日本大百科全書(ニッポニカ) 「スチュアート」の意味・わかりやすい解説
スチュアート(Rod Stewart)
すちゅあーと
Rod Stewart
(1945― )
イギリスのロック、ポピュラー歌手、ソングライター。ロンドン生まれ。両親はスコットランド人。14歳からギターを弾き、少年時代はフットボールにも熱中する。1963年から歌手・ハーモニカ奏者としてリズム・アンド・ブルース系のバンドなどに参加。1964年に歌手ロング・ジョン・ボールドリーLong John Baldry(1941―2005)率いるフーチー・クーチー・メンHoochie Coochie Menに加入。デッカ・レコードに歌の才能が認められ、同年10月にデビュー・シングル盤『グッド・モーニング・リトル・スクールガール』Good Morning Little Schoolgirlを発表するが、ヒットには至らなかった。
その後、1965年スティームパケット、1966年ショットガン・エクスプレスへのボーカル参加を経て、同年末ギター奏者のジェフ・ベックのグループに参加。1969年スモール・フェイセズSmall Faces(後にフェイセズと改名)にギター奏者ロン・ウッドRon Wood(1947― )とともに参加、同時にソロ活動も開始する。1971年にはソロ・シングル『マギー・メイ』Maggie Mayが英米両国でヒットしてミリオンセラーを記録。1975年末フェイセズの解散で独立。『セイリング』Sailing(1975)、『今夜きめよう』Tonight's the Night(1976)、『胸につのる想い』You're in My Heart(1977)、『アイム・セクシー』Da Ya Think I'm Sexy?(1978)、『ダウンタウン・トレイン』Downtown Train(1989)などの大ヒットを放ってイギリスを代表するスターになった。1989年にグラミー賞リビング・レジェンズ賞を受賞。しわがれ声の歌唱に生々しい情感の迫力とセクシーな魅力がある。
[青木 啓]
スチュアート(Sir James Denham Steuart)
すちゅあーと
Sir James Denham Steuart
(1713―1780)
スコットランドが生んだ重商主義の経済学者。準男爵。エジンバラに生まれ、エジンバラ大学で法律学を学んだのち、5年間大陸旅行を行う。そのおり、名誉革命で亡命し王位を失ったスチュアート王家の人々や、その復位を企図するジャコバイトの指導者たちと会い、親交を結ぶ。帰国後1745年にそのジャコバイトの反抗がスコットランドに起こった際、フランスの支援を得るためパリに派遣された。しかし、反抗は失敗に帰したため、その後18年間大陸で亡命生活を送った。その間、経済学の研究に着手し、帰国後67年に『政治経済学原理の研究』An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy, 2 vols.を出版した。ヒュームとウォーレスの人口論争批判から出発し、人々が剰余を生産して交換し相互協力の関係にたつ自由な商業社会形成の意義を強調した。消費欲望が貨幣と結合して有効需要となり、この有効需要がその生産の主要な動因になるとした。為政者による保護政策の必要を説き、ヒュームの貨幣数量説を批判した。考察は信用や財政に及ぶ。スミス『諸国民の富』はその原理批判の意図をもつ。死後G・チャーマーズの編集による全集六巻が息子ジェームズの編者名で1805年に出版された。
[川島信義]
『中野正訳『経済学原理』全七冊中1~3既刊(岩波文庫)』▽『加藤一夫訳『経済学原理』全三巻(1980~82・東京大学出版会)』▽『川島信義著『ステュアート研究』(1972・未来社)』▽『小林昇著『経済学史著作集V J・ステュアート研究』(1977・未来社)』
スチュアート(Douglas Alexander Stewart)
すちゅあーと
Douglas Alexander Stewart
(1913―1985)
オーストラリアの詩人、劇作家、批評家。ニュージーランド北島エルサム生まれ。第一詩集『緑のライオン』(1935)刊行。1938年、『ブリティン』誌記者となり、シドニーに移住。1940年より文芸欄を担当する( ~1961)。第一詩集に続いてニュージーランドの風景を賛美した第二詩集『白い叫び』(1939)はロンドンで刊行、続いて第二次世界大戦時の『ある航空兵挽歌(ばんか)』(1940)、『無名戦士に捧(ささ)げる小曲』(1941)などはシドニーで出版。叙情詩人の文名を得たが、ついで口語を大胆に用いた歴史伝説に基づくラジオ向けの詩劇『ネッド・ケリー』(1943)、『雪上の火』『黄金の恋人』(ともに1944)などを上演、放送して大衆の喝采(かっさい)を得た。ほかに最後の詩集『ラザフォード』(1962)、ついで『詩集1936―1967』(1967)、『ブリティン誌の作家たち』(1977)などの評論、短編集に『赤毛の少女』(1944)がある。また多くの新人を紹介、『昔の奥地民謡及び植民地時代の押韻詩集』(1957)の刊行など、この国の文壇でもっとも幅広く活躍した。
[平松幹夫・古宇田敦子]
スチュアート(Ellen Stewart)
すちゅあーと
Ellen Stewart
(1919―2011)
アメリカの黒人女性演劇プロデューサー。シカゴ生まれ。ニューヨークの有名デパートの服飾デザイナーから転身し、無名の劇作家たちに発表の場を提供する目的で、1961年マンハッタンのイースト・ビレッジにブティック兼劇場スペース付きコーヒーショップ「カフェ・ラ・ママ」を開店。翌1962年、最初の演劇公演を行いオフ・オフ・ブロードウェー演劇運動の生みの親の一人となる。のちに「ラ・ママ実験劇場」La Mama Experimental Theatre Clubに改組、つねに資金難と闘いながらも、アメリカ国内の実験的作品に限らず、いち早く人種や国籍を越えて世界各地の演劇人に門戸を開き、劇場を世界の多様な演劇のメッカに仕立て上げた。東京キッドブラザースや寺山修司をはじめとして、富良野(ふらの)塾、木山事務所など、彼女の恩恵を受けた日本の演劇人も数多い。
[一ノ瀬和夫]
スチュアート(James Stewart)
すちゅあーと
James Stewart
(1908―1997)
アメリカの俳優。ペンシルベニア州生まれ。プリンストン大学在学中演劇の道に入り、ブロードウェーの舞台を経て1935年映画界入り。『我が家の楽園』(1938)、『スミス都へ行く』(1939)などのフランク・キャプラ作品で長身でのっそりとした善良なアメリカ青年を演じ、『フィラデルフィア物語』(1940)でアカデミー主演男優賞を受賞した。第二次世界大戦後は『グレン・ミラー物語』(1954)や『翼よ!あれが巴里(パリ)の灯(ひ)だ』(1957)など実在の人物に扮(ふん)し好演、意志の強い男をしばしば演じ、長い演技生命を保った。70年代は『陽気なハワード一家』『ホーキンス』などテレビシリーズに主演する一方、ブロードウェーにカムバック。80年代は彼の偉業に対する多くの賞が各方面から贈られ、85年にはアカデミー名誉賞を受賞した。80年(昭和55)、羽仁(はに)進監督の日本映画『アフリカ物語』に出演した。
[畑 暉男]
スチュアート(Gilbert Stuart)
すちゅあーと
Gilbert Stuart
(1755―1828)
アメリカの画家。連邦時代の代表的な肖像画家で、ロードアイランドのニューポートに生まれる。1775年ロンドンで肖像画家として出発し、ウェストのもとで修練したのが幸いして、82年『スケートする人』で一躍注目される。のちアイルランドのダブリンでも肖像画家として活動するが、92年帰米し、東部の大都市で名声をはせる。ジョージ・ワシントン像を数多く描いたことで知られ、なかでも96年の作品は、ワシントン大統領の肖像の決定版として、その後のワシントン像の基準となった。華麗な筆さばきで対象を理想化する手法を得意とした。
[桑原住雄]