エチオピア支配を目ざしたイタリアの侵略戦争。19世紀末および1930年代の二度にわたって行われた。
19世紀末の帝国主義列強のアフリカ分割競争に立ち後れたイタリアは、アフリカ東部唯一の独立国エチオピアに関心をもち、1889年同国の内紛に際しメネリク2世を支援して皇帝即位を実現させるとともに、同年のウッチャリ協定によってエチオピアの保護領化を計画していた。ところが93年メネリク2世がフランスの支持を得てウッチャリ協定を破棄すると、イタリアは軍隊を派遣し、侵略を開始した。しかし、96年アドワでイタリア軍が大敗、これによりイタリアの侵略計画は挫折(ざせつ)し、同年のアディス・アベバ協定でエチオピアの主権は確保された。
[藤村瞬一]
第一次世界大戦後のベルサイユ体制において領土的野心を充足されなかったイタリアは、豊かな資源に恵まれたエチオピアを再度、侵略目標に選んだ。1934年12月、イタリア領ソマリランドと国境を接するワルワルの町で両国の軍隊の衝突事件があり、イタリアはこれを本格的な侵略の契機にしようとした。エチオピアはただちに国際連盟に提訴するとともに、28年の両国仲裁条約に基づき仲裁を求めたが、仲裁は容易に成立しなかった。この間、フランスは35年1月、ラバル‐ムッソリーニ協定によってイタリアのエチオピア侵略に暗黙の了解を与えており、また、同年3月のドイツの再軍備宣言によって、列強の関心はヨーロッパに集中していた。さらに同年8月、アメリカは中立法を制定して紛争の局外にたつ態度を示した。こうした情勢からイタリアは、エチオピア侵略の好機と判断し、10月、宣戦布告もなく約80万の兵力を投入、侵略を開始した。国際連盟はようやく規約第16条に基づく初の制裁を決議したが、制裁の内容は経済面に限定され、イタリアが戦争に不可欠とする石油の禁輸は除外するという緩慢なものであった。また、イギリスもイタリア艦船のスエズ運河通過を禁止せず、とくに英仏は同年12月ホーア、ラバル両外相の間でエチオピアをイタリアの保護国とする戦争の終結案を発表するなど、大国の対イタリア宥和(ゆうわ)策は明瞭(めいりょう)であった。イタリアはエチオピア軍の激しい抵抗と高地での戦闘に苦しんだが、違法な毒ガスの使用と近代兵器の大量投入によってようやくエチオピア軍を圧し、36年5月2日、皇帝ハイレ・セラシエが亡命、5日首都アディス・アベバが陥落、9日イタリアのエチオピア併合宣言によってエチオピア戦争の幕は閉ざされた。
[藤村瞬一]
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…19世紀末以降,イタリアが2度にわたってエチオピアに対して行った侵略戦争。イタリアは1880年代にエチオピアのアッサブからマッサワに至る紅海沿岸に進出し,90年1月この地域をエリトリア植民地として支配下においた。一方1889年エチオピア皇帝位継承争いに乗じてショア王(のちエチオピア皇帝)メネリクと友好通商協定(ウッチャリ協定)を結び,エチオピアの保護領化を狙った。93年メネリクは協定を破棄してイタリアの干渉を排除しようとしたが,イタリアはエリトリア植民地を拠点としてエチオピアへの軍事侵略を続けた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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