日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブランクーシ」の意味・わかりやすい解説
ブランクーシ
ぶらんくーし
Constantin Brancusi
(1876―1957)
ルーマニアの彫刻家。トランシルバニア山脈の丘陵地帯にある農村ホビツァに生まれる。11歳のとき家を出て各地を放浪。1895年にクライオバの美術工芸学校に入学、さらに98年から3年間ブカレストの美術学校で彫刻を学ぶ。やがて故国を去り、1904年パリにたどり着く。翌年エコール・デ・ボザールに入学、アントナン・メルシエのアトリエで学ぶが、作品にはロダンの影響が顕著であった。06年と07年にはソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールのサロンに出品、ロダンの注目するところとなり、助手になるよう求められたが、「大木の下ではなにも育たない」といって断ったという。こうしたロダンの影響もしだいに影を潜め、07年から08年ころには単純で調和のとれた原初的なフォルムの追求へと歩を進めていった。『接吻(せっぷん)』では石の直彫(じかぼ)りによって、石本来の量塊性と、主題が要求するフォルムとの間に完璧(かんぺき)な融合を達成。また人間の首だけを横たえた単純で静謐(せいひつ)なフォルムの『眠れるミューズ』は、しだいに凝縮され、『プロメテウス』などを経て、ついには完全な卵型となり、20年代の『世界のはじまり』となる。13年にはニューヨークでのアーモリー・ショーに5点の作品を送り、以来アメリカで高い評価を得る。また14年ころから木彫を手がけるが、それらは、入念に磨き込まれた大理石やブロンズの作品とは趣(おもむき)をやや異にし、原始芸術のもつ根源的な生命力を示している。徹底的な単純化により、素材の生命を最大限に引き出しつつ有機的な形態を造形した彼の作品は、前衛彫刻の展開に大きな足跡を残した。パリで没後、彼のアトリエはそっくりパリ国立近代美術館に遺贈された。
[大森達次]