改訂新版 世界大百科事典 「造船業」の意味・わかりやすい解説
造船業 (ぞうせんぎょう)
造船業とは,文字どおり船を造る産業である。船は,目的別には,軍艦,商船,特殊船に分けられる。このなかでも,造船業のおもな対象となるのは商船である。商船は,運賃収入・用船料収入を目的とする旅客輸送船・貨物輸送船に大別される。いずれにせよ,船は,ある地点からある地点への人や物の移動に用いられる輸送機関である。したがって,景気等経済の動きに伴う旅客移動・貨物流動量の変動,および自動車,飛行機など他の輸送手段の発達が,商船そのものへの需要,ひいては造船業への発注量を左右する。これが,造船業が典型的な受注産業といわれる理由である。
第2に,造船業は総合組立(アセンブリー)産業である。船を造る業とはいえ,造るのは船体と主機だけであり,その他の部品はほとんど外注する。換言すれば,アセンブリー産業の典型である。したがって,それほど高度の加工技術を必要としない。これが,かつて日本の造船業が急激な成長をとげ,近年中進国などの追上げを受けている理由ともなっている。
第3に,造船業は地方立地性が高い産業である。広大な敷地と港の確保がまず必要となるため,立地可能な地域が限られてくる。また船は,素材およびボイラーなど200種類以上の関連工業製品から造られている。したがって,造船業とそれを取り巻く関連工業群が,産業集積を形成しやすい。そこから,造船企業城下町といわれるように,造船業の浮沈の影響をもろに受けやすい地域が出てくることになる。
第4に,造船業は労働集約的な産業である。これは,1隻数十億円の貨物船,数百億円のLNG船など,1隻1隻がそれぞれ受注に応じた製品であり,多品種少量生産であること,および前述のとおり数多くの部品を組み立てる組立型産業であること,による。
第5に,造船業は輸出型の産業である。これは,海外交易に使われる外航船が外国船主によって発注されるケースが多いことによる。たとえば,日本は輸出比率は9割以上となっている(1996年度の新造船受注量ベース)。
日本が〈造船王国〉と呼ばれるまでになった背景には,(1)多くの港湾立地を可能にする長い海岸線という恵まれた自然条件,(2)日本の労働者の勤勉さ,および高い技術者水準,(3)数多くの造船関連企業群の高い工業技術レベル,たとえば,基礎素材としての鋼材を安価・良質に安定供給できる鉄鋼業の能力,(4)国防や国際収支上の観点から国家が手厚い保護を与えていること,たとえば,輸出船のための日本輸出入銀行延払融資,計画造船制度の強化による国内外航船の建造,そのための利子補給制度,日本開発銀行の低利融資制度などがあげられる。
執筆者:徳田 賢二
江戸末期から第2次大戦まで
幕藩体制下で日本在来の造船業は大和型木造船を生み出したが,それは沿岸航行用で渡洋には耐えられなかった。ところが欧米では19世紀初頭から蒸気機関の改良が進み,同世紀半ばから鉄製船の建造が始まった。従来のアメリカの木造帆船に代わって1860年代には鉄製汽船が台頭し,80-90年代にその優位を不動のものとした。機械・鉄鋼業の発展を背景にイギリス造船・海運業が世界を制したが,これは日本の造船業よりはるかに高い生産力水準に到達したということでもあった。幕末開港前後の1850年代以降在来の造船業とは隔絶した地点で,国防上の見地から近代造船業の移植・導入が試みられた。イギリス造船業との著しい生産力格差を埋めるべく要請された大規模な固定資本投資は,民間業者の耐えうるところではなく,幕府等によって担われざるをえなかった。幕府は1853年に寛永以来の〈大船建造の禁〉を解除して横須賀の浦賀に造船所を開設し,これが日本近代造船業の出発点となった。次いで56年に水戸藩が江戸の石川島に,幕府が長崎に修理工場を建設した。明治新政府はそれらを引き継ぎ官営造船所としたのである。
この後も造船業には国家による手厚い保護・育成政策が加えられ,造船業は日本における重工業化の主導産業の地位にあった。それというのも,繰り返された戦争が海軍兵力の増強と海上輸送力の拡充を要請したからであり,国際収支の均衡化のためにも海運・造船業の発達が求められたからである。直接的には海軍工厰の拡充が図られたが,具体的にはイギリスから主として艦艇建造技術を導入し,日本造船技術の向上を先導した。そして,1880年代には官業払下げの一環として,長崎造船所,兵庫造船所(1871開設)が三菱(郵便汽船三菱会社,のち三菱重工業),川崎(川崎築地造船所,のち川崎重工業)に払い下げられた(1887)。これは民間造船業の中核となった。しかし,イギリスとの生産力格差は大きく,海運業が船舶輸入に依存したため造船業の発展は阻まれていたが,96年に公布された〈航海奨励法〉〈造船奨励法〉が転機となった。前者は1000総トン,速力10ノット以上で一定の船齢の遠洋航路就航船に奨励金を交付するもので,99年には国産船舶優遇措置が講じられ,その後重要航路保護が強化された。これは日本郵船等の欧米海運業に対する競争力を強化するものであった。後者は700総トン以上の国産船舶に奨励金を付与するもので,これにより1897-1912年に917万円の奨励金が交付され,34万総トンの商船建造が行われたのである。
このような保護政策下で,造船業は国際的な水準を満たす大型鉄鋼汽船を建造しうる生産力を備えて第1次大戦を迎えた。大戦は一方で膨大な商船需要を生み,他方で海軍の巨大な拡張を可能とした。日露戦争時に初めて本格的な艦艇建造を行った民間造船業は,鉄鋼材,熟練労働力の不足に悩まされながらも建造高を著増させ,19年の建造高61万総トンはアメリカ,イギリスに次ぐものであった。それは1918年の〈日米船鉄交換契約〉により鉄鋼材不足が日米船鉄交換で緩和されたためでもあったが,第1次大戦後は事態が一変した。造船奨励法消滅後も新船輸入は阻止しえたが,20-30年代初頭には世界的な商船船腹過剰と,1922年のワシントン軍縮条約,30年のロンドン軍縮条約によって造船市場の縮小・低迷が生じたためであった。しかし,この時期にもヨーロッパからのタービン,ディーゼル技術の導入・消化が図られ,電気溶接技術も進歩したのである。
1930年代の景気回復期には1932年から数年実施された船舶改善助成施策等もあって商船建造高が回復したが,軍縮条約破棄後の37年以降には艦艇建造も著増した。日中戦争から太平洋戦争にかけて,造船業は直接的な海軍兵力と海上輸送力の基礎産業として日本戦争経済の基幹産業であった。39年に公布された〈造船事業法〉を皮切りとする戦時統制下で,商船建造高は42年の42万総トンから44年度の158万総トンへと増大したが,それでも膨大な船舶喪失を埋めることはできなかった。海上輸送力の縮小によって資材不足は深刻になり,労働力不足,空襲の激化もあって,45年度の建造高はわずか16万総トンとなった。
執筆者:橋本 寿朗
第2次大戦後
戦前,軍需を中心にイギリス,アメリカに次ぐ造船国にのし上がった日本の造船業は,敗戦から1946年までは,占領軍の対日政策の下に置かれていた。これは,日本の造船能力を年間15万総トンに抑えようとする厳しいものだった。しかし,47年に入って対日賠償は大幅に緩和され,49年に造船施設の賠償のための撤去はまぬかれることとなった。当時の日本の造船能力は年間80万総トンといわれ,船台の損害はそれほど大きくなかった。これが,戦後の造船業早期復興に大いに役立つこととなった。また,当初占領政策により認められていなかった外航船舶の建造も,50年には認められるようになった。
こうして,日本造船業の実質的な再スタートとして,1947年からの計画造船および輸出船商談が開始された。この計画造船による建造方式は,〈国が各年度ごとに船種別の建造量や資金計画を決定し,建造希望船主のなかから適格船主を選定して,建造所要資金の相当部分につき財政資金を融資する〉というものであった。これは,1947年から57年までの間に,1081隻,3102万総トンの外航船舶の建造実績を残した。
1955-60年は,日本の造船業が近代化努力を進めた時期である。とくに1956年は,エジプトのナセル大統領によるスエズ運河の国有化宣言,および朝鮮戦争に伴う伝統造船国の受注能力の限界もあって,日本の輸出船の受注が国内船を上回り,第1次輸出船ブームと呼ばれる活況を呈した。その結果,同年の日本の造船高はイギリスを抜き,以降日本は世界一の造船国にのし上がった。
1960-65年は,設備の大型化,合理化を進めた時期である。1956年後の輸出船ブーム時以降に輸出された船が日本船の評価を高め,VLCC(very large crude oil carrier,20万トン以上),ULCC(ultra VLCC,30万トン以上)などタンカー建造などに用いられる大型ドックのような大型新鋭設備の建設が進められた。一方では,大幅な生産性向上を可能とする合理的な建造法,ブロック建造工法,電子罫書(けがき)法,先行艤装などが導入され,世界のシェアの過半数を占めるに至った。また,日本の鉄鋼業の製鉄技術が大幅に向上し,価格・品質ともに安定・向上した鋼材を供給可能にしたことも,造船業発展の大きな支えとなった。
とくに66-73年は,日本造船業の設備拡張期といえる。ちなみに,1948年に全溶接で造られた新和丸は1800DWT(重量トン)だが,73年に竣工したグロブティック・トーキョーは実に48万3000DWTと,300倍近くなっている。
73年秋の石油危機以後は,日本造船業の造船不況からの立直りの時期である。1972-73年の建造船腹がニクソン・ショック,石油危機を経て,船腹過剰に陥り,それに伴う設備拡大が過剰な建造能力をもたらした。74年のピークの手持工事量は5900万総トンだったのが,79年には700万総トンと実に1/10近くにまで落ち込んだ。この背景には,(1)石油危機後の景気後退に伴う世界貿易量の減少,石油価格高騰に伴う石油需要量の減少によるタンカーをはじめとする船舶需要の急減,(2)中進国などの追上げが急なこと,(3)ECをはじめとする各国の国内造船保護政策,(4)日本の造船が他国に比べてタンカーに傾斜していたこと,がある。
この不況下,陸上部門を抱えている大手,内航船主体のメーカーは,操業調整・人員整理を進めていったが,それができないメーカーには,経営危機に陥るところも多く,地域経済へ大きな打撃を与えている。政府では,1978年に〈特定不況産業安定臨時措置法〉による構造不況対策法を策定するとともに,(1)61社平均で既存能力の35%カット,(2)79-81年の造船不況カルテル認可による操業調整,(3)特定船舶製造業安定事業協会による過剰造船設備・土地の買上げ,(4)中小造船の系列強化,などの立直し策を講じてきた。
日本造船業の現状
新造船受注量は,1978年に365万GT(総トン)にまで落ち込んだが,79年,80年と受注量が伸び,81年,82年は減少しているが,それでも1978年当時の水準は上回っている。
造船不況により造船専業度の高い中小クラスの倒産は30社ほどに達し,各社ともに人員整理,過剰設備の買上げ,採算線受注の拡大による減量経営が推し進められていった。(1)この減量経営による縮小均衡,(2)世界的な景気の立直りによる受注量の回復,(3)政府の不況対策が,ボトムからの脱出を可能にしたといえる。しかし,1000社近くあった鋼造船企業は減少傾向にある。ピーク時,5000GT以上の船台を保有するメーカーは61社だったが,これが44社に減少している。また,受注量の70%は上位15社によるという大手集中の状況となっている。
1980年の世界の新造船竣工量600万GTのうち,日本のシェアは47%を占めている。またこの内70%は輸出船である。船舶の総輸出に占める割合は,1975年の11%から80年には4%にまで低下している。
日本造船業経営の特色
日本の造船業は戦後の復興から造船不況を経て,経営的にさまざまな対応をしたきたが,以下,日本の造船業経営の特徴を列挙する。
(1)船舶部門以外のウェイトが年を追うごとに増している。船舶部門以外では,機械,プラント,原動機,航空機,鉄鋼,海洋構造物,その他があげられる。ちなみに,三井造船では,1980年と83年とを比べると,船舶部門の構成比が46%から30%へと減少したのに対して,プラント部門が10%から18%,海洋構造物が4%から14%へと比率を高めている。
(2)企業の大型化が進んでいる。1981年の大手7社の完工高の市場占有率(シェア)は合計51.5%である。その内訳は,三菱重工業12.2%,石川島播磨重工業11.6%,三井造船8.9%,日立造船6.3%,川崎重工業5.6%,日本鋼管(現,JFEホールディングス)5.2%,住友重機械工業1.7%,である。また,この大手7社の系列を含めるとシェアはいっそう高いものになる。また,10万総トン以上の船舶建造設備も,三菱重工業の長崎造船所の100万DWTをはじめとして大手7社に限られている。
(3)タンカー中心である。世界のオイルタンカー竣工量に占める日本のシェアは,1973年の57%から81年には63%にまで増えている。もちろん,世界の竣工総トン数が1973年の1433万総トンから,81年には475万総トンに大きく減少しているなかでのシェアであるが,石油危機後も逆にタンカー依存体質を強めていることには変わりはない。
造船業を取り巻く環境
日本の造船業を取り巻く環境は依然として厳しいものがある。これは,(1)中型タンカー需要が一巡していること,(2)石炭バルクキャリアも,産業界の省エネが進んだこともあり需要は減少気味であること,(3)改造船工事も一段落していること,(4)新船建造の利子補給が打ち切られたこと,(5)開銀(日本開発銀行)融資比率の切下げ,(6)海運市況の軟化,(7)輸出船受注の減少,等によるものである。
輸出船受注減少の背景には,韓国・ECの追上げがある。これは,1981年上期から下期への輸出船受注シェアに端的に表れている。日本が上期から下期に55%から44%へ,13ポイント減少したのに対し,韓国は8%から12%,ECは13%から19%と計10ポイント増加し,日本のシェアを食っている。ECが自国の補助金等保護政策によるものであるのに対して,韓国の場合は,次のような追上げ要因があげられる。これは,(1)日本の商社筋による,船殻は労働コストの低い韓国へ,船の性能を左右する主エンジン等の発注は日本へ,という構図,(2)1万トン級の貨物船受注の進展,(3)国の保護・育成策,によるものである。
今後の日本の造船業は,まず特殊用途に用いられ高付加価値を実現できる船種へシフトしていくものと予想される。これには,超自動化船,コンテナートラック用のRORO船,重量運搬船,ケミカル船,さらに代替エネルギー船としてLNG船,鉱炭船,LPG船があげられる。また,コスト・パフォーマンスを追求して設計のCAD(computer aided design)化,ロボット導入も進められ,省エネ・省力船として超幅広,浅喫水船も登場している。
第2に,経営の多角化がさらに進むものと予想される。これは,造船需要の伸びがそれほど見込めないためである。とくに,海洋開発,プラント,社会システム,航空機などがその中心になるものと予想される。
第3に,国際的視野に立って,他国への技術供与,ジョイント・ベンチャー(JV)による技術協力など,積極的な国際交流が進むものと予想される。
第4に,操業度の低下に対応して,人員の陸上部門への転換など,より一層の合理化が進むものと予想される。
また韓国などの追上げも,しだいに人件費圧力や,関連産業の未成熟さというネックが現れはじめている。造船王国としての日本の地位は,当分揺るがないものと予想される。
→船
執筆者:徳田 賢二
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