第1次大戦(1914~18年)後の国際秩序。戦勝国の英仏が主導した。パリ講和会議で19年に調印され、この体制の柱となったベルサイユ条約は、敗戦国ドイツの再興を阻止するため①領土割譲②植民地没収③軍備制限④巨額の賠償金支払い―を科した。過酷な処分への不満などから、ベルサイユ体制打倒を掲げるナチスが30年代に台頭した。
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第1次世界大戦終了後のヨーロッパに成立した国際体制をベルサイユ体制という。
大きな戦争のあとに生まれた国際体制としては,三十年戦争(1618-48)のあとのウェストファリア体制(ウェストファリア条約,1648年に成立),ナポレオン戦争(1800-15)のあとのウィーン体制(1815年に成立)があり,この両体制との比較が,ベルサイユ体制の性格を明らかにするうえに有効である。両体制はいずれも,勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の原則のうえに立ち,むきだしの力のバランスによって平和を保とうとした点で,理想・理念の側面が著しく希薄であった。これに対し,ベルサイユ体制においては,一面ではアメリカ大統領ウィルソンの掲げた平和の理想が強調されていた。しかし,他面では,先行の両体制と比べて,敗戦国の取扱いがはるかに過酷であり,両体制のなかで維持されていたヨーロッパの勢力均衡の原則はほとんど破壊されたに等しかった。ここでいう平和の理想とは,勢力均衡の原則ではなしに国際的な機構によって平和を維持しようとする考え方を指す。勢力均衡による平和と国際平和機構による平和とは,平和についての二つの対立する発想である。ベルサイユ体制は,国際機構による平和の維持という新理念を世界史上初めて本格的に具体化させた。ウィーン体制のなかにも,ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱した神聖同盟が含まれており,これを国際機構の萌芽とみることができるが,それは同時にイギリス外相カースルレーが〈崇高なナンセンス〉と評したように多分に空想的なものにとどまっていた。しかし他方でベルサイユ体制は,イギリスとフランスとによるヨーロッパに対する覇権の実現をめざしており,国際機構と覇権という二つの矛盾する性格をもっていた。しかも,新しい国際機構としての国際連盟も,実際には英仏2国を中心に,英仏2国の利益となるように運営されたのであり,全体としては,ベルサイユ体制はイギリス,フランスという戦勝国による,戦勝国のための平和であった。
ベルサイユ体制は,このような矛盾をはらんでおり,ウェストファリア体制やウィーン体制に比べても,平和を維持する機能については大きい欠陥をもっていた。平和維持のための国際機構としての国際連盟は創設されはしたが,ベルサイユ体制が戦敗国ドイツを徹底的にいじめぬくものであったために,ドイツを構成員とする勢力均衡のシステムは破壊されてしまい,従来の両体制のような,勢力均衡による平和すら達成できないこととなった。ウェストファリア体制がフランス革命の勃発まで100年以上,ウィーン体制が1848年の革命ないしは1854年のクリミア戦争勃発まで続いたのに比べ,はるかに短命に終わった。ベルサイユ体制がこのような性格を帯びるにいたったのは,この体制をつくりだしたパリ講和会議に参集した米英仏の三大国とその指導者たちの動きによるところが大きい。
第1次世界大戦の後始末をめぐる講和会議は,1919年1月18日,パリのフランス外務省での第1回総会をもって開始された。会議は難航したが,6月28日にドイツとの講和条約の調印式をベルサイユ宮殿の〈鏡の間〉で行うところまでこぎつける。ベルサイユ条約Treaty of Versaillesという名前は,調印式が行われた場所にちなんだものであり,講和会議が開かれたのはベルサイユではなくパリである。したがって,この会議をベルサイユ会議と呼ぶのは誤りである。
パリ講和会議には戦勝国側27国が参加したが,総会が開かれたのは6回だけ,それも形式的なもので,実際には米英仏3国の代表のあいだの駆引きによってほとんどすべての議事が決定された。初めは,米英仏伊日の5国が,〈全般的利害をもつ交戦国〉ということで,それぞれの首脳と外相とからなる計10人の〈10人委員会〉を形成し,最高会議として重要事項の決定にあたることになっていた。それ以外の22国は,〈特殊的利害をもつ交戦国〉として区別され,それぞれの国に関係のある会議にだけ招かれるにとどまり,しかもその際にも実質的な発言力は与えられなかった。国境画定をめぐってルーマニアの代表が不満を述べたてたときにフランス首相のクレマンソーが,〈いったい誰のおかげで戦争に勝ったと思っているのか〉とどなりつけた一幕は,このような力関係を物語るものである。しかも,〈五大国〉のうち日本はほとんど発言せず,イタリアは途中で代表のV.E.オルランドが帰国してしまうというようなことで,事実上,日伊両国は脱落してしまう。実質的には,アメリカ大統領ウィルソン,イギリス首相ロイド・ジョージ,フランス首相クレマンソーという〈3巨頭Big Three〉によって会議が運営されるようになった。そこで,この3巨頭それぞれの立場が問題となる。
まずウィルソンであるが,彼の外交は口では善意を唱えながら結果はその逆になってしまうことが多く,このような矛盾はウィルソン外交の体質といってよい。この体質が最初に表面化したのは,対メキシコ政策であった。1913年3月にウィルソンが大統領に就任すると直ちに彼は,メキシコに出現したウエルタVictoriano Huertaの新政権を承認すべきか否かという選択の前に立たされた。この年の2月に,穏健な自由主義者の大統領マデロFrancisco Indalecio Maderoが将軍ウエルタによって殺害され,ウエルタの新政権が生まれたからである。ウィルソンは〈人殺し政権〉としてのウエルタ政権を承認しないとの立場から,ウエルタに反対するカランサに武器を供給したばかりでなく,14年4月には,メキシコのベラクルスにアメリカ海兵隊を侵攻させた。しかし,ウィルソンのこのようなやり方は,彼が支持していたつもりのカランサからも反発を受け,また,ラテン・アメリカ諸国に反米デモが広がるようになった。ウィルソンはしだいに自分に協力しないカランサに失望するようになり,あろうことか,一時はカランサに敵対したF.ビリャを支持してカランサとたたかわせる政策をとったのである。
このようなウィルソンのやり方は,ドイツに対する参戦問題をめぐってふたたび繰り返される。彼は第1次世界大戦のさなかの16年11月の選挙で再選されたが,このとき彼が選挙民に約束したのは中立の維持であり,〈彼はわれわれを戦争に行かせなかった〉というスローガンが効果をあげた。ところがウィルソンは,17年4月6日にはドイツに対して宣戦を布告した。彼が参戦に踏み切る表向きの名目となったのは,同年2月1日から開始されたドイツの無制限潜水艦作戦であるが,実際にはアメリカの経済的利害が強く作用していた。対メキシコ政策や参戦問題にみられるウィルソン外交の矛盾したやり方は,パリ講和会議でも繰り返され,ベルサイユ体制の体質を形成するものになっていく。
戦争そのものには乗り気でなかったウィルソンは,1918年1月8日,アメリカ議会で平和の原則として14項目を発表した。これが〈ウィルソンの14ヵ条Fourteen Points〉と呼ばれるもので,その内容は次のとおりであった。(1)秘密外交の撤廃,(2)海洋の自由,(3)経済障壁の撤廃,(4)軍備縮小,(5)植民地問題の調整,(6)ロシアからの撤兵,(7)ベルギーからの撤兵,(8)アルザス・ロレーヌのフランスへの返還,(9)イタリア国境の改定,(10)オーストリア・ハンガリー支配下の諸民族の自治,(11)セルビアに海への出口を与えバルカン諸国に対する国際的保障を設定する,(12)トルコ支配下の諸民族の自治,ダーダネルス,ボスポラス両海峡の開放,(13)ポーランドの独立,ポーランドに海への通路を保障する,(14)国際連盟の設立。
パリ講和会議でウィルソンと真っ向から対立したのはフランスを代表したクレマンソーであった。彼は初めフランス第三共和政の徹底的民主化を主張して,その現状を激しく批判した〈急進主義〉のグループの中心的な存在として知られていた。1893年にパナマ運河をめぐる汚職事件に巻き込まれて政治的生命を失うかにみえたが立ち直り,1906年には内閣を組織するにいたる。この第1次クレマンソー内閣の首相としての彼は,かつての主張とは反対に,フランス国内の労働運動やモロッコの民族運動を弾圧する政策を選んだ。このあと第1次世界大戦勃発時の陸相などを経て,17年11月に第2次クレマンソー内閣を組織し,パリ講和会議に臨む。このときのクレマンソーには,かつての急進主義者の面影はなかった。彼の心を占めていたのは,ドイツへの復讐(ふくしゆう)の念と,将来予想されるドイツからの攻撃に対してフランスの安全をいかにして守るか,という問題だけであった。彼は,独仏国境はライン川でなければならぬという,ルイ14世の時代以来の〈自然国境説〉をふりまわした。実際に彼は,ライン左岸をドイツから独立させ,ここに新しい国家をつくり,この国家をフランスとの関税同盟を通じて実質上フランスの支配下に置こうとしたのである。
ウィルソンはこれに対し激しく反対し,乗船〈ジョージ・ワシントン号〉を呼びよせてアメリカに引き揚げてしまうぞと脅して,クレマンソーに思いとどまらせた。イギリス代表のロイド・ジョージもクレマンソーに反対した。こうして〈自然国境〉を断念せざるをえなくなったクレマンソーは,ドイツから奪うことを認められたアルザス・ロレーヌのほかに,ロレーヌに隣接するザール川流域の炭田地帯を要求した。しかし,これも米英代表の反対で実現せず,結局フランスがザール地方の採掘権を確保し,ザール地方を15年間国際管理下に置くということで決着がついた。また,ライン川流域地方については,ライン左岸全部と右岸50kmの地帯を非武装化することとなった。
フランスにしてみれば,これらはいずれも大きな譲歩であり,クレマンソーにこのような譲歩をさせるためには,アメリカ,イギリスも,ただ彼に反対するだけでなく,彼の発想の根底にあるドイツへの恐怖心をなだめるために,何らかの具体策を示す必要があった。そこで,アメリカ,イギリスはそれぞれ,フランスと安全保障条約を結ぶことを約束し,ベルサイユ条約調印と同時に,米仏安全保障条約ならびに英仏安全保障条約の調印が行われた。ところが,この2条約は,一方が批准されなければ他方も効力を失うことになっており,アメリカ上院がベルサイユ条約と並んで米仏条約の批准をも拒否したため,英仏条約も発効せずに終わった。そこで,フランスとしては,ドイツを取り巻く諸国,すなわち,ベルギーとポーランド,ならびに〈小協商〉に結集したチェコスロバキア,セルビア・クロアチア・スロベニア(のちのユーゴスラビア),ルーマニアと協力してドイツを押さえ込む政策をとり,こうして対独安全保障を確立するよう努めるほかなくなる。対独賠償問題についても,アメリカ,イギリスとの条約が不成立に終わったために,フランスの態度はより過酷なものとなった。
ウィーン体制以来のイギリスの外交政策の伝統は,ヨーロッパのなかでいずれか一国が覇権を握ることのないように,必要な場合にはバランサーとして弱いほうの国々に〈てこ入れ〉をするというものであった。クレマンソーのやり方は,ドイツを徹底的に弱体化して,ヨーロッパのなかに事実上フランスの覇権を打ち立てようとするものであったから,イギリスの伝統からすれば,このようなフランスを押さえるほうにまわらなければならなかったはずである。ところが,大戦直後の1918年12月14日の総選挙に際して,ロイド・ジョージは,ドイツを〈レモンの種が泣くまでしぼる〉ことを選挙民に約束し,このような対独復讐の公約によって大勝利を収めた。大戦中の首相としての彼の統治は,ほとんど独裁者の統治といえるほどで,イギリスの選挙民は,戦争中はこのような統治をがまんするが,平和が回復すると,別の方法を望むようになる。第2次世界大戦終了直後の45年7月5日の総選挙で,戦時中の指導者W.チャーチルが敗北した例はこのことを示している。ドイツへの復讐心に燃えている選挙民にアピールするために,必ずしも彼の本心ではないスローガンを故意に採用することによって,ロイド・ジョージはのちのチャーチルの運命を回避できた。しかし,選挙民への公約に縛られた彼は,クレマンソーの対独強硬論に内心反対であったときにも,クレマンソーを十分に押さえることができなかった。ロイド・ジョージは,ドイツに戦費を支払わせると選挙民に約束していたが,これは明らかに1918年11月11日の休戦条約に違反していた。
イタリアは,1882年にドイツならびにオーストリア・ハンガリーとのあいだに三国同盟を結んでいた。ところが,第1次世界大戦が勃発すると,イタリアはドイツ側に加わらず,逆に,1915年5月に三国同盟を裏切ってまずオーストリア・ハンガリーに,翌16年8月にはドイツに宣戦を布告した。イタリアがこのように英仏側に加わって参戦した動機は,イギリス,フランスが1915年5月のロンドン密約によって,イタリアに参戦の代償として〈回復せられざるイタリアItalia irredenta〉を与えることを約束したからである。〈回復せられざるイタリア〉というのは,当時のオーストリア・ハンガリーの領土のうちで,イタリア人が多数居住する南チロル,トレンティノ,トリエステ,イストリア,ダルマツィアなどを意味する。
ところが,参戦後のイタリアはとくにドイツに対して連戦連敗で,戦争を英仏側の勝利に導くために寄与するところがほとんどなかった。そこでイタリア代表オルランドの発言権は弱くなる。〈回復せられざるイタリア〉のうちダルマツィア地方は,ロンドン密約とは逆に,イタリアではなくセルビア・クロアチア・スロベニアに与えられることになった。後者の中心をなすセルビアは,大戦の直接の原因となるオーストリア・ハンガリーの帝位継承者フランツ・フェルディナントFranz Ferdinand暗殺事件と深いかかわりがあったが,そのセルビアの善戦ぶりが認められることになる。オルランドは,ダルマツィア海岸のフィウメFiumeをも要求した。フィウメについてはロンドン密約では言及されていなかったが,ダルマツィア海岸唯一の良港としてイタリアが欲しがっていた。しかし,〈14ヵ条〉のうちの(11)でセルビアに海への出口を与えることを約束していたウィルソンは,これに強く反対する。結局フィウメは,イタリアには与えられずに〈自由市〉とすることになった。激怒したオルランドは1919年4月末,二度と会議の席に戻る意思はないと宣言してパリを去り,ローマに帰ってしまう。しかし,会議はそのまま続行されたので,面目を失ったオルランドはやむをえずパリに戻り,さらにいっそう発言権を失うこととなった。
日本はパリ講和会議に元首相西園寺公望,元外相牧野伸顕らを全権とする大型使節団を送り込んだ。しかし,そこでの議題は日本に関係が少なく,理解しにくいものがほとんどであったので,日本の全権団の発言する機会は乏しかった。日本が英仏側に加わって参戦した目的は,山東半島の旧ドイツ権益と赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の獲得とにあった。日本はこの二つに執着し,1917年にはイギリス,フランスと〈山東および南洋諸島に関する秘密協定〉を結んで,イギリス,フランスの再確認をとりつけていた。日本の軍艦を地中海に派遣することを求められたのを好機として,その見返りとして同協定を結ばせたのである。イタリア参戦を取り決めたロンドン密約と同じように,この協定は,秘密外交の撤廃を求めるウィルソンにとってはもっとも不愉快な取決めであった。しかし,イタリアについで日本も講和会議から退席してしまうのを恐れたウィルソンは,結局,日本の言い分をのんだ。山東半島の利権の回収を求めていた中国の世論がこのような決着を了承するはずはなかった。19年5月に入って,山東半島の権益が日本にゆだねられることに決定したという報道が伝わると,中国では,5月4日,五・四運動が引き起こされる。いわゆる二十一ヵ条要求をめぐって,外交次長として日本との交渉にあたった曹汝霖の邸宅が焼き打ちされたのはこのときのことである。中国政府も日本の要求を認めず,ベルサイユ条約への調印を拒否した。
日本政府は,パリ講和会議の席上で,これ以外に,人種平等決議なるものを信教の自由を規定した国際連盟規約21条に挿入することを要求した。日本その他の東洋人の移民を排斥する白豪主義を掲げるオーストラリアの首相ヒューズWilliam Morris Hughesの強硬な反対により,この要求は貫徹されずに終わる。日本がこのような要求を提出したのは,まがりなりにも〈五大国〉の一員となった機会にこの決議を実現させ,カリフォルニアでの日本移民排斥問題を日本に有利に展開させようとの意図からであった。
1917年11月7日(ロシア暦10月25日)の十月革命のあとも内戦がつづいていたロシアについて,19年1月16日,ロイド・ジョージはパリで,内戦をつづけているロシアの各政府の代表をパリに集めて,ドイツとの和平を討議させることを提案した。クレマンソーはパリにボリシェビキ(ソビエト共産党)の代表を招くことに難色を示した。そこでウィルソンが,1月22日,ロシアの各政府は休戦を成立させたうえで代表を2月15日までにトルコのマルマラ海にあるプリンキポPrinkipo島に送るべきだという〈プリンキポ提案〉を行う。しかし,プリンキポでの会合は実現せず,パリ講和会議は事実上ソビエト・ロシアの問題を討議から排除してしまう結果となる。パリ講和会議当時,米英仏日の4国はボリシェビキに対抗する白軍を支援してロシアに出兵しており,ロシア革命に反対する点では4国の足並みは一致していた。
以上に述べたような〈五大国〉の駆引きの結果,ドイツとの講和条約が完成し,1919年6月16日に5日以内に受諾しなければ戦争を再開するという通告を付してドイツに提示された。シャイデマン内閣は総辞職し,バウアー内閣の手で,6月28日,6年前にサラエボでフランツ・フェルディナントが暗殺された日に,ベルサイユ宮殿〈鏡の間〉で講和条約への調印が行われた。
このベルサイユ条約は,231条(戦責条項)で,戦争勃発の責任はもっぱらドイツ側にあると,ドイツ側の戦争責任を明記しており,この点だけでも,ドイツ国民のとうてい承服しえないものであった。この条項はのちの膨大な賠償要求の根拠となる。オランダへ亡命したドイツ皇帝ウィルヘルム2世を起訴することも227条に規定されていた。ドイツ領土は,本土については,(1)アルザス・ロレーヌはフランスへ,(2)ザール炭田地方は15年間国際連盟の管理下に置く,(3)モレネ,オイペン,マルメディはベルギーへ,(4)シュレスウィヒ北部はデンマークへ,(5)ポーゼン(現,ポズナン)とポーランド回廊はポーランドへ,(6)ダンチヒ(現,グダンスク)はドイツから切り離して国際連盟の管理する〈自由市〉とする,という処分が決定された。ドイツの海外領土については,(1)東アフリカはイギリスの委任統治,(2)南西アフリカとトーゴ,カメルーンはフランスの委任統治,(3)赤道以北の南洋諸島は日本の委任統治,(4)赤道以南の南洋諸島はオーストラリアの委任統治,(5)山東半島の権益は日本に譲渡する,ということになった。また,ライン左岸とライン右岸50kmの地帯は武装を禁止され,ライン左岸は15年間イギリス,フランスなどの連合国が占領することになった。ドイツの軍備は,陸軍10万人以下,海軍は1万5000人以下に制限された。賠償については,講和会議で合意に達しなかったので,とりあえず200億金マルクを支払うこととされた。これは1921年5月,ロンドンでの会議で1320億金マルクという〈天文学的数字〉に決定される。オーストリアとの合併も禁止された。
ドイツとの講和条約のほかに,オーストリアとのサン・ジェルマン条約が1919年9月10日,ブルガリアとのヌイイー条約が同年11月27日,ハンガリーとのトリアノン条約が1920年6月4日,トルコとのセーブル条約が同年8月10日に,それぞれ調印された。イタリアへの〈回復せられざるイタリア〉の大部分の割譲,セルビア・クロアチア・スロベニアへのダルマツィアの割譲などはサン・ジェルマン条約によって決められ,ドイツとオーストリアとの合併の禁止はこの条約にも盛り込まれていた。ベルサイユ条約ならびに以上四つの条約によってつくられた新しい国際秩序こそ,ベルサイユ体制といわれるものである。
ベルサイユ体制の特質は,次の6点に要約できる。(1)国際連盟規約がベルサイユ条約の冒頭第1編に掲げられたことにより,国際連盟が成立したこと。(2)民族自決の原則による小さい民族国家の乱立が,東ヨーロッパに政治的不安定をもたらしたこと。すなわち,ロシアからバルト三国と呼ばれるエストニア,ラトビア,リトアニアが独立し,オーストリア・ハンガリーが敗戦によって崩壊したあとには,継承国家群successor statesと呼ばれる5国が独立した。まず,オーストリア・ハンガリー領であったガリツィア,ドイツ領であったポーゼンとポーランド回廊,カーゾン線Curzon line以東の旧ロシア領を合わせて新興国ポーランドが生まれた。カーゾン線というのはイギリス外相G.N.カーゾンが新しいポーランドとロシアとの国境線として1919年に提案したものである。20年にポーランドはソビエト・ロシアと開戦,カーゾン線の東方に広い領土を獲得した。チェコ民族,スロバキア民族と,ズデーテン地方に居住するドイツ民族の3民族を含むチェコスロバキアは,ズデーテン地方のドイツ民族の存在により,不安定要因をかかえこむ。敗者であるドイツ民族に対しては,民族自決の原則は適用されなかったのである。さらに,セルビアを中心としてセルビア人クロアチア人スロベニヤ王国が生まれ,オーストリア・ハンガリーのうち,ドイツ民族の居住する地方はオーストリア,マジャール民族の居住する地方はハンガリーとして独立する。(3)ドイツを極端に圧迫したこと。(4)ソビエト・ロシアを無視し,排除した国際体制であること。(5)イタリアの不満を残したこと。(6)アメリカが国際連盟に参加を拒否した結果,イギリス,フランスが中心となって世界政治を運営するという幻想がつづいたことなどである。アメリカ上院は孤立主義への傾きを強め,ウィルソンが唱えた国際連盟への参加を認めようとせず,ベルサイユ条約そのものの調印を拒否した(1919年11月)。この結果,彼の理想主義の破綻は決定的となった。
ベルサイユ条約ならびにベルサイユ体制に対する同時代人の批判としては,イギリスの経済学者ケインズの《平和の経済的帰結The Economic Consequences of Peace》が重要である。彼は最初パリ講和会議にイギリス大蔵省首席代表として出席していたが,この地位を中途で放棄して1919年12月に同書を刊行した。彼はこの本のなかで,とくにドイツに対する賠償要求が根底から誤っていることを明らかにした。英仏側が考えていたような賠償要求額は実行不可能であり,これが実行に移されれば,ドイツ経済を完全に破壊するばかりでなく,ヨーロッパ全体の経済を破壊してしまうであろう,と予言した。また,これとは別の視角からの批判として注目に値するのは,1918年11月に近衛文麿が雑誌《日本及日本人》に発表した論文《英米本位の平和主義を排す》である。この論文を近衛は,西園寺らに同行してパリ講和会議に出発する直前に執筆した。ここで彼は,今回の大戦は現状に満足している英米側諸国と,現状に不満なドイツとのたたかいであり,日本はドイツの立場をよく理解すべきである,と説いている。のちに彼が首相として締結した日独伊三国同盟の路線を示唆しているようにも思われる。
ベルサイユ体制の最大の不安定要因はドイツの不満であり,ドイツの最大の不満は賠償問題をめぐるものであった。1924年になると,アメリカの財政問題の専門家C.G.ドーズを委員長とする賠償専門委員会によっていわゆるドーズ案が作成された。ドーズ案は賠償総額を棚上げにしてさしあたり5年間にドイツが支払うべき額を決定した。ドーズ案の成立と同時に大量のアメリカ資本がドイツに流れ込み,ドイツはドーズ案に定められた額の支払いをつづけることができた。しかし,29年10月に始まった世界恐慌によってアメリカ資本が本国に引き揚げられてしまうと,賠償支払いも不可能となる。賠償問題はドイツ経済をこうしてアメリカ経済と緊密に結びつける結果を招き,両者の共倒れをもたらした。ケインズの予言は,こういう形で現実化する。ドーズ案とアメリカ資本に支えられて,ドイツは1924年から29年まで〈相対的安定期〉を迎える。この時期のドイツは,ロカルノ条約に加入してフランスならびにベルギーとの国境を力づくで変える意思のないことを誓い,ベルサイユ体制は定着するかにみえた。しかし,30年以後のドイツの経済と社会の混乱のなかで,ベルサイユ体制打破を叫ぶヒトラーのナチ党の運動が勢いを得,33年1月30日にヒトラーが首相の座に就くと,ベルサイユ体制に弔鐘が打ち鳴らされることになる。35年3月にヒトラーはベルサイユ条約に含まれたドイツの軍備を制限する条項を破棄することを宣言し,36年3月にはロカルノ条約廃棄を宣言すると同時に,ライン川流域の非武装地帯の再武装を強行した。38年3月にはドイツとオーストリアとの合併を行う。
他方で早くからムッソリーニのファシズム体制を成立させていたイタリアは,1935年10月にエチオピアに侵攻してベルサイユ体制に公然と挑戦し,これより先に日本も1931年9月に満州(現,中国東北部)で軍事行動を起こして,同じくベルサイユ体制ならびにその太平洋版であるワシントン体制に挑戦した。日本は33年3月,ドイツは同年10月,イタリアは37年12月に国際連盟を脱退する。これらはすべて世界恐慌勃発後の出来事であり,世界恐慌は,そうでなくとも短命に終わったであろうベルサイユ体制の崩壊を早めたのである。結局,勢力均衡による平和という立場からしても,国際機構による平和という立場からしてもはなはだ歪んだ形で発足したこの国際体制は,世界恐慌の試練のなかでもろくも崩壊したのであった。
→戦間期
執筆者:三宅 正樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
第一次世界大戦の結果、ベルサイユ条約を基礎としてヨーロッパに成立した国際秩序。1919年6月28日、連合国とドイツとの間にベルサイユ条約が調印され、続いて同年9月10日、オーストリアに対するサン・ジェルマン条約、同年11月27日、ブルガリアに対するヌイイ条約、翌20年6月4日、ハンガリーに対するトリアノン条約、同年8月10日、トルコに対するセーブル条約が調印された。これらの諸講和条約は、内容のうえでベルサイユ条約と密接に関連して一つのまとまりをなして、戦後の国際関係を規定しているので、代表的なベルサイユ条約の名をとって、全体としてベルサイユ体制とよばれている。
この体制下に、ドイツは海外植民地を失い、ヨーロッパにおける領土を削減されるとともに、軍備の制限や賠償支払いなどの厳しい義務を課せられた。とくに賠償支払いの前提として、大戦におけるドイツの戦争責任を断定したことは、ドイツ国民の憤激の対象となった。
東ヨーロッパについては、アメリカ合衆国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義によって新国家の創設と国境の画定がなされるはずであった。オーストリア・ハンガリー帝国は解体して、チェコスロバキアが独立した。ポーランドが独立し、セルビアはセルブ・クロアート・スロベーヌ(旧ユーゴスラビア)に再編成されたほか、東ヨーロッパ、バルカンの国境に大きい改訂がなされた。ドイツとオーストリアとの合邦は禁止された。大戦中、ドイツ側にたった諸国の軍備制限や賠償支払いも規定された。ベルサイユ体制は、国際連盟と一体的な連関において出発しており、本来、普遍的な国際機関であるべき国際連盟は、戦勝国とくにイギリス、フランスの利害の擁護者という観を呈した。ベルサイユ体制は、そのたてまえとしたドイツ軍国主義の除去だけでなく、それ以上にドイツ国民に対する抑圧的性格が強く、ドイツ国民に復讐(ふくしゅう)主義的なナショナリズムを培養した。ベルサイユ体制によってドイツと戦勝国との対立をかえって激しいものとした。また、東ヨーロッパにおける諸小国の成立は、ドイツに対する包囲網としてだけでなく、革命によって成立したソビエト・ロシアに対抗する役割を果たすものであった。東ヨーロッパ諸小国間の国境は、しばしば民族自決の原則から外れ、大国の利害の観点から設定されており、後の紛糾の原因をなすものであった。
国際連盟規約が、旧ドイツ領、旧トルコ領植民地を委任統治として、戦勝国に事実上分割したことは、ベルサイユ体制の植民地主義的な性格を物語っていた。セーブル条約に対してトルコに民族運動が起こり、この条約は批准されなかったので、1923年ローザンヌ条約が結ばれた。
ベルサイユ体制はソビエト・ロシアを除外して出発し、アメリカ合衆国上院はベルサイユ条約の批准を拒否したので、イギリス、フランスの現状維持のための枠組みとして機能した。ドイツではすべての悪の根源をこの体制に求める気分が広がり、ナチス台頭の一因をなした。
1920年代末から30年代初頭にかけて、ベルサイユ条約のなかのいくつかの部分はイギリス、フランスの側から修正が試みられ始めたが、ドイツにおけるナチス政権の登場によって、ベルサイユ体制は崩壊過程に入った。33年10月ドイツは国際連盟から脱退し、35年3月ナチス政権がベルサイユ条約の軍備制限条項を一方的に破棄し、さらに翌36年3月ドイツ軍がラインラント非武装地帯を占領したときに、ベルサイユ体制は事実上、消滅した。
[斉藤 孝]
『斉藤孝著『戦間期国際政治史』(1978・岩波書店)』▽『E・H・カー著、衛藤瀋吉・斉藤孝訳『両大戦間期における国際関係史』(1959・弘文堂)』▽『『岩波講座 世界歴史25 現代Ⅱ』(1970・岩波書店)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
第1次大戦後のベルサイユ条約(1919年)を基礎として築かれたヨーロッパの国際秩序。ウィルソンが提議した14カ条平和原則が基礎となったが,列強のさまざまな思惑から十分に貫徹されなかった。たとえば民族自決原理は,東欧8カ国の民族国家を生んだが,ズデーテン問題など重大な国境問題を残し,無併合・無賠償の原則もフランスの激しい懲罰主義の前に瓦解した。これらの欠陥はヒトラーのつくところとなり,1930年代のベルサイユ体制崩壊につながった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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