中世のスコラ神学者。南ドイツのシュワーベン出身。パドバ大学在学中に創立まもないドミニコ会に入り、その博学のゆえに「普遍的博士」doctor universalisとあだ名され、生存中から「偉大な者(マグヌス)」Magnusと尊称されるほどの権威を認められた。経験科学に深い関心を寄せ、つねに動植物・鉱物界の観察や天文学的研究を怠らず、この領域においては経験だけが確実性を与えるとして、アリストテレスの説であっても自らの観察結果に基づいて躊躇(ちゅうちょ)なく訂正した。彼は第一に神学者であったが、神学の研究と教育のためには、世界と人間に関する学、すなわち哲学が不可欠であり、そしてこのような世俗的学問に関してはアリストテレスが最善の教師であると確信した。この見地から、彼は「アリストテレス哲学のすべての部分をラテン世界の人間に理解可能なものたらしめよう」と計画し、アリストテレスのすべての主要著作の註釈(ちゅうしゃく)を書くことによって、この計画を実行に移した。パリ大学神学部教授(1245~1248)を務め、約2年間(1260~1261)レーゲンスブルク司教となったほかは、ケルンを本拠に著作と教育に従事し、同地で没した。
アリストテレス哲学を積極的に評価したが、彼の体系においてはアリストテレスの学説が、新プラトン哲学やイスラムのアビケンナ(イブン・シーナー)に由来する要素と混在している。彼はその弟子トマス・アクィナスにみられるような、体系的に一貫した独創的な形而上(けいじじょう)学を生み出したのではない。しかし、彼の思想を折衷的と評するのは一面的である。彼の天才は、前述の経験科学における先駆的研究とともに、アリストテレスやイスラム思想が、アウグスティヌスを初めとする教父たちの伝統とは全く異質の財宝を含んでいることを見抜き、それを手中に収めようとする努力において発揮されたのであり、その積極的意義は見落とすことができない。
[稲垣良典 2015年1月20日]
スコラ神学者,自然研究家。南ドイツ,ラウインゲンで騎士の家に生まれ,パドバ大学在学中にドミニコ会に入り,ケルンその他の修道院で神学を学び,また教えて後,1245年パリ大学神学部教授。このころトマス・アクイナスがアルベルトゥスの弟子となる。48年ケルン大学の前身であるドミニコ会神学大学ストゥディウム・ゲネラーレ創設のためケルンに移る。この後レーゲンスブルク司教,および教皇庁所属の神学者として活躍した時期を除くと,主としてケルンを本拠に著作,教育および仲裁・和解活動に従事。彼は当時の学問領域の全般にわたる学識のゆえに,〈全科博士doctor universalis〉と呼ばれ,存命中すでにアリストテレス,アビセンナ(イブン・シーナー),アベロエス(イブン・ルシュド)と並ぶ権威ある著作家とみなされたが,その多方面な研究活動の中心はつねに神学であり,キリストの福音の宣教をめざしていた。彼は哲学,つまり経験世界についての包括的で根元的な研究が神学にとって不可欠であることを認識し,アリストテレスの全著作を,彼自身の解釈と創見を加えた形でラテン世界に紹介することでこの要求を満たした。その成果は彼の著作のほぼ半分をしめ,百科全書の観を呈している。また,自然現象や動植物の観察に強い関心を示し,さまざまの魔術伝説が生まれたほどであるが,実際には彼の自然研究者としての功績は,当時優勢であった数学的方法による自然現象の説明に対抗して,固有の対象と方法をもつ自然学を確立したことである。
執筆者:稲垣 良典
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1193?~1280
ドミニコ修道会のスコラ哲学者。ドイツ貴族出身。アリストテレス哲学とキリスト教神学の融合をなしとげ,弟子のトマス・アクィナスによるスコラ哲学完成への道をひらいた。
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… 13世紀はキリスト教文芸復興として,多くの有名な神学者,論説家が輩出した。アルベルトゥス・マグヌス,その弟子であるトマス・アクイナス,フランシスコ会のR.ベーコンらはそのおもな者であるが,トマスには教皇ウルバヌス4世の命で聖体日のために作った数編のすぐれた賛歌や続唱があり,ことに《シオンよ,救主をたたえまつれ》は美しい詩である。しかし中世を通じ最大のラテン宗教詩は,トマーソ・ダ・チェラノTommaso da Celano(1190ころ‐1260ころ)の作とされる《怒りの日》で,最後の審判の日を歌い,今でも死者の葬送法会に常用される。…
…イスラム圏では,10世紀末に〈純潔兄弟団(イフワーン・アッサファー)〉と呼ばれる秘密結社の知識人集団が自然誌《純潔兄弟の学(ラサーイル・イフワーン・アッサファー)》を著したが,さらに膨大で影響力の大きかったのは11世紀のイブン・シーナーで,彼の自然誌は《治癒の書》と題された18巻の大著である。12世紀以後ヨーロッパでも自然誌への関心が高まり,プリニウスの抜粋本が多くつくられたほか,13世紀に入ってバーソロミューBartholomewの《事物の特性について》,ザクセンのアルノルトArnold von Sachsenの《自然の限界について》,カンタンプレのトマThomas de Cantimpréの《自然について》,バンサン・ド・ボーベの《自然の鏡》,アルベルトゥス・マグヌスの《被造物大全》など多くの自然誌を生んだ。この傾向はルネサンス時代にさらに進み,いわゆる〈地理上の発見〉によって珍しい動植物がヨーロッパにもたらされたうえ,印刷技術が進んだので各種の図譜が刊行され,ついに16世紀にゲスナーやアルドロバンディによって正確で網羅的な自然誌が出された。…
…この時期,普遍(類と種)をめぐる論争(普遍論争)が盛んに行われた。 13世紀の盛期スコラ学の特徴は,学としての神学の成立であり,いいかえると,アルベルトゥス・マグヌス,トマス・アクイナス,ボナベントゥラなどにおける,信仰と理性との偉大な総合である。その背景にはパリ,オックスフォードなどの大学における活発な学問活動,アリストテレス哲学の導入,ドミニコ会,フランシスコ会を先端とする福音運動の推進などの積極的要因が見いだされる。…
… 占星術を好んだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の寵を受けたM.スコットの《人相論》,三次方程式の解法で知られるG.カルダーノの《占星術的人相学》,教皇アレクサンデル6世に破門されて焚刑に処せられたG.サボナローラの伯父M.サボナローラが著した《人相学》など,いずれも占星術による人相学である。他方,11世紀のアラビア科学を代表するイブン・シーナーの《動物の諸本性》は,霊魂と動物の形態とを目的論的に説明して神の摂理を説き,これに触発されたアルベルトゥス・マグヌスは《動物について》の中で人相学を論じている。 そしてルネサンス期にはアリストテレスの作と信じられていた《人相学》が人文主義者たちに広く読まれて,動物類推の人相学も流行していった。…
…P.ディオスコリデスの《薬物誌De materia medica》には約600種の植物とその用法が記され,1世紀に公にされてから長いあいだ植物薬学の基準となっていた。その後,13世紀のアルベルトゥス・マグヌスの《植物論De vegetabilibus》を除けばめぼしい業績はなかったが,16世紀に至ってディオスコリデスの追加訂正の形でブルンフェルスO.Brunfels,フックスL.Fuchs,クルシウスC.de Clusiusらの植物の図解が次々と世に出たほか,16世紀末にはA.チェザルピーノの《植物学De plantis libri》がまとめられた。コルドゥスV.CordusやボーアンG.Bauhinらが薬物学としての植物学を大成させていくのと並行して,17世紀末から18世紀初頭にかけて,レイJ.RayやトゥルヌフォールJ.P.de Tournefortが種や属の概念を確立し,18世紀のリンネによる近代植物学への基礎固めが始められることになる。…
※「アルベルトゥスマグヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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