日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベルサイユ体制」の意味・わかりやすい解説
ベルサイユ体制
べるさいゆたいせい
第一次世界大戦の結果、ベルサイユ条約を基礎としてヨーロッパに成立した国際秩序。1919年6月28日、連合国とドイツとの間にベルサイユ条約が調印され、続いて同年9月10日、オーストリアに対するサン・ジェルマン条約、同年11月27日、ブルガリアに対するヌイイ条約、翌20年6月4日、ハンガリーに対するトリアノン条約、同年8月10日、トルコに対するセーブル条約が調印された。これらの諸講和条約は、内容のうえでベルサイユ条約と密接に関連して一つのまとまりをなして、戦後の国際関係を規定しているので、代表的なベルサイユ条約の名をとって、全体としてベルサイユ体制とよばれている。
この体制下に、ドイツは海外植民地を失い、ヨーロッパにおける領土を削減されるとともに、軍備の制限や賠償支払いなどの厳しい義務を課せられた。とくに賠償支払いの前提として、大戦におけるドイツの戦争責任を断定したことは、ドイツ国民の憤激の対象となった。
東ヨーロッパについては、アメリカ合衆国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義によって新国家の創設と国境の画定がなされるはずであった。オーストリア・ハンガリー帝国は解体して、チェコスロバキアが独立した。ポーランドが独立し、セルビアはセルブ・クロアート・スロベーヌ(旧ユーゴスラビア)に再編成されたほか、東ヨーロッパ、バルカンの国境に大きい改訂がなされた。ドイツとオーストリアとの合邦は禁止された。大戦中、ドイツ側にたった諸国の軍備制限や賠償支払いも規定された。ベルサイユ体制は、国際連盟と一体的な連関において出発しており、本来、普遍的な国際機関であるべき国際連盟は、戦勝国とくにイギリス、フランスの利害の擁護者という観を呈した。ベルサイユ体制は、そのたてまえとしたドイツ軍国主義の除去だけでなく、それ以上にドイツ国民に対する抑圧的性格が強く、ドイツ国民に復讐(ふくしゅう)主義的なナショナリズムを培養した。ベルサイユ体制によってドイツと戦勝国との対立をかえって激しいものとした。また、東ヨーロッパにおける諸小国の成立は、ドイツに対する包囲網としてだけでなく、革命によって成立したソビエト・ロシアに対抗する役割を果たすものであった。東ヨーロッパ諸小国間の国境は、しばしば民族自決の原則から外れ、大国の利害の観点から設定されており、後の紛糾の原因をなすものであった。
国際連盟規約が、旧ドイツ領、旧トルコ領植民地を委任統治として、戦勝国に事実上分割したことは、ベルサイユ体制の植民地主義的な性格を物語っていた。セーブル条約に対してトルコに民族運動が起こり、この条約は批准されなかったので、1923年ローザンヌ条約が結ばれた。
ベルサイユ体制はソビエト・ロシアを除外して出発し、アメリカ合衆国上院はベルサイユ条約の批准を拒否したので、イギリス、フランスの現状維持のための枠組みとして機能した。ドイツではすべての悪の根源をこの体制に求める気分が広がり、ナチス台頭の一因をなした。
1920年代末から30年代初頭にかけて、ベルサイユ条約のなかのいくつかの部分はイギリス、フランスの側から修正が試みられ始めたが、ドイツにおけるナチス政権の登場によって、ベルサイユ体制は崩壊過程に入った。33年10月ドイツは国際連盟から脱退し、35年3月ナチス政権がベルサイユ条約の軍備制限条項を一方的に破棄し、さらに翌36年3月ドイツ軍がラインラント非武装地帯を占領したときに、ベルサイユ体制は事実上、消滅した。
[斉藤 孝]
『斉藤孝著『戦間期国際政治史』(1978・岩波書店)』▽『E・H・カー著、衛藤瀋吉・斉藤孝訳『両大戦間期における国際関係史』(1959・弘文堂)』▽『『岩波講座 世界歴史25 現代Ⅱ』(1970・岩波書店)』