においてふたたび燃え上がることになる。
[谷川 稔]
『大仏次郎著『ブーランジェ将軍の悲劇』(1971・朝日新聞社)』▽『中木康夫著『フランス政治史 上』(1975・未来社)』
ブーランジェGeorges Ernest Jean Marie Boulanger(1837-91)将軍を中心に,1880年代後半のフランス政治をゆるがした一連の動きをいう。第三共和政初頭を支配した共和派は,オポルチュニスト(日和見派)とよばれた。ブーランジェは,これと対立するクレマンソーらの急進派に推され,86年1月から87年5月まで陸軍大臣を務めた。軍にかかわる改革,ことに共和主義的改革や兵制の民主化などの措置で名をあげた彼は,名門の出でないだけに,いっそう大衆的人気の的になる。普仏戦争に敗れ,ドイツにアルザス・ロレーヌを奪われた当時のフランスには,対独復讐という無視しえぬ空気が流れていた。ことに87年春に独仏間の緊張を高めたシュネブレ事件の際の彼の強硬な態度は,彼の〈復讐将軍〉としての人気を高めて,ブーランジェの肖像や歌がはやりだす。ドカズビルでの坑夫の大ストライキのとき,派遣された軍隊に衝突を避けるよう指示した彼は,労働者の間にも支持基盤をつくった。
こうして,87年5月に大臣職を去り左遷された時,ブーランジェは体制の現状に不満を持つさまざまな人々の熱いまなざしをうけはじめていた。急進派の一部や対独復讐をさけぶ愛国者同盟,クーデタをねらうボナパルト派,運動資金を提供することになる王党派,そしてなによりも80年代の不況にあえぐ大衆,これら異質の部分が彼をかつぎ,あるいは彼に期待をよせた。指導者というよりも象徴的存在であった。ことに共和体制転覆をねらう右派にとってはかっこうの道具であった。叙勲にまつわる87年秋の醜聞事件は,オポルチュニスト体制への不満をあおった。パリは蜂起寸前にあるとさえみえた。
翌88年にはブーランジストを名のる新聞が出され,さまざまな大衆的地区組織がつくられていく。だが,雑多な部分から構成された運動の合言葉は,議会解散と憲法改正というだけの内容曖昧なものであった。運動は,補選があるたびに彼を候補にして,選挙運動を軸に展開された。88年4月に退役させられた彼は,逆にそれにより被選出資格を得,ノール県で当選して議会に登場した。かつて彼をかつぎ出した急進派は,いまや右派をも含んだ彼の人気と独裁を警戒し,共和派を糾合して反ブーランジェ戦線を形成した。89年1月のパリでの補選が,対決の最大のやまとなった。ブーランジェは圧勝し,支持者によりクーデタが画策される。だが本人が実力行使をためらった。これが曲り角だった。2月はじめ,政府は選挙方式を変更し,逆襲に転ずる。逮捕の噂に恐れをなしたブーランジェは,国外逃亡という失策をおかす。8月,欠席裁判は無期流刑を告げた。柱を失った運動は急速に弱体化し,異質な構成要素は分裂していく。王党派との秘密提携が暴露されるにおよんで,民衆的支持も急激に退潮した。ブーランジェ自身は91年,愛人の死を追って自害し,運動を構成してきた少なからぬ部分は,ナショナリスト右翼として,やがてドレフュス事件に流れ込んでゆく。
執筆者:福井 憲彦
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1887~89年にフランスの元陸相ブーランジェの周辺に結集した反議会主義,排外的愛国主義の運動が第三共和政の危機をもたらした事件。ブーランジェはドイツに対する復讐,議会解散,憲法改正を主張して,議会や政府の腐敗に反発するあらゆる不満分子を糾合することに成功し,1889年にクーデタ決行寸前の状態となったが,その決断力の不足が幸いして事なきを得た。
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