ブランクーシ(その他表記)Brancusi, Constantin

デジタル大辞泉 「ブランクーシ」の意味・読み・例文・類語

ブランクーシ(Constantin Brancusi)

[1876~1957]ルーマニア彫刻家。パリに定住。事物の本質、根源的生命力を追求することで極度に単純な抽象形態に到達。現代彫刻に多大な影響を与えた。作「空間の鳥」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ブランクーシ」の意味・読み・例文・類語

ブランクーシ

  1. ( Constantin Brancusi コンスタンタン━ ) ルーマニア出身のフランスの彫刻家。「空間の鳥」などの抽象的彫刻を作った。(一八七六‐一九五七

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブランクーシ」の意味・わかりやすい解説

ブランクーシ
Brancusi, Constantin

[生]1876.2.19. ルーマニア,ホビツァ
[没]1957.3.16. フランス,パリ
コンスタンティン・ブランクーシ。ルーマニア生まれの彫刻家。美しいフォルムと仕上がり,対象の本質を的確にとらえた抽象作品で知られ,現代彫刻に大きな足跡を残した。
貧しい農家の生まれで,幼い頃から商店などに奉公する。木彫木工の制作にすぐれ,1894年にクラヨバ美術工芸学校に進む。1898年,ブカレスト国立美術学校に入学しモデリング(成形)や解剖学を学ぶ。オーギュスト・ロダン名声を聞き及び,1904年にパリのエコール・デ・ボザールに入学,アントナン・メルシエの工房に入る。1906年にサロン・ドートンヌに出品したが,その後,写実彫刻を離れて直彫(じかぼり)による木彫や石彫を手がけるようになり,1907年にひざまずく少女を表した抽象作品『祈り』を制作した。パリのモンパルナスアトリエを構え,1908年に『眠れるミューズ』『接吻』の制作に着手,女性の卵形の頭部をかたどった前者は素材を変えながらいくつもつくられた。飛翔前に頭をもたげる鳥を造形した『マイアストラ』も 20年にわたり 28点制作された。1913年にアメリカ合衆国の国際現代美術展,アーモリー・ショーに出展したのを機に,長きにわたって作品を買い取るコレクターを獲得し,その後のアメリカでの重要な展覧会の開催や出品への足がかりとなった。アフリカ芸術にも傾倒し,1914年に木彫作品『放蕩息子』を制作した。1920年にサロンに出展した『王妃X』は猥褻であることを理由に撤去された。1937年と 1938年にルーマニアに帰り,トゥルグジウで『無限柱』『接吻の門』『静寂の机』の三つの屋外モニュメントを制作した(2024年世界遺産の文化遺産に登録)。1952年にフランス国籍を取得。1955年,ニューヨークソロモン・R.グッゲンハイム美術館(→グッゲンハイム美術館)で大回顧展が開催された。作品の多くは,アトリエが移築されているジョルジュ・ポンピドー国立芸術文化センターをはじめ,ニューヨーク近代美術館フィラデルフィア美術館に収蔵されている。そのほかの主要作品に『世界の始まり』『ポガニー嬢』『空間の鳥』の各連作など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブランクーシ」の意味・わかりやすい解説

ブランクーシ
ぶらんくーし
Constantin Brancusi
(1876―1957)

ルーマニアの彫刻家。トランシルバニア山脈の丘陵地帯にある農村ホビツァに生まれる。11歳のとき家を出て各地を放浪。1895年にクライオバの美術工芸学校に入学、さらに98年から3年間ブカレストの美術学校で彫刻を学ぶ。やがて故国を去り、1904年パリにたどり着く。翌年エコール・デ・ボザールに入学、アントナン・メルシエのアトリエで学ぶが、作品にはロダンの影響が顕著であった。06年と07年にはソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールのサロンに出品、ロダンの注目するところとなり、助手になるよう求められたが、「大木の下ではなにも育たない」といって断ったという。こうしたロダンの影響もしだいに影を潜め、07年から08年ころには単純で調和のとれた原初的なフォルムの追求へと歩を進めていった。『接吻(せっぷん)』では石の直彫(じかぼ)りによって、石本来の量塊性と、主題が要求するフォルムとの間に完璧(かんぺき)な融合を達成。また人間の首だけを横たえた単純で静謐(せいひつ)なフォルムの『眠れるミューズ』は、しだいに凝縮され、『プロメテウス』などを経て、ついには完全な卵型となり、20年代の『世界のはじまり』となる。13年にはニューヨークでのアーモリー・ショーに5点の作品を送り、以来アメリカで高い評価を得る。また14年ころから木彫を手がけるが、それらは、入念に磨き込まれた大理石やブロンズの作品とは趣(おもむき)をやや異にし、原始芸術のもつ根源的な生命力を示している。徹底的な単純化により、素材の生命を最大限に引き出しつつ有機的な形態を造形した彼の作品は、前衛彫刻の展開に大きな足跡を残した。パリで没後、彼のアトリエはそっくりパリ国立近代美術館に遺贈された。

[大森達次]

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改訂新版 世界大百科事典 「ブランクーシ」の意味・わかりやすい解説

ブランクーシ
Constantin Brancusi
生没年:1876-1957

ルーマニア出身の彫刻家。没する前年にフランス国籍を得た。オルテニア地方のホビツァ村生れ。ブカレストの美術学校で彫刻を学んだのち,1904年パリへ出てエコール・デ・ボザール(美術学校)に通う。ロダンを理想とし,06年にロダンに作品が激賞されたが,やがてロダン離れして写実的な手法を捨て,ルーマニアの中世の石彫りや農民の木彫りなどを手がかりにしながら,形態の単純化を目ざした。同一モティーフの作品を連作として制作したことで知られ,なかでも《接吻》《空間の鳥》などの連作を残した。後者はルーマニアの伝説上の鳥マイアストラが出発点となったもので,形態がしだいに単純化され,やがてプロペラ,あるいは日本の刀剣のような独特な反りのある流麗な形態を生むに至った。このうちの一点が24年ニューヨーク港の税関で衛生用器具として課税され,ブランクーシが訴訟して勝訴したのは美術史上有名である。同時代のダダイストのように,多様な素材への関心はもたず,木と石とブロンズに固執した点では古風であるといえるが,それだけに形態の単純さと台座の放棄は彫刻観を根底から変える力となった。モニュメンタルな作品としては,生地に近いトゥルグ・ジウに立つ戦没兵士のための記念碑《無限柱》(1937,高さ29m)があり,これは今世紀の彫刻史そのもののモニュメントとしても注目される。アトリエはパリのポンピドゥー・センターに隣接して復元保存されている。
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百科事典マイペディア 「ブランクーシ」の意味・わかりやすい解説

ブランクーシ

ルーマニア出身の彫刻家。オルテニア地方のホビツァ村生れ。1904年パリに出,エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に学んだが,やがてロダンの影響を受けた。1906年には作品がロダンに激賞されたが,やがて写実的方法から離れ卵形などのきわめて単一で純粋なフォルムに到達し,ロダン以後の最も重要な近代彫刻家の一人となった。作品は高さ29mの《無限柱》(1937年),鳥やポガニー嬢の連作など。アトリエがパリのポンピドゥー・センターに隣接して復元保存されている。
→関連項目グッゲンハイム美術館スタイケン彫刻の森美術館ノグチマン・レイムーアモディリアニ

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