日本大百科全書(ニッポニカ) 「アストゥリアス」の意味・わかりやすい解説
アストゥリアス(スペイン)
あすとぅりあす
Asturias
スペイン北部、ビスケー湾に面する歴史的地方名。ほぼオビエド県の範囲にあたる。東西約200キロメートル、南北60~95キロメートル、面積1万0900平方キロメートルで、東西に長く、カンタブリカ山脈の北斜面に位置する。降水量が豊かで、気温は夏17~19℃、冬8~9℃と、温和な西岸海洋性気候である。そのためブナやカシなどの森林、永年牧草地がみられる。北は崖(がけ)になった海岸、南は高山で隔離され、ムーア人の支配を受けず、キリスト教徒の国土回復戦争(レコンキスタ)の拠点となった。山間の盆地や谷間に生活の中心があり、酪農が盛んである。西部のオビエド盆地には炭田があり、その埋蔵量と採掘量はともにスペイン最大で、数万人が採炭に従事している。ほかに鉄、亜鉛、鉛、銅の産出があり、豊かな水力および火力発電による電力を利用した重工業地帯を形成し、オビエドはその中心都市である。その外港ヒホンやアビレス、サンタンデルは重要な港湾・工業都市として発達している。
[田辺 裕・滝沢由美子]
歴史
紀元前1世紀、ローマの進出に対して先住のケルト・イベリア人が激しく抵抗し、前19年にスペインのなかでは最後にローマの支配下に入った。しかし地中海側地域に比べてローマ化は緩慢であった。5世紀初頭にゲルマン系のスエビ人が到来し、西ゴート王国に滅ぼされる6世紀後半まで、西半分がスエビ王国のもとにあった。8世紀初頭イスラムの侵入に脅かされたが、西ゴート王の末裔(まつえい)とされる貴族が逃げ込み、718年にアストゥリアス王国を打ち立てた。ついで722年に東部のコバドンガでイスラムに勝利を収め、コバドンガはレコンキスタの聖地となり、以後アストゥリアス王国は勢力を伸ばした。アストゥリアスがふたたび脚光を浴びるのは近代以降である。18世紀後半の啓蒙(けいもう)改革の時代に石炭鉱山の開発が始まり、19世紀中ごろには政府資金やベルギー、フランス、イギリスの外国資本によって、バスクの鉄鉱石と結び付いた製鉄、金属機械工業が進められた。鉱工業の発展は近代的労働者を生み出し、そのため労働運動や社会主義運動の中心地ともなった。1917年の共和制を目ざすゼネストをはじめ、第一次世界大戦以後は慢性的な石炭産業の不況もあって、王制、第二共和制、フランコ体制下において、政治体制を揺るがすような運動が行われた。なかでも、1934年10月の鉱夫を中心とした武装蜂起(ほうき)と、1962年の反フランコ体制ストライキ運動は有名である。
[中塚次郎]
アストゥリアス(Miguel Ángel Asturias)
あすとぅりあす
Miguel Ángel Asturias
(1899―1974)
グアテマラの作家。判事の子として10月19日グアテマラ市に生まれる。サン・カルロス大学法学部に学び、反独裁学生運動に参加、1923年パリへ脱出。ソルボンヌ大学でマヤの神話と宗教を研究し、『ポポル・ブフ』『シャヒル年代記』をスペイン語に翻訳、『グアテマラ伝説集』(1930)を発表した。一方、ブルトンなどシュルレアリストたちとの親交を深め、その理論とインディオの神話的世界から、独自の「魔術的レアリスム」を確立した。1933年に帰国後はジャーナリスト、1945年以降は外交官として活躍、晩年はフランス大使を務め、その間数々の作品を書き、1967年にノーベル文学賞を受賞。1974年6月9日マドリードで死去。遺言によりパリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。
彼の作品群は「ラテンアメリカの原型」といわれ、自身をラテンアメリカ現代小説の先駆的存在にまで高めた『大統領閣下』(1946)や、アメリカ資本ユナイテッド・フルーツを告発したバナナ小説三部作、『強風』(1949)、『緑の法王』(1954)、『死者たちの眼』(1960)などの政治・社会小説と、『とうもろこしの人間たち』(1949)、『ある混血の女』(1963)、『リダ・サルの鏡』(1967)など、現実の内奥、源流へとさかのぼっていく神話、伝説とに大別できるが、『マラドロン』(1969)、『四つのうちの三つの太陽』(1971)、詩集『春の夜のめざめ』(1965)にみられるように、スペイン語のもつ優美な音や語感を追求した作品もある。
[内田吉彦]
『牛島信明訳『グアテマラ伝説集』(『ラテンアメリカ文学叢書4』1977・国書刊行会)』▽『内田吉彦・木村栄一訳「大統領閣下」(『世界文学全集82』1981・集英社・所収)』▽『鼓直訳『緑の法王』(『世界革命文学選40・41』1967~1968・新日本出版社・所収)』