ハワード(読み)はわーど(英語表記)John Howard

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハワード」の意味・わかりやすい解説

ハワード(政治家)
はわーど
John Howard
(1939― )

オーストラリアの政治家。シドニー生まれ。文科系の名門シドニー大学で法律を学んだ後、ニューサウスウェールズ州最高裁の事務弁護士となる。学生時代から自由党の青年組織に入り、ベトナム戦争にも賛同した。1974年、シドニー北西部の選挙区から連邦下院議員に初当選。翌1975年、フレーザーを首班とする自由党政権が誕生すると、36歳の若さで商業・消費者問題担当相に就任、続いて財務相を務めた。1985年から1989年まで自由党党首。人種差別的発言による支持の低下と一種の党内クーデターで党首の座を追われたが、1995年、奇跡的に党首に返り咲いた。1996年3月の総選挙で当時の首相キーティング率いる労働党に圧勝、首相に就任し13年ぶりに保守政権を誕生させた。その後も1998年、2001年、2004年の総選挙で勝利し、2007年11月の総選挙で5選を目ざしたが、野党労働党に大敗し、ハワード自身も落選した(現職首相の落選は、1929年のスタンリー・ブルース以来史上2人目)。

 首相在任期間は11年8か月で、歴代首相のなかではロバート・メンジースに続いて2番目に長い。外交では親米路線を鮮明にし、アメリカと足並みをそろえてイラクやアフガニスタンに戦闘部隊を派遣したほか、日本とも関係強化を進め、2007年(平成19)3月、安全保障協力に関する日豪共同宣言に署名した。

[宮明 敬]


ハワード(Luke Howard)
はわーど
Luke Howard
(1772―1864)

イギリスの気象学者。ロンドンに生まれる。私立の学校卒業後、薬剤師の見習いをし、1793年にはロンドンに薬種店を開いた。子供のころから自然の観察を好み、11歳のとき、アイスランドのラキ火山噴火時に異常な様相を示した朝焼け・夕焼けを詳細に観察した。その後同志とともにアスケシア会Askesian Societyをつくり、自然観察について話し合った。1803年に、この会で「雲の形態変化について」を発表、これが現在使われている、巻雲(けんうん)、積雲、層雲、およびこれらを重ね合わせた10種雲級の基礎となった。1818~1820年に大著『ロンドンの気候』を発表、このなかでロンドンの気候に及ぼすテムズ川の影響、郊外と市内の温度差(ヒートアイランド現象)のあることを明らかにした。この点から都市気候学の先駆者と考えられている。

[根本順吉]


ハワード(Roy Wilson Howard)
はわーど
Roy Wilson Howard
(1883―1964)

アメリカの新聞経営者。オハイオ州に生まれる。インディアナ州に移り、『インディアナポリス・スター』紙の新聞少年として働く。1902年高校卒業後『インディアナポリス・ニューズ』紙の記者となる。1907年スクリップス・マクレー系の通信社UP(のちUPI)が設立された際、同社ニューヨーク支配人として迎えられ、1912年には社長に昇進。以後、速さとセンセーショナリズムを売り物にAP通信社と競争、第一次世界大戦を契機にヨーロッパ通信網を整備するなどして、UPが本格的な国際通信社となる足掛りをつくった。1921年スクリップス・マクレー系の営業担当重役、1925年編集担当重役、1926年にはスクリップスの共同経営者となる。1927年『ニューヨーク・テレグラム』紙を買収、1931年には『ニューヨーク・ワールド』紙も合併して社長兼主筆となり、さらに1950年『ニューヨーク・サン』紙も買収、1960年まで編集に携わった。

[鈴木ケイ]


ハワード(Sidney Coe Howard)
はわーど
Sidney Coe Howard
(1891―1939)

アメリカの劇作家。カリフォルニア出身。同地の大学を卒業後、ハーバード大学のG・P・ベーカー教授の演劇教室に学ぶ。学生時代から盛んに創作し、第一次世界大戦従軍後、出版、新聞関係で働く間に詩劇『剣』(1921)が職業的には初めて上演されるが、認められたのは『彼らは何が欲しいか知っていた』(1924。ピュリッツァー賞受賞)である。手紙の交換で結婚した知性よりも感情を尊重する男女3人の心理を巧みに描いたこの作品は、重ねて映画化され、ミュージカル(『最高に幸せな奴(やつ)』)にもなった。他の代表作には『銀のひも』(1926)、『黄熱病』(1934)などがあり、また、共作、翻訳翻案、シンクレア・ルイスの小説の脚色などもある。友人らと劇作家育成機関を発足させるが、交通事故で死亡し、彼を記念する年間秀作賞が設けられた。

[森 康尚]


ハワード(Robert E. Howard)
はわーど
Robert E. Howard
(1906―1936)

アメリカの小説家。1924年、18歳の高校生のとき、怪奇小説の専門誌『ウィアード・テールズ』に処女作を発表。以降12年間に同誌を中心にして約200編の中短編の怪奇冒険小説を書きまくり、母親が不治の病にかかったことを知るやピストル自殺を遂げて30年の短い生涯を終えた。その作品は雑誌連載のまま忘れ去られるかにみえたが、50年代になって陸続として単行本化されて爆発的なブームを引き起こした。なかでも、1万2000年前の地球のハイボリア時代(架空)を背景に冒険と放浪の旅を続ける英雄コナンを描いた『コナン・シリーズ』が人気の焦点であり、剣と魔法が鮮烈に彩るこの古代英雄譚(たん)は、ヒロイック・ファンタジーという名称で一般的な怪奇小説とは区別されている。没後出版された唯一の長編SFに『魔境惑星アルムリック』(1939)がある。

[厚木 淳]

『中村能三訳『魔境惑星アルムリック』(ハヤカワ文庫)』


ハワード(Henry Howard, Earl of Surrey)
はわーど
Henry Howard, Earl of Surrey
(1517?―1547)

イギリスの詩人。サリー伯ともよばれる。ヘンリー8世のために武人として活躍するが、無実の反逆罪に問われて処刑された。イタリアのソネットを英語に適した押韻に修正して移植し、ウェルギリウスの『アエネイス』の英訳にあたり、弱強五歩脚無韻の詩形を英詩史上初めて用いた。彼の典雅な詩は、T・ワイアットのそれとともに、イギリス近代詩の先駆的アンソロジー『トッテル詩華集』の重要な部分を占めている。

[藤井治彦]


ハワード(Sir Ebenezer Howard)
はわーど
Sir Ebenezer Howard
(1850―1928)

イギリスの都市計画家。青年期にアメリカへ渡ったが、1877年にイギリスに帰り、ロンドンで法廷速記者として働くかたわら、R・W・エマソン、W・ホイットマンの思想に傾斜、その後、ベラミーのユートピア小説の影響のもとに98年田園都市構想を提唱した。さらに1902年『明日の田園都市』を著し、田園地帯の中に住宅および工業地区からなる都市生活と田園生活を共有したコミュニティ計画を創案、以降の近代都市計画の端緒となった。

村松貞次郎・藤原恵洋]

『長素連訳『明日の田園都市』(1976・鹿島出版会)』


ハワード(John Howard、監獄改良運動家)
はわーど
John Howard
(1726―1790)

イギリスの監獄改良運動家。ロンドン近郊のハックニーに紳商の子として生まれ、父の死後、慈善事業に身を投じた。1773年、ベッドフォード州の執行長官High Sheriffとなって、監獄を視察、自らのフランスでの獄中体験と同じ惨状がそこにあるのを知ったのが転機となる。イギリス各地の監獄の実情を調査した結果、獄吏の生活費が囚人の手数料でまかなわれることの弊害を痛感して、国庫負担への道を開いた。調査は数回にわたり、ヨーロッパ各地にも及ぶ。囚人の生活条件の改善、雑居拘禁を廃して作業を伴う独居拘禁を採用すべきことを主張、1777年には『イングランドおよびウェールズにおける監獄事情』を公刊し、監獄改良運動に多大の影響を与えた。ヨーロッパ、小アジアの避病院を視察中、患者の熱病に感染し、クリミアのヘルソンで病没した。1866年、イギリスにハワード協会が設立された。同協会は彼の人道主義に倣って、その後の獄制改革に貢献した。

[須々木主一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハワード」の意味・わかりやすい解説

ハワード
Howard, Ron

[生]1954.3.1. オクラホマ,ダンカン
アメリカ合衆国の映画制作者,監督,俳優。子役として 1歳半で映画デビュー,2歳で初舞台を踏む。やがてロニー・ハワードという芸名で活動,シチュエーション・コメディや映画で主要な役を務め,テレビドラマに多数出演した。ジョージ・ルーカス監督作『アメリカン・グラフィティ』American Graffiti(1973)やテレビドラマ『ハッピーデイズ』Happy Days(1974)で人気を博したが,監督業に関心があったため,高等学校卒業後は南カリフォルニア大学映画学科に進学。1977年『バニシング IN TURBO』Grand Theft Autoで監督デビューし,続けて『ラブ IN ニューヨーク』Night Shift(1982),『スプラッシュ』Splash(1984),『バックマン家の人々』Parenthood(1989)などのコメディ映画をヒットさせた。『アポロ13』Apollo 13(1995)で批評家から映画監督として高く評価されるとともに興行面でも成功を収めた。2001年『ビューティフル・マインド』A Beautiful Mindでアカデミー賞監督賞を受賞。その後『シンデレラマン』Cinderella Man(2005),『ダ・ヴィンチ・コード』The Da Vinci Code(2006),『フロスト×ニクソン』Frost/Nixon(2008),『僕が結婚を決めたワケ』The Dilemma(2011)を監督した。1986年に制作会社イマジン・エンターテインメントを設立。同社は映画に加えて『24‐TWENTY FOUR‐』24などテレビドラマも多数手がける。

ハワード
Howard, John Winston

[生]1939.7.26. シドニー
オーストラリアの政治家。首相(在任 1996~2007)。1961年にシドニー大学で法学士号を取得し,1962年ニューサウスウェールズ州最高裁判所弁護士になった。その後政界入りし,1974年の連邦議会下院選挙にオーストラリア自由党から立候補して当選。マルコム・フレーザー首相のもとで 1975~77年に企業消費者担当大臣,1977~83年に財務大臣を務めた。1985年に自由党党首となり,オーストラリア国民党との連立野党を率いた。しかし連立野党は 1987年の選挙でオーストラリア労働党から政権を奪取できず,ハワードは 1989年の自由党党首選挙で再選されなかった。1995年1月に党首に返り咲き,1996年3月の選挙で自由党と国民党の連立勢力を率いて労働党に完勝し,首相に就任した。ボートピープルと呼ばれる漂着難民の入国を拒否するなど厳格な移民政策で国民の支持を取り付け,2001年に首相に再選された。2003年には米英主導のイラク戦争にオーストラリア軍部隊を派遣した。2006年に労使関係の制度改革に着手したが,中小企業の不当解雇法制の廃止が物議をかもした。同 2006年,難民申請者を本土沖合で強制収容する措置を延長する難民関連法案が撤回に追い込まれた。2007年10月,議会選挙を翌月実施すると発表し首相 5期目を目指したが,自由党はケビン・ラッド率いる労働党に敗れたうえ,ハワード自身が落選し,オーストラリアで 2人目の議席を失った現職首相となった。選挙後,自由党党首をブレンダン・ネルソンと交代した。

ハワード
Howard, Trevor (Wallace)

[生]1916.9.29. クリフトンビル
[没]1988.1.7. ブシー
イギリスの俳優。人妻とのせつない恋を描いた映画『逢びき』Brief Encounter(1945)で,心優しい医師を演じたことで最もよく知られる。ロイヤル演劇アカデミー在学中の 1934年にプロとしてデビュー。ストラトフォードアポンエーボンでウィリアム・シェークスピア作品のほか,クライテリオン劇場で上演された『涙なしのフランス語』French Without Tears(1936~38)などの舞台に出演。第2次世界大戦中は陸軍空挺部隊に入隊し休業した。映画出演 3作目の『逢びき』ののち,『第三の男』The Third Man(1949),『事件の核心』The Heart of the Matter(1953),『鍵』The Key(1958),『息子と恋人』Sons and Lovers(1960)などで演技を称賛された。晩年は頑固なイギリスの軍人役が多く,『戦艦バウンティ』Mutiny on the Bounty(1962),『遥かなる戦場』The Charge of the Light Brigade(1968),『ガンジー』Gandhi(1982)などに出演した。

ハワード
Howard, Sir Ebenezer

[生]1850.1.29. ロンドン
[没]1928.5.1. ウェリンガーデンシティー
イギリスの田園都市運動の創始者。1872年アメリカ合衆国に渡りネブラスカ州で農業に従事後,イリノイ州シカゴで裁判所の速記係を務めていたが,1876年帰国。ヘンリー・ジョージ,エドワード・ベラミーらの著作を読み土地改革論者となった。1898年『明日-社会改革にいたる平和な道』To-morrow: A Peaceful Path to Social Reformを著した。1899年田園都市協会創設。1902年改訂版を『明日の田園都市』Garden Cities of To-morrowとして刊行。1903年田園都市レッチワースの計画に着手。1920年ウェリンガーデンシティーを建設。1927年ナイトに叙せられた。

ハワード
Howard, Sidney Coe

[生]1891.6.26. カリフォルニア,オークランド
[没]1939.8.23. マサチューセッツ,ティリンガム
アメリカの劇作家,小説家。カリフォルニア,ハーバード両大学卒業。第1次世界大戦に従軍後,1919~21年『ライフ』誌編集者。『彼らはほしいものを知っていた』 They Knew What They Wanted (1924) でピュリッツァー賞を得,その後『銀のきずな』 The Silver Cord (26) などの喜劇で劇作家としての地位を確立。 C.バン・ドーレンの『ベンジャミン・フランクリン』を脚色中,トラクタで事故死した。

ハワード
Howard, John

[生]1726.9.2. ベッドフォード
[没]1790.1.10. ウクライナ
イギリスの社会改良家。監獄改良運動のために,イギリスのあらゆる刑事施設をみずから実態調査し,さらにヨーロッパ諸国の監獄をも視察したうえで,1777年,『監獄事情』 State of Prisons in England and Walesを発表して,当時の監獄の腐敗,囚人の悲惨な状態を訴えた。これが,多くのイギリス国民の心を動かし,政府も積極的に問題に取組むこととなり,監獄内の衛生状態の改善,犯罪者の処遇をより矯正的なものに改善する施策が推進された。

ハワード
Howard, Sir Robert

[生]1626
[没]1698.9.3.
イギリスの劇作家,政治家。バークシャー伯トマスの6男。清教徒革命では王党派に属して戦い,共和制の期間中は入牢。王政復古後,国会議員,次いで枢密顧問官として活躍。文学者としては,戯曲における脚韻の使用に反対して,義弟ドライデンと論争した。後者の『劇詩論』に登場するクライティーズのモデルとされる。喜劇『委員会』 The Committee (1662) ,ドライデンとの共作による悲劇『インディアンの女王』 The Indian Queen (64) などのほか,詩集がある。

ハワード
Howard, Roy Wilson

[生]1883.1.1. オハイオ
[没]1964.11.21. ニューヨーク
アメリカのジャーナリスト,新聞経営者。『インディアナポリス・ニューズ』の記者を経て,1907年 UP通信社の設立に加わり,12年社長。 21年辞任してスクリップス=マクレー系新聞 (のちのスクリップス=ハワード) の経営を支配,また 31年からは『ニューヨーク・ワールド・テレグラム』 (1950年以降『ワールド・テレグラム・アンド・サン』) の社長兼編集主幹。

ハワード
Howard, Leslie

[生]1893.4.3. ロンドン
[没]1943.6.1.
イギリスの俳優。 1917年ロンドンで初舞台を踏み,20年代には舞台での地位を不動のものにしたが,30年代以後はアメリカ映画で活躍。『ピグマリオン』 Pygmalion (1938) では A.アスキスと共同監督も試みた。第2次世界大戦中,リスボンからロンドンへ向う搭乗機が撃墜されて死亡。

ハワード
Howard, Oliver Otis

[生]1830.11.8. メーン,リーズ
[没]1909.10.26. バーモント,バーリントン
アメリカの軍人。 1854年陸軍士官学校卒業。南北戦争で北軍に加わり,義勇軍大佐からテネシー軍団司令官に昇進。 62年バージニア州フェアオークスの戦いで右腕を失った。同年陸軍少将。 65~72年解放黒人局局長。黒人に門戸を開いたハワード大学設立者の一人で,69~73年第3代学長。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報