ソマリア(読み)そまりあ(その他表記)Somalia

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共同通信ニュース用語解説 「ソマリア」の解説

ソマリア

「アフリカの角」と呼ばれるアフリカ東部に位置する。人口は約1800万人で、イスラム教が国教。1969年のクーデターで誕生したバーレ政権が91年に崩壊後、武装勢力が割拠して無政府状態に陥った。2007年に国際テロ組織アルカイダ系のイスラム過激派組織アルシャバーブが結成された。12年に正式政府が発足したが、アルシャバーブの攻撃を受け政情不安が続いている。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ソマリア」の意味・読み・例文・類語

ソマリア

  1. ( Somalia ) アフリカ大陸の東端、ソマリランドにある民主共和国。一九六〇年旧イギリス領ソマリランドが独立、さらに旧イタリア信託統治領ソマリアと合併して成立。住民の大多数はソマリ族で、遊牧または半遊牧の生活を送る。主要輸出品はバナナ。首都モガディシュ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ソマリア」の意味・わかりやすい解説

ソマリア
そまりあ
Somalia

アフリカ大陸北東端、「アフリカの角(つの)」とよばれるソマリ半島の大部分を占める国。正称はソマリア民主共和国Al-Jumhurīya al-Somaliya al-Dimuqrātīya。東と南はインド洋に面し、北は紅海の入口のアデン湾を隔ててイエメンに対し、北西端でジブチ、西はエチオピアおよびケニアと国境を接している。面積63万7657平方キロメートル、人口822万8000(2005推計)。首都はモガディシオ

[赤阪 賢]

自然

北部には、エチオピア高原から連なる標高2000メートル以上の山地があり、サバナの平原を経て南の亜熱帯地方に続いている。河川は年間を通して水をたたえるジュバ川とシベリ川があり、海岸平野も形成されている。そのほかは乾燥した不毛の土地となっている。気候は一般に暑く、とくにアデン湾岸のベルベラの7月の平均気温は36℃に達する。ハルゲイサなど北部高地では比較的温和で、年平均気温は22℃である。

[赤阪 賢]

地誌

人口密度は1平方キロメートル当り14人で、遊牧民のソマリ人が各地に分散して居住している。人口が集中しているのは、北部のベルベラ、ハルゲイサや、南部のモガディシオ、キスマユなどの都市と、ジュバ、シベリ両河川に挟まれた農耕地に限られている。首都モガディシオは人口約116万で、独立以降の人口集中が急激である。古い伝統のあるイスラム都市であったが、植民地時代の影響でイタリア式の建築が多く残っている。14世紀にはイブン・バットゥータも来訪し、その繁栄を記録にとどめている。南部のキスマユはジュバ川流域の中心地であり、肉や魚の缶詰工業が立地している。北部のベルベラは港町で、対岸のアデンへの家畜輸出の中心地となっている。

[赤阪 賢]

歴史

古代エジプトと交易したプントの国をソマリアとする説もあり、古くから開けていた。とくに北部の紅海やアデン湾沿岸はシナモン海岸とよばれ香料の産地として知られた。10世紀ごろからアラビア人の交易基地が東部の海岸に建設され、ゴムや木材の輸出の拠点となった。モガディシオもその一つで、内陸の遊牧民へのイスラム教普及の基地となった。もともと遊牧民のソマリが居住していたが、彼らは10世紀にはイスラムに改宗し、アデン湾やインド洋と内陸のエチオピアなどとの交易を仲介した。ソマリ人は単一の集権国家を形成しなかったが、北部のアダル土侯国は16世紀に勢力を伸長し、エチオピア侵攻を果たしている。18世紀以降、ソマリ人の交易都市はアラブ人やオスマン帝国に支配された。ポルトガルも東アフリカからソマリアへ食指を動かしたが勢力は定着しなかった。一方、エチオピアを保護領としたイタリアが、ソマリアの東部および南部の海岸地域に勢力を拡大した。1892年にはザンジバルのスルタンから、モガディシオ、ブラバ、メルカ、ワルシェイクなどの港の租借権を得て、さらに1905年には直接統治を完成した。

 一方、北部では、1854年にイギリスの探検家リチャード・バートンが初めてハラール高原からソマリア北部に入った。1884年にはイギリスが北部をソマリランド保護領として支配し、西部のフランス、南部のイタリアと、ソマリアを三分した。住民の反抗も激しく、ムハンマド・アブディル・ハッサンMohammed Abdullah Hassan(1864―1920)の率いる反乱は20年間続き、「マッド・ムラー」として恐れられた。1935年のイタリア・エチオピア戦争の結果、イタリアはエチオピア全土を支配し、さらに1940年から第二次世界大戦中までソマリランド保護領を占領した。この間、北ケニアとジブチを除いてソマリアはイタリアの支配下にあった。1941年から1942年にかけての北東アフリカにおけるイタリアの敗退で、イギリスがとってかわり、数年間同様の支配を受け継いだ。1941年5月、アディス・アベバに返り咲いたハイレ・セラシエ皇帝はイタリアの旧植民地の返還を要求したが、ソマリ人の居住するハウドおよびオガデン地方と、その他の保留地区はイギリスの軍政下に置かれたままとなった。1949年、旧ソマリ植民地を10年間イタリアの国連委任統治下に置くことが決定されたが、エチオピア皇帝はソマリ人の民族自決の原則を踏みにじるものと非難した。一方、モガディシオで結成されたソマリ青年同盟は文化的・政治的自由を叫び、その運動はソマリア全土に急速に広がった。

 1960年6月、北部はソマリランドとして独立、同年7月、イタリアの信託統治となっていた南部と合体してソマリア共和国となった。初代大統領にはソマリ青年同盟のシェルマルケAbdirashid Ali Shermarke(1919―1969)が選出された。

[赤阪 賢]

政治

独立後ソマリ青年同盟を中心とする連立政権が発足したが、小民族グループを代表する政党が分立し、政情は不安定な状態が続いた。1969年10月、大統領シェルマルケが暗殺されると、軍部が無血クーデターに成功し、軍参謀長モハメド・シアド・バーレMohamed Siad Barre(1919―1995)を議長とする最高革命評議会が権力を握った。国名をソマリア民主共和国と改称、評議会議長バーレは大統領に就任し、憲法を停止して議会を解散した。

 1970年10月には社会主義国家の樹立を宣言し、新たに結成したソマリア社会主義革命党による一党独裁体制を敷いた。1979年8月、国民投票により新憲法を制定、1984年12月、大統領を直接選挙で選ぶよう憲法を改正した。その間、1974年にはソ連と友好協力条約を締結した。また、独立以来、エチオピア、ケニア、ジブチにまたがって分散しているソマリ人を結集する「大ソマリア主義」を打ち出し、とくにエチオピアと領土紛争を繰り返した。1977年7月にはソマリアとの合併を主張するエチオピアの西ソマリア解放戦線を支持し、オガデン地方に侵入した。しかし、ソ連の援助を受けたエチオピア軍に敗れ、オガデン地方から撤退するとともに従来の親ソ路線を転換し、1977年11月には対ソ友好協力条約を破棄した。1980年にはベルベラ港のアメリカ合衆国の海・空軍基地としての使用を認め、そのかわりに軍事援助を受けた。エチオピアとの武力衝突は、その後も1982年、1983年と再燃した。

 また、オガデン地方からの150万人に上る難民が存在し、さらにソマリア民主救国戦線、ソマリア民族運動などの反政府活動も活発で、バーレ政権は政治的、経済的に難問を抱えた。1977年のオガデン地方への侵入の際、ソマリアはアフリカ諸国から非難を浴び政治的に孤立したが、1981年のアフリカ統一機構(OAU)首脳会議以降、ケニア国内のソマリ人分離運動のため冷却していたケニアとは和解した。1991年、反政府勢力統一ソマリア会議(USC)の首都制圧でアリ・マフディー・モハメドAli Mahdi Mohamed(1939―2021)暫定大統領が就任したが、北部などが反発、暫定大統領派とアイディードMohamed Farrah Aidid(1934―1996)将軍派が対立し内乱状態に陥った。

 1992年4月国連ソマリア活動(UNOSOM)が設置され、1993年5月には平和執行部隊(UNOSOM Ⅱ)が武力行使を行ったが、犠牲者を出すなど失敗に終わり、1994年11月に撤退した。1995年6月アイディードは大統領就任を宣言し、アイディード派から離脱したアリ・アトOsman Hassan Ali Atto(1940―2013)ソマリア国民同盟(SNA)議長派をはじめ、対立する各派と戦闘を継続したが、1996年8月に戦闘中の負傷により死亡した。モハメド暫定大統領は一方的に停戦を宣言した。同年10月隣国ケニアの仲介でいったんアイディード、モハメド、アトの3派の停戦合意が成立したが、その後も戦闘は継続。3派を含む武装28派は、1997年12月カイロで無条件停戦などを定めた和平協定に調印した。しかしその後も内乱は続き、2000年5月ジブチで和平会議が開かれた。同年8月にアブディカシム・サラド・ハッサンAbdiqasim Salad Hassan(1941― )が暫定大統領に選ばれたが、氏族間の闘争、混乱が続いた。

 2002年10月より、政府間開発機構(IGAD)主導によるソマリア国民和解会議がケニアにて開催。2004年8月にケニアのナイロビに暫定連邦議会が発足し、同議会は同年10月に暫定大統領としてアブドゥラヒ・ユスフを選出した。11月ユスフはアリ・モハメド・ゲディAli Mohamed Gedi(1952― )を首相に任命。2005年1月にゲディ首相の組閣した内閣が議会によって承認された。同年6月、暫定連邦政府はソマリア入りし、ジョハールを暫定首都とした。

 他方、2006年6月に、イスラム法廷連合がモガディシュを占拠し、その後、南部地域も制圧した。同年12月24日、エチオピア軍の支援を受けた暫定連邦政府軍とイスラム法廷連合との間で戦争が開始され、同月30日には暫定連邦政府軍およびエチオピア軍が首都モガディシュを占拠、さらに南部地域も制圧した。しかし2007年11月、暫定連邦政府に反対する勢力が、モガディシュにてゲリラ戦術による抵抗を強化。予断を許さない状況が続いている。

[赤阪 賢]

経済

国内総生産(GDP)は48億0900万ドル(2005)、1人当り国民総生産600ドルという数字はアフリカで低い部類に入る。独立直後、ソマリアは「援助の墓場」というあだ名をもらった。1969年のバーレ政権成立以後、自立が強調されているが、なお多くを外国の経済援助に依存している。農業では独立後バナナの生産が増大したが、これはイタリア向けの輸出作物である。サトウキビ、アワ、トウモロコシ、イネ、タバコ、ラッカセイなどの商品作物の生産も増大している。農業投資はおもに南部、とくにジュバ川流域に集中している。ソマリ住民の60%はウシ、ラクダ、ヒツジ、ヤギなどの家畜の飼養を行う遊牧民で、皮革、バター、家畜は重要な輸出品である。しかし、1974年の干魃(かんばつ)で100万頭の家畜が失われ、その後農業や漁業への定住政策がとられた。1968年には肉の缶詰工場が導入され、マグロなど魚の缶詰工場も設立され、世界銀行の援助によりモガディシオ港の掘削も進められた。しかし、その後の内戦で穀物生産が著しく衰え、1996年世界食糧計画(WFP)の要請で各国が緊急援助を行った。貿易相手国としては、輸出がアラブ首長国連邦、イエメン、ナイジェリアクウェートなど、輸入はジブチ、ケニア、インド、ブラジル、オマーンなどとなっている。

[赤阪 賢]

社会

住民の大部分はソマリ人で、ディル、イサク、デキルなどの集団に分かれるが、それらには文化的、言語的、宗教的な共通の基盤がある。そのためソマリアはアフリカでも珍しい一民族、一文化、一言語の国である。また、100万人以上のソマリ人がケニアなど国境を越えて居住している。スンニー派のイスラム教を奉じ、言語ではハム語系のソマリ語が公用語であり、1972年以降ラテン文字表記で書くことになった。さらに、アラビア語、イタリア語、英語も教育のある人々に用いられている。南部の沿岸の町ではスワヒリ語も普及している。

 遊牧民が多いため、初等教育は義務教育にもかかわらずあまり進んでいない。初等学校生徒数は19万4335人、中等学校生徒数は3万7181人(1985)にすぎない。モガディシオのソマリア国立大学は1959年に創設され、4650人(1994)の学生がいる。

[赤阪 賢]

日本との関係

日本は、1960年(昭和35)7月に独立を承認したが両国関係はいまだ希薄である。貿易は日本からの輸入が自動車、貨物自動車などで2800万円、日本への輸出は生鮮魚類などで6100万円(2005)。日本からの政府開発援助(ODA)実績は、2005年度までの累計で有償資金協力が64.70億円、無償資金協力が178.75億円、技術協力実績が8.68億円となっている。

[赤阪 賢]


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改訂新版 世界大百科事典 「ソマリア」の意味・わかりやすい解説

ソマリア
Somalia

基本情報
正式名称=ソマリア民主共和国Somali Democratic Republic 
面積=63万7657km2 
人口(2008)=895万人 
首都=モガディシュMogadishu(日本との時差=-6時間) 
主要言語=ソマリ語,アラビア語,英語,イタリア語 
通貨=ソマリ・シリングSomali Shilling

アフリカ大陸の東端に位置する国。アデン湾の南岸からインド洋沿岸にかけて,かぎ形に展開する国土をもち,〈アフリカの角(つの)〉地域の主要部分を構成している。1960年6月に北部のイギリス領ソマリランドが独立し,つづいて同年7月に南部のイタリア信託統治領ソマリランドが独立すると,これと合邦してソマリア共和国(1969年にソマリ民主共和国と改称)となった。国名はいかにも牧畜国らしく,〈乳を搾る〉を意味する〈ソマール〉に由来する。
執筆者:

インド洋に面する部分は,幅20~30kmの砂丘帯にふちどられた単調な海岸線,その内側の堆積性低地,北西方のエチオピア高原に向かってしだいに高さを増す低い台地面(標高500m以下)の3帯で構成される。一方,北部ではエチオピア高原の延長が標高1500m以上の山地をつくり,スルード・アド山(2408m)は国内の最高点となる。この山地は傾動性で,アデン湾側に急崖を向ける。

 国土は北緯12°~南緯2°の熱帯にわたり,海に面するとはいえ,降水に恵まれず,砂漠または半砂漠に広く覆われている。南半球の夏の南東季節風が赤道付近で南西風に変わり,海岸線に並行して吹くこと,北半球の冬の北東季節風は湿気に乏しいことが主因で,南西部低地と北部山地が年平均降水量500mmをこえるにすぎない。アデン湾沿いの狭い低地はとくに乾燥し,年100mmをこえない。平均気温は内陸ほど高い傾向があり,日較差は大きく,内陸では最高気温が40℃をこえることもまれではない。このような自然条件のため,河川の発達は悪く,エチオピア高原に水源をもつ南部のジューバ川,ウェビ・シェベリ川を除き,雨季以外には水をみない小河川にすぎない。

 植生は貧弱で,アカシアやユーフォルビアの散在する乾性草原が主体となり,耐火性の強いバオバブが高木として点在する。森林らしいものは,山地高所のネズやシーダーの類の林を除くと,アカシアを主とする河辺林がめだつ程度である。
執筆者:

住民は国名が示すように8割がソマリ族により占められており,そのほかアファル,オロモ,アラブが居住する。ソマリ族は隣国のエチオピア,ケニア,ジブチにまたがって居住し,その全体の人口は500万以上といわれている。ソマリ族は10世紀に紅海沿岸より南下してきたというが,早くからイスラムに改宗し,スンナ派に属している。ソマリ族は父系クランに分かれているが,そのおもなものは,ディル,イサク,ダロド,ハウィエ,ディギル,ラハンウィンなどで,これらは共通の文化,言語,宗教を有することで大きなまとまりを形成しており,ソマリアはアフリカでは珍しく,文化的統一性の高い国家である。

 ソマリ族の2/3はラクダ,羊,ヤギ,牛を飼養する遊牧民で,牧草を求めて絶えず移動する伝統的な生活様式をとっている。主食はミルクであるが,穀類や肉も食べる。その社会は階層化しており,鍛冶師や皮細工師は低い階層に含められる。政府は遊牧民を定住化させ,農耕に従事させる政策をとっているが,近年とくに1974-75年の干ばつは深刻で,乾季に半砂漠化する北部ではその被害が重大である。南部のジューバ川やウェビ・シェベリ川の流域では定着農耕を行っており,ミレット,トウモロコシ,イネ,バナナなどを栽培している。また海岸地域では漁業が積極的に振興され,漁民に転ずる人々も出現してきた。

 ソマリ語はクシ諸語の一つで,独自の表記法をもっていたが,1972年よりラテン文字表記を採用した。また科学用語などのソマリ語表記を進め,初等教育にも用いることを推進しており,ソマリアはアフリカ諸国の中でも,珍しく自国語による教育が進む国となりつつある。そのほか,アラビア語,英語,イタリア語も用いられており,南部ではさらにスワヒリ語も普及している。
執筆者:

ソマリアはすでに前15世紀ころから,ミルラ(没薬(もつやく))や乳香の産地としてエジプトその他の近隣地域に知られていた。15~16世紀にはポルトガルの勢力が沿岸地域に進出を試みたが失敗に終わった。18世紀初頭に南部沿岸地域がアラビア半島のオマーンのスルタンの支配下に組み入れられ,さらにその後継者である東アフリカのザンジバルのスルタンによって19世紀末まで支配された。他方,北部沿岸地域に対しては,対岸のアデンをインド航路の中継地として確保したイギリスが,その食糧供給地とすべく食指を動かし始め,1884-86年に諸部族の首長と協定を結んで,87年にこれを保護領化した(イギリス領ソマリランド)。同じころ南部への進出をもくろみ始めたイタリアは,まず1885年に最南部の下ジューバ地域へ遠征隊を送って,同地域の管轄権をもつザンジバルのスルタンと通商条約を結んだ。イタリアはさらに北方をうかがい,92年にはモガディシュ,メルカ,ブラバ,ウアルセイクなどの諸港の支配権をスルタンから譲り受け,94年には協定によって南部地域の支配権をイギリス,フランスに認めさせ,その後も勢力を拡大して1908年までには,イタリア領ソマリランドと呼ばれる地域の直接的支配権を確立した。

 こうした植民地主義勢力の進出に対して,19世紀末にサイイド・ムハンマド・アブディル・ハッサンSayyd Muḥammad Abdille Hassan(1864-1920。イギリス人は彼を〈気狂いムラーMad Mullah〉と呼んだ)を指導者とする抵抗運動が起こった。のちのイギリス領ソマリランドに生まれたサイイド・ムハンマドは,早くからイスラムの教義に精通し,その教えを民衆に説いていた。1894年に彼はメッカを訪れ,さらに神秘主義教団アフマディー教団の支派であるサーリヒーヤ派に加わるなどしてから,イスラムの改革への志向とイギリスへの抵抗の姿勢を強め,99年イギリスおよびこれと結んだ既成のイスラム教派に対して聖戦(ジハード)を開始した。さらに1900年彼は,当時ソマリア西部を略取しつつあったエチオピアに対しても反撃の火ぶたを切り,イタリアをも敵に回して戦うにいたった。サイイド・ムハンマドの指導したこの抵抗運動は,ソマリ族の広範な支持を受けて20年まで続けられ,最終的にはおさえつけられたものの,解放闘争の先駆的役割を果たした。第2次世界大戦初期の40年イタリアはイギリス領ソマリランドを一時占領したが,41年にいたって形勢は逆転し,イギリス軍が自国領を奪回したばかりか,イタリア領ソマリランドをも占領した。この状態は戦後の50年まで続いたが,同年国連は,旧イタリア領を10年の期限付きでイタリアの信託統治領とすることを定めた。

 こうして10年後の独立が明確に予定されることになったため,イタリア信託統治領ではソマリ青年連盟(SYL)などによる民族主義運動が急激に高まった。また教育改革が進められ,行政機構へのソマリ族の進出も多く見られるようになった。56年には立法審議会が開設され,同年および59年の選挙で圧勝したSYLの指導の下で独立への準備が着々と進められていった。他方,イギリス領ソマリランドでも,第2次世界大戦後にソマリランド民族連盟(SNL)が創設され,またSYLもしだいに同地域へと勢力を拡大していった。両地域に共通する民族主義運動の目標は,ソマリ族の居住地域の統合と独立であり,59年にはモガディシュで全地域の代表が参加して,パン・ソマリ民族運動という名の組織が結成された。60年に独立を迎えた際,両地域が合邦して単一のソマリア共和国を形成したのは,こうした背景からして自然のなりゆきであった。

 独立後,初代大統領に選ばれたアデン・アブドゥラ・オスマンは,大ソマリア主義を標榜して,フランス領ソマリランド(現,ジブチ共和国),エチオピア領東部(オガデン地域),ケニア北部辺境など,他国のソマリ族居住地域を自国領として奪回しようとしたために,ケニア,エチオピア両国としばしば軍事衝突を起こした。またアメリカの軍事的支援を得ていたエチオピアに対抗する必要上,ソ連に接近して,その軍事援助を導入した。67年の選挙でオスマンを破ったアブドゥル・ラシッド・アリ・シェルマルケが第2代大統領に就任すると,先鋭な大ソマリア主義は修正され,近隣諸国との関係改善の方針が打ち出され,西側諸国との友好関係も推進された。しかし国家建設は容易に進まず,大ソマリア主義も一頓挫をきたしたために,国内の不満はしだいに増大し,69年10月シェルマルケ大統領は暗殺された。同月,新大統領がまだ選出されないうちに軍部が無血クーデタを起こし,シアド・バーレ将軍Muḥammad Siad Barre(1919-95)を議長とする最高革命評議会が政権を握った。同評議会は憲法を停止し,国名をソマリ民主共和国と改めた。

シアド・バーレ政権は科学的社会主義を唱え,自立,自助,社会正義の3原則を主柱とする社会主義社会の建設を目指した。ソマリ革命社会主義党(SRSP)の一党体制を採用し,1976年のSRSP創設以来シアド・バーレがその書記長を務め,79年の新憲法の定めた大統領に80年の選挙で当選した。しかし81年に反政府勢力諸派の統一戦線であるソマリア救済民主戦線(DFSS)が結成され,また同年エチオピアでもソマリ国民運動(SNM)が結成され,反政府活動が展開された。シアド・バーレは86年12月の大統領選挙で99.92%の得票で三選されたが,88年5月以降SNMの攻勢で北部は内戦状態になった。89年3月には南部でも反乱が起こり,7月には首都で暴動が発生,多数が死傷した。なお1977-78年のエチオピアとのオガデン戦争の間,ソ連がエチオピア支援に回ったため,ソマリアは対ソ友好協力条約を1977年11月に破棄し,その後アメリカとの軍事関係を強化した。対エチオピア関係では86年1月の首脳会談以後の和平交渉は一時挫折したが,88年4月にいたって国交を回復した。その後91年1月統一ソマリ会議(USC)が首都を制圧し,アリ・マハディ・モハメドが暫定大統領に就任した。また同年6月北部がソマリランド共和国として分離独立を宣言するなど混乱は悪化した。USC内部でも対立が激化し,アイディード派とモハメド派の内戦が続いた。1992年国連安保理決議により国連平和維持活動(PKO)が始まり,93年5月には米軍中心の平和執行部隊が展開したが,効果がなく,95年3月外国部隊はすべて撤収した。

この国の経済は基本的に牧畜経済であり,遊牧民が総人口の約70%を占めている。ラクダ,羊,ヤギ,牛などの家畜は,輸出総額の70%前後にのぼる。ソマリアは長い海岸線をもつ国でありながら,1970年代初期までは漁業はきわめて未発達であり,漁業人口も少なかった。しかしその後しだいに重視されるようになり,1974-75年の大干ばつの際には,難民のうち約1万2000の遊牧民が漁業に転換し,漁業協同組合に組織化されて成功を収めた。漁業が経済全体に占める比重はまだ小さいが,その将来性はきわめて大きい。しかし,内戦により経済は壊滅状態におちいっている。
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百科事典マイペディア 「ソマリア」の意味・わかりやすい解説

ソマリア

◎正式名称−ソマリア連邦共和国Federal Republic of Somalia。◎面積−63万7657km2。◎人口−980万人(2012)。◎首都−モガディシオMogadishu(143万人,2010)。◎住民−ソマリ人が大部分,ほかにアラブなど。◎宗教−大部分がイスラム(スンナ派,国教)。◎言語−ソマリ語,アラビア語(以上公用語),英語,イタリア語。◎通貨−ソマリア・シリングSomali Shilling。◎元首−大統領,ハッサン・シェイク・モハムッドHassan Sheikh Mohamud(2012年9月就任)。◎首相−オマール・アブディラシッド・アリ・シャマルケOmar Abdirashid Ali Sharmarke(2014年12月就任)。◎国会−一院制(定員550,任期5年)。◎GDP−48億ドル(2005)。◎1人当りGNP−600ドル(2005)。◎農林・漁業就業者比率−73%(1997)。◎平均寿命−男53.4歳,女56.7歳(2013)。◎乳児死亡率−108‰(2010)。◎識字率−38%(2000―2006)。    *    *アフリカ東端,アデン湾を隔ててアラビア半島に対する共和国。アデン湾岸に並行して山脈が東西に走り,最高点は標高2407m。インド洋岸は大部分が半砂漠地帯で,ウェビ・シェベリ川,ジューバ川が流れる。北緯12°〜南緯2°にあり,気候は高温,乾燥。住民の約70%が羊,ヤギ,ラクダなどの遊牧に従事する。ウェビ・シェベリ川,ジューバ川流域を中心に農業も発達しつつあり,バナナ,綿花,サトウキビなどを産する。ウラン,ボーキサイト,鉄,石油などの鉱産資源があるが未開発。 10世紀ころからイスラムが伝わり,ソマリ人のイスラム王国が成立した。19世紀以降英国,フランス,イタリア,エジプトなどが進出,1887年英国がアデン湾岸を保護領とし,1889年以来イタリアがインド洋岸に支配権を確立した。第2次大戦後旧イタリア領は同国の国連信託統治領となり,1960年7月1日に独立,5日前に独立した旧英領と合体してソマリア共和国となった。1969年バーレ少将がクーデタを起こして民主共和国と改称,1970年社会主義国家を宣言した。1991年反政府ゲリラ勢力〈統一ソマリア会議〉(USC)により政府は倒されたが,ゲリラ内部での対立,抗争で内政は混乱している。1992年国連のPKO(平和維持活動)部隊が派遣され,1993年には国連史上初めて武力行使を認められた平和執行部隊へと拡大したが,成果をあげられず,1995年撤退した。1997年12月,USCのうちモハメド派,アイディード派などが和平合意したが,北西部でソマリランド共和国樹立を宣言している勢力はこれに参加していない。1991年以来,武装勢力が入り乱れての無政府状態が続き,2000年8月和平案に基づいた暫定議会が発足したが,支配地域は限られていた。のちイスラム原理主義勢力の〈イスラム法廷会議〉が国土の8割を実効支配したものの,2007年1月エチオピア軍に支援された暫定政府軍がほぼ全土を制圧したが,治安は悪化。米軍の空爆を招き,国連の平和維持部隊が派遣された。国内の避難民は100万人以上と推計された。長引く内戦で統治機能が低下,ソマリア沖やアデン湾で多発する海賊行為の温床にもなった。2008年8月イスラム法廷会議と暫定政府の停戦が成立。2009年,ソマリア国会で,イスラム法廷会議の流れをくむイスラム再解同盟のシェイフ・アフマドを大統領に選出,アフマド大統領はオマール・アブディラシッド・アリ・シャマルケを首相に指名,政権が発足した。しかし停戦に反対するイスラム急進派の攻撃が続くなか,2010年,治安対策の失敗の責任をとってシャマルケ首相は辞任,2011年6月後任にモハメド・アリが首相に任命された。2012年8月新たな暫定憲法が採択され新連邦議会が発足。9月にハッサン・モハムッドが大統領に選任,アブディ・シルドンが首相に任命され,11月に過去21年間ではじめてとなる統一政府が樹立された。新政府は,治安回復と国内情勢の安定化をめざし,国際社会からの支援を呼びかけている。2014年12月,シャマルケ首相が再任,2015年2月に新内閣が発足した。日本では1991年の内戦状態以降,21年ぶりのソマリア政府承認を行い,2013年から二国間援助を再開している。
→関連項目アデン湾アフリカの角エチオピアエリトリアソマリランド

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ソマリア」の意味・わかりやすい解説

ソマリア
Somalia

正式名称 ソマリア連邦共和国 Jamhuuriyadda Federaalka ee Soomaaliya。
面積 63万7657km2
人口 1435万4000(2021推計)。
首都 モガディシオ

アフリカ大陸東部,「アフリカの角」の大部分を占める国。北はアデン湾,東はインド洋に臨み,西はエチオピアケニアジブチと国境を接する。アデン湾岸の海岸平野砂漠で,その南をエチオピアのアハマル山地に続くオゴ高地が東西に延びる。中・南部は半砂漠平原。年降水量は 330~500mm程度で,南部に多い。気温は高地で 0℃を下回るところもあるが,国土の大半を占める平原部では 42℃に達するところもある。森林はほとんどなく低木と草類が主。住民はハム系のソマリ族が約 90%。人口の約 75%がウシ,ラクダ,ヒツジ,ヤギを主とする遊牧民。南部のジュバ川シェベレ川の下流域はバナナ,サトウキビ,綿花,穀類を主とする農業地帯。公用語はソマリ語とアラビア語。ほかにイタリア語,英語が広く用いられる。イスラム教が国教。古代エジプトがプントと呼んだ地にあたり,10世紀頃からアラビア半島から移住してきたイスラム教徒が沿岸部に交易基地を建設,19世紀には一時オスマン帝国オマーンに支配され,のちザンジバル王国の一部となった。1886年に北部がイギリス領ソマリランド,1889年に南部がイタリア領ソマリアとなり,植民地として分割された。1940年イタリアがイギリス領ソマリランドを占領したが,1941年イギリス軍が奪還,同時にイタリア領ソマリアをも占領し,1950年までイギリスが支配。イギリス領ソマリランドは 1948年に民政に移行,旧イタリア領ソマリアは 1950年に国際連合のイタリア信託統治領となり,1960年6月26日と 7月1日にそれぞれが独立,統合してソマリア共和国が成立,1969年のクーデターによりソマリア民主共和国となった。独立以来「大ソマリア主義」(汎ソマリ主義)を唱えて周辺国との国境紛争が絶えず,1977~78年エチオピアと武力によるオガデン紛争を引き起こした。1988年から複数の反政府武装勢力との内戦が本格化し,1991年政府が崩壊,武装勢力が各地に割拠し,無政府状態となった。内戦による難民の発生と干魃により,約 400万人が飢餓に直面した。2004年和平協定が結ばれ,2005年暫定連邦政府を樹立。2012年暫定憲法を採択し新連邦議会を召集,正式政府が発足し,国名をソマリア連邦共和国に改称した。(→ソマリア内戦ソマリランド

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旺文社世界史事典 三訂版 「ソマリア」の解説

ソマリア
Somali

アフリカ大陸東端の「アフリカの角」に位置する共和国。首都モガディシュ
1886年北部がイギリスの,89年南部がイタリアの保護領となる。第二次世界大戦中にイタリアが全土を占領。大戦後,1948年北部がイギリスの保護領,50年南部がイタリアの信託統治領となる。1960年6月北部がソマリランドとして独立,同年7月南部も独立し,両者は合併してソマリア共和国となった。1969年軍部による無血クーデタが成功し,国名をソマリア民主共和国と改称,70年社会主義国家を宣言。1977年オガデン地方の帰属をめぐってエチオピアと全面戦争に発展し,78年に敗北。1991年反政府組織の統一ソマリア会議(USC)の部隊が首都を制圧し,政権を奪取。しかし,同年6月旧イギリス領だった北部地方が「ソマリランド共和国」の独立を宣言するなど,部族ごとに組織された反政府グループによる内戦が続き,1992年末,国連安全保障理事会がPKOソマリア活動のためアメリカ軍主体の多国籍軍を派遣。しかし,国連軍とUSC内部のアイディード将軍派との戦闘の様相を呈したため,国連は活動を断念し,1995年3月までに部隊を撤収。1996年後半から各武装勢力間で和平会議が開かれているものの,最終的合意に至っておらず,99年に至っても内戦は終わっていない。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ソマリア」の解説

ソマリア
Somalia

東アフリカの「アフリカの角(つの)」地域の国。住民の大半は遊牧民族ソマリ人。紅海交易では香料の産地として知られ,イスラームを受容。南部は18世紀初頭以降オマーンザンジバルの支配を受け,1908年イタリア領ソマリランドとなった。北部は1887年イギリス領ソマリランドとして保護領化され,19世紀末サイイド・ムハンマドが抵抗運動を展開するも鎮圧された。1950年代以降ソマリ青年連盟などパン・ソマリ主義を掲げる運動の活発化により,60年6月北部が,同年7月南部がおのおの独立,合邦後ソマリア共和国を形成。69年ソマリア民主共和国と改称。大ソマリ主義のもとフランス領ソマリランド,エチオピア東部,ケニア北部の奪回を主張しオガデン紛争などの衝突を招く。91年以降内戦状態。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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