三十年戦争(1618-48)を終結させた条約。1645年からドイツのウェストファリアWestphalia(ドイツ語ではウェストファーレン)地方のミュンスターとオスナブリュックとに分かれて講和会議が開かれ,各国の利害が衝突して長引いたすえ,1648年10月24日に調印された。参加国は,ドイツの領邦国家も一国と数えて,総計66国で,それまでのヨーロッパ史上最大の国際会議であった。
領土関係については,スウェーデンは西ポンメルンとブレーメン大司教領,フェルデン司教領,ウィスマルを獲得し,フランスはメッツ(メス),トゥール,ベルダンの3司教領とアルザスのハプスブルク家領の領有を認められた。ブランデンブルクは東ポンメルン,マクデブルク大司教領,ミンデン司教領などを獲得し,バイエルンは南ファルツの領有と選挙侯位を認められ,ファルツ伯はライン川流域のファルツ領と選帝侯位を回復し,スイスとオランダは独立国の地位を承認された。
宗教関係では,教会領については,1624年を基準の年としてその原状に戻すことが決められ,また1555年のアウクスブルクの宗教和議で認められなかったカルバン派は,ルター派と同等の資格で承認された。ドイツの帝国体制については,領邦諸侯と帝国都市は,皇帝と帝国を敵としないかぎり,相互の間で,また外国とも同盟する権利を認められ,皇帝は帝国としての宣戦と講和の権利を帝国議会に譲渡した。
この条約の結果,それまでヨーロッパで優位を誇ったハプスブルク家の勢力は後退し,フランスとスウェーデンが強国として台頭するとともに,ドイツ内部ではブランデンブルクが勢力を伸ばすことになった。また神聖ローマ帝国内の分立主義はいよいよ決定的となって,帝国は名目的存在と化し,さらにフランス,スウェーデンが割譲地の領有者の資格で帝国議会に議席をえたことにより,両国によるドイツへの干渉の可能性をつくることになった。
→三十年戦争
執筆者:中村 賢二郎
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三十年戦争(1618~1648)を終結させた条約。講和会議は、1645年からドイツのウェストファーレンWestfalen(ウェストファリアWestphaliaは英語名)地方のミュンスターとオスナブリュックとに分かれて開かれていたが、1648年10月24日にようやく調印された。この条約により、スウェーデンは西ポンメルンとブレーメン大司教領、フェルデン司教領などを、フランスはメス、トゥール、ベルダンの3司教領とアルザスのハプスブルク家領を獲得し、ブランデンブルクは東ポンメルン、マクデブルク大司教領、ミンデン司教領などの領有を、バイエルンは南プファルツの領有と選帝侯位を認められ、スイスとオランダは独立国の地位を承認された。また、教会領については、1624年の状態に戻すことが決められ、また1555年のアウクスブルクの和議で否認されたカルバン派もルター派と同じ資格で承認された。そのほか、ドイツの領邦諸侯と帝国都市は、皇帝と帝国を敵としない限りという条件付きながら、相互の間で、また外国とも同盟する権利を認められた。この条約の結果、それまでヨーロッパで優越的な地位を占めていたハプスブルク家の勢力は後退し、フランスとスウェーデンが強国として台頭するとともに、ドイツ内部ではブランデンブルクの勢力が伸張することになった。一方、ドイツ帝国(神聖ローマ帝国)内の分立主義はいよいよ決定的となり、帝国は名目的存在にすぎなくなった。
[中村賢二郎]
1648年10月24日締結の三十年戦争の講和条約。カトリックのフランスとルター派のスウェーデンが北西ドイツ,ウェストファリア地方の都市ミュンスターとオスナブリュックで別々に皇帝側と協議・調印した両条約の総称(内容はほとんど同一)。主な内容は次のとおり。(1)フランスはアルザス地方でハプスブルク家が持っていた諸権利とメッツ,トゥール,ヴェルダンの諸司教領を移譲され,スウェーデンは西ポメルン,ブレーメン司教領その他を,ブランデンブルクは東ポメルン,マグデブルク大司教領その他を,それぞれ入手。(2)ドイツの領邦君主はその領土に関し外交主権を含むほとんど完全な独立主権(領邦主権)を認められた。(3)宗教についてはアウクスブルクの宗教和議を確認したうえ,カルヴァン派もルター派と等しい権利を認められた。(4)スイス,オランダの独立の正式承認。この条約の結果,中世以来のドイツの権力分立状態は国際的な承認を得ることになった。
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…フランドルとバルト海の間の交易の仲介地点として,また周辺農村の亜麻布生産やリンネル生産を背景として,オスナブリュックは13世紀には経済的にも躍進しハンザ同盟に加盟した。三十年戦争のなかで1633年にはオスナブリュックはスウェーデン軍に占領され,1648年のウェストファリア条約はオスナブリュックの市参事会堂で締結され,この町を一躍有名にした。オスナブリュックの市民共同体は司教権力からの自由を求めつづけ,帝国直属都市になろうと努力していたが,実現にはいたらなかった。…
…宗教改革プロテスタンティズム
【近代カトリック教会】
宗教改革が進行するにつれてヨーロッパは大きな混乱に陥った。ドイツ領主間の争い,ユグノー戦争,三十年戦争があいつぎ,ウェストファリア条約(1648)に至るまでの1世紀間,新旧両派の争いが絶えなかった。結果的にはユグノー戦争はフランスに人民主権の思想を起こし,三十年戦争は神聖ローマ帝国を消滅に導いたので,その間のカトリック側の〈反宗教改革〉と,これを支えた広範な再生運動とは,みずからの意図と,異なる方向へ進んだといってよい。…
…こうした業績により,グロティウスは〈国際法の父〉と呼ばれるようになった。また,制度の面では,三十年戦争を終結させたウェストファリア条約(1648)の締結によって,カトリック勢力とプロテスタント勢力の間,および諸国の間の休戦が合意され,おたがいに,領土と主権を尊重し,内政には干渉しないという了解が成立し,その後の国際秩序の基礎が形成された。この形成期の国際法は,基本的には,君主と君主の間の,主として政治的関係を規律する法として機能し,抽象的な国家と国家の間の法として認識されるようになるのは,18世紀に入って以後のことである。…
…民族国家は,近世ヨーロッパを舞台にして,17世紀中ごろ以降,その誕生をみた。三十年戦争に決着をつけたウェストファリア条約(1648)が,民族国家体系を成立せしめる歴史の一大契機となった。それ以前の国際社会は,なによりも政治と宗教とが未分化の中世世界であった。…
…彼の下でスペインは幾重にも戦争に関与,急上昇する軍事費の重荷にその財政と経済の崩壊はやがて陸海両軍の大敗となって露呈した。北フランドル(オランダ)の独立を承認するウェストファリア条約(1648)は〈スペイン帝国〉に大きな節目を付けるものだった。この後,スペインは隆盛期に入ったフランスの攻勢の前に南フランドルその他の領土を失う一方,1640年以来既成の事実だったポルトガルの独立も承認してその版図を大きく縮めた。…
…1555年のアウクスブルクの宗教和議は〈住民の信仰はその地の領主の信仰に従う〉原則を定めたが,これは以上の流れからする当然の帰結であったといえよう。なおこの原則は,三十年戦争を終わらせたウェストファリア条約において,カルバン派諸侯をも公認してもう一度確認されるが,このときにはすでに,宗派を問わず,ドイツの領邦国家体制は動かし難く確立していた。皇帝はこの事実を認め,この条約においてドイツの諸侯と独立の諸都市に対し,外国との同盟締結権をも含む完全な領邦主権を承認する。…
…このことからも,諸侯による諸権利の獲得,したがって領邦支配権(ランデスヘルシャフト)の形成が長期にわたる歴史的発展の結果であることが知られるが,諸侯領が領邦国家といいうる形の支配体制をととのえる画期が,大空位時代(1256‐73)を含む13世紀であったことも,確かなことである。領邦国家の皇帝に対する自立度の強化と領内支配は中世末期にいっそう進んだが,領邦国家が独立国家に近い権利を正式に承認されたのは,1648年のウェストファリア条約においてのことであった。この時期の領邦国家の数はおよそ300にも達したが,しかしそれらの中で国家と呼びうるほどの領域と制度をもっていたのは,少数の大諸侯領だけで,他は家産的侏儒国家にすぎなかった。…
※「ウエストファリア条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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