エチオピア皇帝。ハイレ・セラシエは三位(さんみ)一体の意。即位前の名はラス・タファリ・マコンネンRas Tafari Makonnen。7月23日、皇帝メネリク2世の従弟マコンネン王子の息子としてハラル州に生まれる。家庭教育を受けたのち、1910年ハラル州知事となり、開明政策を実施。1916年メネリク2世の娘ザウディツ女王の摂政となり、1930年女王の死とともに皇帝に即位。憲法制定、議会・司法制度を導入し、奴隷制度廃止、教育の普及に努めるなど開明君主として名声を得た。1935年イタリアのエチオピア侵略が起こり、国際連盟の介入を訴えたが効果なく、翌1936年イギリスへ亡命。1941年帰国。国内の改革を図るとともに、対外的には汎(はん)アフリカニズム、非同盟主義を掲げ、1963年独立アフリカ諸国の元首からなるアフリカ統一機構(OAU)の設立に尽力し、その本部を首都アディス・アベバに置き、アフリカ諸国間の紛争の解決に努力した。しかし1973年の飢饉(ききん)を契機に国内の不満が高まり、1974年軍事クーデターが起こり、同年9月皇帝は廃位され、軟禁されたまま1975年8月死去した。
[林 晃史]
エチオピアの皇帝。在位1930-74年。即位前の名はラス・タファリ・マコンネン。ハイレ・セラシエとは〈三位一体の力〉の意。メネリク2世のいとこマコンネンの息子で,1913年にメネリク2世が死去した時にはすでに実力者となっていたが,16年のクーデタで実権を握った。摂政を経て30年に皇帝となり,36-41年のイタリア占領期に亡命したのを除いて74年まで長期にわたる独裁的支配を続けた。この間,一方では西欧化策をとったが,他方では土地貴族や教会などの保守的支配層を保護する政策を続けた。74年2月の軍事クーデタに続いて全国民的な反帝政闘争が起き,同年9月,皇帝を廃位させられ,翌年8月に病死した。外交面ではアフリカ統一機構(OAU)の設立に尽力したり,ナイジェリア内戦(1967-70)やスーダン内戦(1972)などの解決に努力したが,エリトリア問題,ソマリア問題などエチオピアが直接に利害関係のある問題では〈エチオピア第一主義〉の立場に立った。
執筆者:岡倉 登志
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… アムハラ族はエチオピアの支配層でもあって,誇り高い人々である。彼らはアクスム王国の子孫であり,故ハイレ・セラシエ皇帝はソロモン王とシバの女王の子孫と主張した。彼らは選ばれた民として4世紀にはキリスト教を受容した。…
※「ハイレセラシエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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