日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハイレ・セラシエ」の意味・わかりやすい解説
ハイレ・セラシエ
はいれせらしえ
Haile Selassie I
(1892―1975)
エチオピア皇帝。ハイレ・セラシエは三位(さんみ)一体の意。即位前の名はラス・タファリ・マコンネンRas Tafari Makonnen。7月23日、皇帝メネリク2世の従弟マコンネン王子の息子としてハラル州に生まれる。家庭教育を受けたのち、1910年ハラル州知事となり、開明政策を実施。1916年メネリク2世の娘ザウディツ女王の摂政となり、1930年女王の死とともに皇帝に即位。憲法制定、議会・司法制度を導入し、奴隷制度廃止、教育の普及に努めるなど開明君主として名声を得た。1935年イタリアのエチオピア侵略が起こり、国際連盟の介入を訴えたが効果なく、翌1936年イギリスへ亡命。1941年帰国。国内の改革を図るとともに、対外的には汎(はん)アフリカニズム、非同盟主義を掲げ、1963年独立アフリカ諸国の元首からなるアフリカ統一機構(OAU)の設立に尽力し、その本部を首都アディス・アベバに置き、アフリカ諸国間の紛争の解決に努力した。しかし1973年の飢饉(ききん)を契機に国内の不満が高まり、1974年軍事クーデターが起こり、同年9月皇帝は廃位され、軟禁されたまま1975年8月死去した。
[林 晃史]