日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンドレ」の意味・わかりやすい解説
アンドレ(Carl Andre)
あんどれ
Carl Andre
(1935―2024)
アメリカの美術家、詩人。ミニマル・アートの代表的な作家の一人で、そのなかではもっとも遅れて知られるようになった芸術家である。マサチューセッツ州に生まれる。1951年から1953年にかけて、同州アンドーバーのフィリップス・アカデミーに通い、芸術を学ぶ。同時に映像作家、写真家のホリス・フランプトンHollis Frampton(1936―1984)とルームメイトとなり、彼を通じてフランク・ステラと知り合う。その後オハイオ州ガンビアのケニオン・カレッジに入学するが中退、機械工として就職、長期のヨーロッパ旅行、兵役などを経て、1957年ニューヨークに移る。ここで出版社の編集助手として働く一方、木材を使った彫刻をつくり始めた。
1958年、ステラに誘われアンドレは彼とアトリエを共有する。おりしもステラは、翌1959年発表されミニマル・アートの先駆となる「黒の絵画」シリーズ(1958~1960)を完成させようというところで、アンドレはそのすぐそばで彼の初期の代表的シリーズ「はしご」や「ピラミッド」などを制作していた。
同一の大きさの角材を規則的に積み上げたこれらアンドレの初期の作品には、まずコンスタンティン・ブランクーシの作品との関連が見て取れる。アンドレは長くブランクーシの、とくに「無限の列柱」シリーズを賞賛した。またそれらの作品はブランクーシの作品だけでなく、画面いっぱいにストライプを反復する(その結果むしろ画面のほうがストライプを繰り返すことでできているように見える)ステラの「黒の絵画」にも接近している。
ステラの「黒の絵画」は大きな反響をよび、彼は一躍注目を浴びることになるのだが、一方ステラの展覧会のために解説も執筆したアンドレはといえば、なかなか注目されなかった。画商や芸術家仲間の反応も鈍く、彼は1960年から1964年まで操車場で貨車の誘導係として勤務しながら、残った時間で詩や彫刻をつくらなければならなかった。ようやくその作品の価値が認められたのは、1964年から1965年にかけていくつかのグループ展に招かれたころからである。
彼の作品の理解が遅れたのは、おそらくあまりにも控えめなものと見えたせいであろう。同じ反復による作品といっても、たとえばステラやドナルド・ジャッドの場合には明快な色彩や金属的な質感があり、それが反復によっていっそう強く印象づけられるという特徴がある。ところが、素材の固有性を重視し、そこにある種の「生」や「歴史」をみいだすアンドレの場合、着彩とは「芸術家固有の欲望をぶつけること」であり許されることではない。その結果たとえばほとんど材木のようにしか見えない初期の「ピラミッド」シリーズのいくつかは、友人が作品と知らずに薪(まき)として燃やしてしまうことになる。
とはいえアンドレの作品の最大の価値もまた、愚直なまでの慎ましさへの執着にある。それは単に素材の慎ましさというだけでなく、その展示のされ方の慎ましさもあわせてのことである。彼の作品はその後、角材から鉄板、煉瓦(れんが)、ウレタンなどを素材とするようになるが、それらはいつでも加工されることなくそのままに、しかもとりたてて人目をひくような置かれ方ではなく、ただ床に横たわるようにして置かれる。薄い正方形の鉄板を床に敷き詰めてゆくシリーズでは、それを床の一部と取り違えてしまった鑑賞者が上を歩いてゆくことさえ認められている。詩作品もまた、単語をグリッド状に紙の上に配置してゆくなど、立体作品とよく似た構造をもっている。
[林 卓行]
アンドレ(Maurice André)
あんどれ
Maurice André
(1933―2012)
フランスのトランペット奏者。南フランスのガール県の炭鉱都市アレスに生まれる。炭鉱で働くかたわら炭鉱のアマチュア吹奏楽団に加わっていたが、才能をみいだされ、パリ音楽院に入学した変り種。初めオーケストラに入ったが、1955年ジュネーブ、1963年ミュンヘンの各国際コンクールで優勝、独奏活動に転じ、その華麗な音色で聴衆を魅了した。1973年(昭和48)初来日。20世紀最高のトランペットの名手で、この楽器の演奏技術の水準向上に大きく貢献した。パリ音楽院教授として後進の指導にも能力を発揮した。
[岩井宏之]