アルフォンソ1世(読み)アルフォンソいっせい[せんとうおう](その他表記)Alfonso I, el Batallador

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルフォンソ1世」の意味・わかりやすい解説

アルフォンソ1世(戦闘王)
アルフォンソいっせい[せんとうおう]
Alfonso I, el Batallador

[生]1073頃
[没]1134.9.8. フラガ
アラゴン=ナバラ王 (在位 1104~34) 。サンチョ5世 (サンチョ・ラミレス) の子。兄ペドロ1世の跡を継いで即位カスティリアレオン女王ウラッカと結婚,4つのキリスト教王国は一つにまとまったが,カスティリア=レオンはアラゴン人の王に対して反感をもち紛争が絶えず,聖職者も介入し,中央では内乱がたびたび起っていた。しかしウラッカの死によってカスティリア=レオンの領有を放棄した。その治世の後半は国土回復運動に注がれ,エブロ渓谷での戦いに大勝利を収めてムーア王国の重要な都市サラゴサを攻め落し,これを首都とした (18) 。また南アンダルシア方面にも出征し,多くの移民を新領土に配置した。これらの勝利でアラゴンはイベリア半島における強国となった。またこれらの一連の戦いに,ピレネー北部の諸王国から多くの援助を得たうえ,1116年にはツールーズ伯がアルフォンソの臣下となり,アラゴンの南フランスへの政治的介入の端緒となった。

アルフォンソ1世[エステ家]
アルフォンソいっせい[エステけ]
Alfonso I, d'Este

[生]1476.7.21. フェララ
[没]1534.10.31. フェララ
フェララ公 (在位 1505~34) 。エルコレ1世の子。文芸家を保護して芸術振興に努め,また機械知識大砲の設計者として全ヨーロッパに知られた。イタリア戦争渦中でフランスと同盟し,教皇庁の勢力拡大を防いだ。 1501年にルクレツィア・ボルジアと結婚し,7人の子をもうけた。

アルフォンソ1世[アストゥリアス王]
アルフォンソいっせい[アストゥリアスおう]
Alfonso I

[生]693頃
[没]757
アストゥリアス王 (在位 739~757) 。初代アストゥリアス王ペラヨ女婿イスラム教徒の内乱を利用して国土回復運動を進め,ガリシアを合併,アストゥリアス山脈南方まで遠征した。

アルフォンソ1世[ナポリ王]
アルフォンソいっせい[ナポリおう]

「アルフォンソ5世(度量王)」のページをご覧ください。

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改訂新版 世界大百科事典 「アルフォンソ1世」の意味・わかりやすい解説

アルフォンソ[1世]
Alfonso Ⅰ
生没年:720ころ-757

第3代アストゥリアス王。在位739-757年。西ゴート系カンタブリア公の息子で,ペラヨの娘と結婚の後,母系制的王位継承原理に基づき国王となる。カスティリャ,アラバ,リエバナ,ガリシア地域へ統制権を拡大する一方,強大なイスラム勢力への軍事的対応のため,ドウロ河谷の西ゴート人をアストゥリアス王国内へ強制的に移住させ,同河谷沿いの旧来の諸都市を破壊するという戦略を採った。
アストゥリアス
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367日誕生日大事典 「アルフォンソ1世」の解説

アルフォンソ1世(エステ家の)

生年月日:1476年7月21日
フェララ,モデナ,レッジオの公
1534年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアルフォンソ1世の言及

【ナポリ王国】より

…14世紀後半に一時王位継承の争いによって国勢が衰えたが,ラディズラオLadislao d’Angio王(在位1386‐1414)のときには領土を拡大し,北の教皇領を侵略した。その死後ナポリ王国の政治は再び乱れ,アラゴン王アルフォンソ5世によって征服された(1442)。彼はすでにアルフォンソ1世としてシチリア王を兼ねていたので,〈両シチリア王〉を称した。…

※「アルフォンソ1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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