アドワの戦い(読み)あどわのたたかい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アドワの戦い」の意味・わかりやすい解説

アドワの戦い
あどわのたたかい

1896年、侵入したイタリア軍をエチオピアが打ち破った戦いアドワAdowaはエチオピア北部の地名。1885年エリトリアを保護領にし、エチオピア進出をもくろんでいたイタリアは、1889年エチオピアとウッチャリ条約を結んだ。この友好条約はイタリア語とアムハラ語の両言語で書かれていたが、双方の表現に違いがあり、イタリア語の内容は、イタリアのエチオピアにおける主権を認めていた。イタリアはこれを盾にエチオピア北部に侵入、1890年保護領化を宣言した。エチオピア皇帝メネリク2世(1844―1913)はこれを認めず、1893年条約を破棄、各地の豪族を結集してイタリア軍とアドワで衝突した。戦いはイタリア側が1万2000人の死者を出すという惨敗に終わり、世界に独立国エチオピアを認めさせる結果となった。この戦いはアフリカ史上、アフリカ人が侵略者に勝利した数少ない例の一つである。

[青木澄夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アドワの戦い」の意味・わかりやすい解説

アドワの戦い
アドワのたたかい
Battle of Adowa(Aduwa)

エチオピア戦争における戦いの一つ。 1896年3月1日,エチオピア南中部のアドワでイタリア軍とエチオピア軍との間で行われた戦闘。エチオピアに侵略したイタリア軍約2万人がこの地でエチオピア軍約7万人に大敗を喫して,イタリア側に 6000人の戦死者を出した。イタリアのエチオピア侵略の意図は挫折し,F.クリスピ首相の失脚を招いた。

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