刑罰と、刑罰を科せられるべき行為である犯罪を規定した法律をいう。狭い意味では「刑法」(明治40年法律第45号)、すなわち刑法典をさすが、広い意味では、違反した場合に刑罰を科せられる法律上の規範のすべてを総称したものである。刑法の特別法である「軽犯罪法」「爆発物取締罰則」などや、本来は行政法の分野に属する「道路交通法」「銃砲刀剣類所持等取締法」「火薬類取締法」なども、その罰則(その法律のなかの特定行為について刑罰を科すことを定めた規定)の部分については広い意味の刑法に含まれる(前者を特別刑法、後者を行政刑法とよぶ場合がある)。
刑罰は、近代国家においては国家の手によってだけ執行される公刑罰に限定されているから、刑法は国家と個人との間を規律するいわゆる公法に属し、個人と個人の間を規律する私法(民法、商法など)とは区別される。
[西原春夫]
刑法は、原則として、狭い意味での法律、すなわち国会の議決を経て制定された法律の形式をとらなければならない。これは近代刑法学上の大原則である罪刑法定主義、すなわち「法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰なし」とする原則からする帰結であって、日本国憲法第31条もこれを認めている。しかし、これには二つの例外がある。その第一は、法律の委任により政令に罰則が設けられる場合であって、憲法第73条6号の解釈として認められている。その第二は、普通地方公共団体(都道府県、市町村)の条例に罰則が設けられる場合であって、地方自治法第14条3項がこれを定めている。この二つの例外を除けば、狭い意味の法律以外のものが刑法となることはない。したがって、慣習法が直接刑法の法源となることはない。
[西原春夫]
日本の刑法は、古代においてはきわめて素朴でかつ宗教的呪詛(じゅそ)的な性格をもっていたが、やがて王朝時代に至って中国法の影響を強く受けることとなり、成文法を基礎としたいわゆる律令(りつりょう)時代を現出することとなった。大宝律(たいほうりつ)(701)、養老律(ようろうりつ)(718)などがこの時代の刑法として有名である。しかし王朝後期になってしだいに私有田が増加し、やがて荘園(しょうえん)の制度が形成されるようになると、土地国有制のうえに立脚していた律令制度は崩壊し、検非違使(けびいし)庁の判例や慣習法を主流とするいわゆる庁例時代に移行することとなった。
下って、武家時代の刑法は、幕府の中央集権的権力が強かった初期および後期には、全国に効力を有する中央集権的な法律も存在し、そのなかには当時の武家の慣習法を成文化したものも見受けられた。鎌倉時代における御成敗式目(貞永式目(じょうえいしきもく)、1232)や、江戸時代における公事方御定書(くじかたおさだめがき)(1742)などがこれである。しかし、戦国時代を中心とする武家時代の中期においては、各大名の領域内でそれぞれ特殊な発達をみるに至った。武家時代の刑法の内容は、いうまでもなく身分制度を基盤とする封建法的なものであり、また刑罰も、峻厳(しゅんげん)で武断的な性格をもっていた。そして、刑法のこのような性格は、江戸幕府が崩壊し、明治維新を迎えるまで存続したのであった。
明治維新後、日本の刑法は初めて西欧法の影響を受けて近代化し、国家組織の整備に寄与するところが大きかった。日本の継受した西欧の刑法は、元来、ローマ法およびゲルマン法という二大法系の形をとって出発したが、中世には教会法や地方の慣習法による修正を受けて各地方ごとに発達し、近世に至って民族国家を単位とする中央集権的な刑法が制定されるようになった。現代における多くの刑法の範型となったのは1810年のフランス刑法であるが、これは、同刑法がローマ法の伝統に立脚しつつ、フランス革命に表された近代的な精神を反映したものだったからである。ところで、日本では、明治維新後しばらくは、仮刑律、新律綱領、改定律例(りつれい)など、主として旧律令に基礎を置いた旧式な刑法が適用されていたが、幕末以来の課題である植民地化の回避、そのための不平等条約の解消、とくに領事裁判権排除を達成するためには、どうしても近代的な西欧法制を導入することが必要であった。そこで、政府は1873年(明治6)にパリ大学教授のボアソナードを招聘(しょうへい)し、その作成した刑法草案を翻訳のうえ修正して1880年にこれを頒布した。世に「旧刑法」とよばれる。
旧刑法は、西欧法制とくにフランス刑法の影響を全面的に受け入れた日本で最初の近代的な刑法であったが、部分的には日本の実情にあわないものがあったため、早くもその施行の年に司法省部内に改正の議がおこったほどであった。そこで、政府は引き続き刑法改正のための審議を続行したが、その過程で、フランス法ではなくドイツ法を参考にすべきだという政府の意向が強くなっていった。それは1871年にドイツ内の有力国であるプロイセンが普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)でフランスに勝ったというばかりでなく、その年に成立したドイツ帝国の政治形態が当時の日本によりふさわしいと考えられたからであった。その傾向は、国の基本法である憲法(大日本帝国憲法、1889)がドイツ法を範型にして制定されることによって一気に強固なものになり、刑法も1871年のドイツ刑法の影響を強く受けつつ旧刑法の規定を大幅に改正した1907年(明治40)の草案が国会を通過し、同年4月24日に法律第45号をもって公布され、翌1908年10月1日から施行されることになった。これが現在まで効力を持ち続けている「刑法」である。
[西原春夫]
現行刑法は、制定以来100年以上経ったというばかりでなく、その間における社会生活の変化、犯罪の態様の変化、思想の変遷、世界的な犯罪防止対策の進歩などはまことに目覚ましいものがあった。したがって、すべての規定が制定当時のままというのではなく、何度にもわたって部分的な改正が行われた。1921年(大正10)から2017年(平成29)にかけて31回の改正が行われている。2017年には、性犯罪を厳罰化する110年ぶりの大幅な改正がなされた。また第二次世界大戦をはさんで2回、刑法の全面改正事業も企てられた。
まず戦前の全面改正事業は、第一次世界大戦後の内外情勢の変化に対応するため、1921年に始められたが、1940年(昭和15)、日本が戦時体制に入ったため中断するのやむなきに至った。その成果を草案の形にしたのが、「改正刑法仮案」(1940)である。
第二次世界大戦後の全面改正事業は1956年(昭和31)に再開された。1961年に一種の予備草案である「改正刑法準備草案」が発表されるころまでは比較的順調に進んでいたが、おりしも1960年代のなかばごろ戦後日本の高度経済成長がある段階まで達し、そのひずみが未解決のまま拡大、顕在化してきたことなどがあって、世界観や国家観の対立が険しいものとなり、とりわけ国家権力の行使と国民の権利保護の間のすみ分けについて厳しい論争が繰り広げられた。そしてそれは1969年を頂点とする大学紛争や全共闘運動など過激な街頭行動などを生み出す結果となった。そのような騒然とした時代背景のもとに刑法全面改正事業が進められたため、審議にあたった会議の内部はもちろん、外部からも、基礎となった刑法理論や多くの個々の規定案に対する非常に激しい批判が展開された。その結果、全面改正事業は頓挫(とんざ)し、審議の成果である「改正刑法草案」を1974年に発表するだけで未完成のまま終わった。
ただ1907年という昔に制定された現行刑法が片仮名、文語体で書かれており、しかも現在では日常まったく使われていないような古い術語をたくさん含んでいるのは適当でないと考える点ではまったく異論をみなかった。そこで政府は「表記の平易化(口語化と現代語化)」を基本方針としつつ、あわせて最高裁判所から違憲判断を下されているような規定(たとえば尊属殺)の削除を内容とする案を1995年(平成7)に国会に提出し、同年4月28日に成立した。これが1907年の刑法の現在の姿である。
[西原春夫]
刑法の効力は、時に関するもの、場所に関するもの、人に関するものの3種に分かれる。まず、刑法は、施行の時から廃止の時まで効力を有する。ただ、犯罪を行った時(行為時)の法律と裁判を行う時(裁判時)の法律とが異なる場合には、どちらの法律を適用すべきかが問題となる。行為時の法律によれば犯罪でなかった行為が裁判時の法律によって犯罪とされるような場合については、憲法第39条に規定があり、裁判時の法律は行為時にまでさかのぼることはない。これは、まさに、近代刑法学上の大原則である罪刑法定主義からする要請である。反対に、行為時の法律によれば犯罪であった行為が裁判時の法律によって犯罪でなくなった場合には、刑事訴訟法第337条2号により免訴の言渡しをしなければならないものとされている。さらに、行為時の法律によっても裁判時の法律によっても犯罪とされる点では変わりないが、刑に軽重の違いがある場合については、刑法第6条に規定があり、軽いほうの刑を適用することになっている。
次に、日本の刑法は、日本国内で罪を犯した者すべてに対して適用される。日本の船舶、航空機内の犯罪についても同様である(刑法1条)。ただ、この原則にはいくつかの例外があり、まず内乱とか通貨偽造など、国外で行われても日本の利益を害することが著しいような特定の犯罪については、日本刑法は、それらが国外で行われた場合でも、また外国人によって行われた場合でも適用される(同法2条)。また、放火、強制性交等、殺人、強・窃盗など比較的重い特定の犯罪の場合には、日本人によって行われた限り、国外で行われた場合にも適用される(同法3条)。逆に日本人に対して強制性交等、殺人、傷害、強盗など特定の犯罪を国外で犯した外国人に対しても適用されるようになった(同法3条の2)。さらに、職権乱用、収賄などの特定の公務員犯罪については、それが日本の公務員によって行われる限り、国外で行われた場合にも日本刑法の適用がある。また、日本刑法に規定された犯罪のうち、条約によって国外で犯された場合でも処罰すべきものとされている犯罪を国外で犯したすべての人に対しても、日本刑法が適用される(同法4条の2)。
最後に、日本の刑法は、時および場所に関する効力の及ぶ限り、日本人であると外国人であるとを問わず誰(だれ)に対しても適用されるのが原則である。ただ天皇はその憲法上の地位からして刑法の適用から免れ、また国会議員は、議院で行われた演説、討論または表決について刑事責任を問われないたてまえとなっている(憲法51条)。さらに、国際法上の関係からして、外国の君主、大統領、その家族および日本国民でないその従者、信任された外国の交際官(大使、公使)、付属員(参事官、書記官、外交官補、大公使館付武官、書記生)、その家族および日本国民でない雇員・従者、承認を得て日本の領土内にある外国の軍隊または軍艦についても、それらの身分の存続している限り、刑法の適用はない。
[西原春夫]
『内藤謙・西原春夫編『刑法を学ぶ』(1973・有斐閣)』▽『団藤重光著『刑法綱要 総論』改訂版(1979・創文社)』▽『小野清一郎・中野次雄・植松正・伊達秋雄著『刑法』第3版(1980・有斐閣)』▽『堀内捷三著『刑法総論』(2000・有斐閣)』
刑法とは,犯罪と刑罰に関する法であり,どのような行為が犯罪となり,その犯罪にどのような刑罰が科せられるかを規定した法である。それは,まず,六法全書に〈刑法〉(1907年法律第45号)という名称で収録されている法律,すなわち刑法典である。そこには,殺人罪,窃盗罪などの典型的な犯罪とそれに対する刑罰がほぼ網羅的に規定されている。これを〈狭義の刑法〉または〈形式的意味の刑法〉という。しかし,犯罪と刑罰に関する法は,刑法典に限られない。〈暴力行為等処罰ニ関スル法律〉(1926公布),〈軽犯罪法〉(1948公布),〈航空機の強取等の処罰に関する法律〉(1970公布)など,時代と社会の変化に対応して,刑法典を補充するために制定された特別刑法も,刑法である。さらに国家公務員法,道路交通法,所得税法など数多くの行政法規の中に,行政目的達成のために規定されている罰則も,行政刑法といわれる。刑法典のほかに,このような特別刑法や行政刑法をも含めるとき,それを〈広義の刑法〉または〈実質的意味の刑法〉という。そして,刑法典の〈総則〉(1~72条)は,他の法令において刑を定めたものに対しても,その法令に特別の規定がない限り適用される(8条)。したがって,刑法典の〈総則〉は,原則として,〈広義の刑法〉のすべてについての〈総則〉としての役割をもっているのである。
刑法の歴史は日本でも古く,古代の氏族時代には,〈ツミ〉の観念自体宗教的性格を多分に持ち,それに対する刑罰も不浄を去り,神の怒りをなだめるためのものとしての要素が強かった。やがて,大化の改新により日本の法制は著しく整備され,中国の律令制度とくに唐律を学んで,大宝律令(701),養老律令(757)に代表される成文刑法をもつことになる。その後,武家時代になって,王朝時代の律令制度はすたれ,北条氏の御成敗式目(1232),江戸幕府の公事方御定書(1742)などが行われた。
日本の刑法が近代化されたのは,明治時代にヨーロッパの刑法の影響をうけてからであった。そのヨーロッパの刑法には,ローマ法とゲルマン法の二つの法系があったが,近世に入って,国民国家が成立し,国家的公刑罰が発達するとともに,イタリア法学によって加工されたローマ法を基礎にするカロリーナ刑事法典(1532)のような統一的刑法典がつくられるに至った。やがて,フランス革命の精神を反映した1810年のフランス刑法典が成立し,19世紀を通じて,近代刑法の模範とされたのであった。
日本では,明治維新後,1868年(明治1)に仮刑律が制定され,続いて新律綱領(1870),改定律例(1873)が制定されたが,これらは,中国法系の律の影響を強くうけたものであった。日本の刑法が近代化するのは,82年に施行された旧刑法によってである。旧刑法は,司法省の顧問として招聘(しようへい)したフランスの法律学者ボアソナードの起草した日本刑法草案(1877)を土台として,刑法草案審査局で審査修正し,元老院の審議を経て公布された法典であった。旧刑法は,1810年のフランス刑法典を母法としていたが,ボアソナードが支持した新古典主義刑法理論の立法化の試みでもあった。その旧刑法は,罪刑法定主義の宣言,犯罪の成立に故意,過失,責任能力を要求することによる責任主義の採用,刑罰の身分上の差別的取扱いの廃止などの点で,近代的刑法典としての性格を示していた。旧刑法は,その施行後まもなく,90年ころから,資本主義の急激な発展にともなう犯罪の増加現象を背景に,ヨーロッパに新たに台頭した新派理論を学んだ論者(富井政章)によって,〈寛弱〉にすぎ犯罪対策として無力であるという批判をうけるようになる。そして,学説上も新派刑法理論を基本的にとる立場が有力となる(勝本勘三郎,岡田朝太郎等)。さらにまた,日本の法制度は,大日本帝国憲法が近代天皇制国家確立のためにプロイセン憲法に範をとって制定されたことにあらわれているように,フランス法的なものからドイツ法的制度へ再編成されてきた。このような状況のもとで,数次の改正作業の後に,後期旧派理論を基礎にした1871年ドイツ刑法典と新派理論によるその改正運動とを比較的に多く参考にした現行刑法典が1907年に公布され,08年に施行されることになるのである。
現行刑法典は,旧刑法の規定のかなり多くを受けついでおり,その延長線上にある側面をもっている。しかしまた,他面,ヨーロッパにおける刑法改正運動を主導していた新派理論の影響をも強くうけたものであった。その影響は,とくに,旧刑法に対比して,犯罪類型をはるかに包括的・弾力的に規定し,法定刑の幅をも著しく広くして,刑罰の量定について裁判官に広い裁量の余地を与えたこと(したがって,264という条文の数も,旧刑法の430より大幅に減少している),また,刑の執行猶予などの刑事政策的諸制度を刑法典にとりいれたこと,さらに,累犯加重規定を厳格にし,それに保安刑としての色彩を濃厚に与えたことなどにあらわれていた。このような現行刑法典は,資本主義の急激な発展にともなう犯罪の増加現象に対応するものとして,新派理論の影響をもうけて立法されたことが示すように,当時のドイツ刑法典やフランス刑法典(それらは,新派理論を知らずに立法された法典であった)に比べて,新しい刑事政策的要素をもつものであった。そして現在でも,その犯罪類型の包括的・弾力的規定と法定刑の幅の広さは,比較法的にも異色のものである。たとえば,殺人罪は謀殺・故殺の区別なく一つの条文(刑法199条)に包括的に規定されており,法定刑も上限は死刑,下限は懲役3年とされている。
刑法の機能として重要なものは,法益保護機能と自由保障機能である。刑法は,たとえば,人を殺した者を処罰する規定をおき,また殺人犯人を実際に処罰することによって,殺人が行われることを防止し,人の生命という法益(法によって保護される生活利益)を保護する機能をもっている。これが刑法の法益保護機能である。もっとも,刑法は,たとえ生活利益を保護するためであっても,ただちに発動すべきものではない。刑罰は,人の自由・財産,さらに生命さえも剝奪するものであり,それ自体として望ましくないがやむをえない手段である。したがって,刑法が発動するのは,社会倫理的制裁や,民事的損害賠償,行政処分などのような,刑法以外の社会統制手段では十分でないときに限られなければならない。刑法は生活利益保護のための最後の手段なのである。この原則を,刑法の謙抑主義という。なお,このように刑法の法益保護機能を重視する考え方に対して,刑法は社会倫理(道義)を維持・強化する機能をもつということを強調する見解も有力である。
刑法の機能として,さらに,自由保障機能が重要である。近代法の大きな特色は,個人の権利・自由を国家権力の恣意的な行使から守る任務が法に課せられていることである。とくに刑法は,刑罰が国家権力による個人の権利・自由の剝奪であるだけに,その任務を重く背負っている。刑法は,犯罪と刑罰の適正な内容を犯罪が行われる前に明確に規定しておくことによって(明確性の原則),国家刑罰権の行使を制約し,恣意的な処罰から個人(犯人自身をも含めて)の権利・自由を保障する機能をもっている(刑法のマグナ・カルタ的機能)。刑法のこの自由保障機能は,近代刑法の基本原理である罪刑法定主義と表裏一体のものにほかならないのである。
刑法の人・場所に関する効力,すなわち刑法が,どのような人によってどのような場所で行われた犯罪に適用されるかについては,四つの基本的な考え方がある。その一は,犯人の国籍のいかんを問わず,自国の領域内で生じたいっさいの犯罪に対して自国の刑法を適用すべきだとする属地(法)主義。その二は,犯人が自国民であるかぎり犯罪地のいかんを問わず(外国であっても)自国の刑法を適用すべきであるとする属人(法)主義。その三は,自国または自国民の利益を害する犯罪に対しては,犯人の国籍および犯罪地のいかんを問わず,自国の刑法を適用すべきだとする保護主義。その四は,各国がひとしく重要性を認める共通の基本的法益を侵害する犯罪に対しては,犯人の国籍および犯罪のいかんを問わず,自国の刑法を適用すべきだとする世界主義。日本の刑法は,多くの国の立法例と同様に,属地主義を基本原則とする(1条)。そして,殺人罪,放火罪,窃盗罪などについては属人主義を加味し(3条),内乱罪,通貨偽造罪,日本国公務員の収賄罪などについては,保護主義を補充的に認め(2条,4条),刑法典各則の罪であって,条約により日本が裁判権の設定を義務づけられている犯罪については,世界主義に道を開いている(4条の2)。
なお,国外で日本刑法の適用を受ける罪を犯した者を日本が裁判権を行使して実際に処罰するためには,その者が現にいる国の協力をえて,身柄の引渡しを受けなければならない(犯罪人引渡し)。そして,犯罪が国際化するにつれて,犯人の所在確認,証拠・情報の収集などについても,各国間の国際的協力の必要は,ますます大きくなっている(国際共助)。
刑法の時間的効力については,行為時に犯罪でなかった行為を,行為後に施行された法律で処罰することは,罪刑法定主義によって禁止される(事後法の禁止)。そこで,刑法の適用は,行為時法によるのが原則とされている。しかし,行為後の刑罰の適用が犯罪者に有利になるときは,事後法を適用しても,罪刑法定主義に反しない。刑法6条も,犯罪後の法律により刑の変更があったときは,軽いほうを適用する旨を定めている。
現行刑法典は,施行以来,何回もの部分改正があった。その全面改正について,戦前にも改正刑法仮案が発表されたが(1940年。総則は1931年),戦後,法制審議会は,1974年に,改正刑法草案を公表した。この草案に対しては,一般的に刑罰を重くしている,犯罪の成立範囲を拡張している,その保安処分は精神障害者についての医療的処遇の観点ではなく社会の保安の観点があまりに強すぎるなどの批判も有力であった。結局,改正刑法草案は国会に提出されなかった。そして95年には,国民にわかりやすい刑法を目ざして,〈刑法〉典の表記の平易化(口語化・現代用語化)が刑法一部改正の形式により実現し,あわせて,尊属殺人罪(旧200条)などの尊属加重規定および瘖啞(いんあ)者の行為に関する規定(旧40条)が削除されたのである。
→刑罰 →刑法理論 →犯罪
執筆者:内藤 謙
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犯罪の種類と刑罰を定めた法律。1880年(明治13)公布の「旧刑法」と1907年に改正された「現行刑法」に区別される。1875年からボアソナードに起草がゆだねられた旧刑法は,第2・3条で罪刑法定主義・刑罰不遡及原則といった近代刑罰思想の重要原理を採用した。一方,改正された現行刑法は新派刑法理論の影響をうけ刑事政策を重視し,判事・検事の裁量による刑の執行猶予・仮出獄・起訴猶予の範囲を大幅に認めた。1947年(昭和22)の改正で皇室に関する罪などが削除された。現行刑法の全面改正計画は74年に改正草案の作成にいたったが,保安処分導入問題をめぐり実現困難の状態にある。95年(平成7)刑法の現代用語化が実現。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…新しい統治機構を守る軍事・警察機構は,1872年の陸海軍両省の設置と73年の徴兵令の制定,73年の内務省警保寮設置,74年の警視庁設置によって整備された。治安維持の重要な手段である刑事法は,すでに1870年に新律綱領,73年に改定律例が制定され,さらに1880年には,フランス人のボアソナードによって起草された最初の近代法典である刑法および治罪法(刑事訴訟法)が制定され,82年から施行された。資本主義発展の基礎をつくるための法として重要なものは,人民を把握するための戸籍法(1871公布。…
※「刑法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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