日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャヤバルマン」の意味・わかりやすい解説
ジャヤバルマン(7世)
じゃやばるまん
Jayavarman Ⅶ
生没年不詳。カンボジア、アンコール王朝の最後の全盛を築いた王(在位1181~1218ころ)。内乱、王位簒奪(さんだつ)、東の隣国チャンパの侵入(1177)などで混乱した国内を再統一し、1181年に即位、1203年からチャンパを併合、近隣諸国へ侵攻し、その版図は現在のラオスからタイ、マレー半島北部にまで及んだ。王は大乗仏教を篤信し、都城アンコール・トムの中心寺院バイヨンには、4面の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が建立された。タ・プローム、プリヤ・カンなど多くの寺院を建設し、それらは美術史上からバイヨン様式といわれる。慈悲深い王は、国内に102か所の施療院を建て、121か所に宿駅を設けた。しかし、続く外征と建設事業は国を疲弊させ、王の死後にアンコール王朝は急速に衰退へ向かう。
[石澤良昭]
ジャヤバルマン(2世)
じゃやばるまん
Jayavarman Ⅱ
生没年不詳。カンボジア、アンコール王朝の創始者(在位802~850)。パラメシュバラ(「至高の王」の意)の諡号(しごう)をもつ。系譜には不詳の部分が多いが、王は8世紀末ごろジャワから帰還し、国内を平定した。802年にマヘンドラパルバタ(アンコール遺跡に近いプーン・クレーン高丘)にバラモン僧を招き、ジャワの宗主権を否定する祭儀を行い、即位式をあげた。王は容赦のない征服に明け暮れた。その足跡はほぼ現在のカンボジアの範囲である。後世の碑文は「マヘンドラの上に住んだ王」と畏敬(いけい)し、王権の始まりと考えられている。王はハリハラーラヤ都城(ロリュオス遺跡)で死去。王の「802~834年在位」説が提起されている。
[石澤良昭]