アメリカのダンス・ミュージック・バンド。カリフォルニア州ロング・ビーチで結成される。異なる人種を分け隔てなくメンバーとして受け入れ、そのバンド名でもわかるように、心地よいビートをバックにしながらもアメリカの深刻な社会問題を訴えかけたことでも知られる。
ウォーの結成は、1960年代初頭、ギタリストのハワード・スコットHoward Scott(1946― )とドラマーのハロルド・ブラウンHarold Brown(1946― )が高校時代に結成したクリエーターズというバンドがきっかけとなっている。黒人やラテン系住民が混住する地域から集まったメンバーは、ジャズやソウル・ミュージック、ラテン・ミュージックにも興味があり、彼らは離合集散したり、名前を変えたりした後、1969年に元アニマルズのエリック・バードンEric Burdon(1941― )と出会うことにより劇的なデビューを果たす。このときバードンが紹介したのが、デンマーク出身のハーモニカ奏者リー・オスカーLee Oskar(1948― )だった。バードンは、当時はナイト・シフトと名乗っていたこのバンドをウォーと改名し、オスカーもメンバーに加えて、イギリス系のロック・シンガー、バードン率いる人種ミックスのダンス・ミュージック・バンドを誕生させた。オスカーはその後独立し、ポップ・ジャズの世界で名声を確立する。
彼らのメジャー・デビューは70年の『宣戦布告』というエリック・バードン&ウォー名義で発売されたアルバムだった。この作品からラテン・ミュージック・タッチの「スピル・ザ・ワイン」がヒットする。しかし続くアルバム『エリック・バードンの黒い世界』(1971)を発表した後、気まぐれなリーダーのバードンはバンドを脱退。しかしウォーは、71年から西海岸を代表するバンドの一つとして第二期(黄金期)に入ることになった。
同じ西海岸のスライ&ザ・ファミリー・ストーン、シカゴからデビューしたアース・ウインド&ファイアー、デトロイトのファンカデリックほか、当時はソウル・ミュージックでも黒人がバンドを結成しプロとして活躍する傾向にあった。西海岸のラテン系ミュージシャンを中心にして結成されたサンタナもそうである。ウォーも大局的にいえばそうした傾向をもつグループの一つで、当時のこういった有色人を中心としたトップ・バンドは、それぞれが際立った独自の個性をもっていたことは注目に値する。
ウォーは「シスコ・キッド」「仲間よ目をさませ!」「ロウ・ライダー」など、主に人種問題に根ざした曲のヒットで70年代に活躍した。アルバムとしては、『オール・デイ・ミュージック』(1971)、『ウォー・ライブ』War Live(1973)、『世界はゲットーだ!』(1975)、『プラチナ・ジャズ』Platinum Jazz(1977)などが有名である。80年代に入ってからは、しばらく人気を保っていたものの、その後はメンバーの離脱や再編が激しくなり、以前のような力を失っていった。
[藤田 正]
イギリスの小説家。グレアム・グリーンと並ぶ、しかしまったく対照的なカトリック作家。10月28日ロンドンの出版社主の家に生まれる。オックスフォード大学で近代史を学ぶが中退、ヒーザリー美術学校に転じたが、これも中退する。文壇へのデビューは長編『衰亡記』(1928)。とばっちりで大学を放校になった青年が出会う事件を、徹底的に滑稽(こっけい)かつグロテスクに描き、次作『いやしい肉体』(1930)とともに第一次世界大戦後の虚脱した社会の痛烈な戯画をつくりあげた。さらに『黒いいたずら』(1932)、『一握(いちあく)の塵(ちり)』(1934)では、文明と未開とを対比しながら、現代に生きる無力なインテリがさんざんな目にあわされるような場を設定して、大いにふざけながら、しかし、その底にある深淵(しんえん)をのぞかせる。これは彼が抱いている美への信奉、秩序の感覚の裏返しの表現といえる。1930年カトリックに改宗するが、その影響がより直截(ちょくせつ)にはっきり現れたのが『ブライズヘッドふたたび』(1945。1960改訂)である。さらに意欲的な戦争三部作『名誉の剣』(1965)〔『戦士たち』(1952)、『士官たちと紳士たち』(1955)、『無条件降伏』(1961)をまとめたもの〕では信義、名誉、英雄主義の喪失を哀惜するガイ・クラウチバックという主人公を得て円熟の境地に達した。ほかに伝記『エドマンド・キャンピオン』(1935)、『ロナルド・ノックス』(1959)がある。66年4月10日没。
[出淵 博]
『吉田健一編『イーヴリン・ウォー』(1969・研究社出版)』
イギリスの小説家。ロンドン郊外に生まれる。父アーサーは有名な評論家で出版社チャップマンの重役。兄アレックも小説家。オックスフォード大学で歴史を専攻するが,学位をとらずに1924年退学。28年バークレア卿の末娘との結婚のため《ロセッティ伝》を出版するとともに,当時の刹那(せつな)的な若者を喜劇的に描いた処女小説《衰亡記》を出版。翌29年事実上結婚を解消,30年には第2作《汚れた肉体》を発表し,同年カトリックに改宗した。タイムズ特派員としてエチオピア,アデン,コンゴなどを歴訪し,西欧文化をうのみにする現地人を揶揄的に描いた《黒いいたずら》(1932),どたばた偶然小説の傑作《一握の塵》(1934),挑発的なまでに護教的な伝記《殉教者キャンピオン》(1935)などを発表した。37年貴族の孫娘ローラ・ハーバートと再婚。第2次大戦とともに軍務に就き,《さらに多くの旗を》(1942)で戦争下のイギリスを描いた。戦後直ちに出版した《ブライズヘッド再び》(1945)は,戦前の名家の生活を郷愁をもって描き,アメリカでベストセラーとなった。この後もアメリカの葬式産業を風刺した《囁きの霊園》(1948),ウォー自身をパロディ化した《ピンフォールドの試錬》(1957)などを発表しているが,イギリスの伝統主義者の戦争中の活躍とその理想の現代への降伏を描いた三部作《名誉の剣》(〈戦士〉1952,〈紳士で士官〉1955,〈無条件降伏〉1961)が戦後最大の収穫である。ウォーの作風は初期は風刺喜劇的なもの,後期は風刺と伝統賛美が目立つが,その底に一貫しているのは,気取りとも見られかねない文化的教養からくる強烈な現代嫌悪ときわめて優れた文章力である。
執筆者:鈴木 建三
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