改訂新版 世界大百科事典 「オルデンバルネフェルト」の意味・わかりやすい解説
オルデンバルネフェルト
Johan van Oldenbarnevelt
生没年:1547-1619
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…〈海乞食〉(乞食団)の蜂起による反乱側のホラント,ゼーラント両州占拠(1572)を経て,ネーデルラント北部の7州は,1579年ユトレヒト同盟を結成し,81年スペイン人に対する独立を宣言した。反乱の指導者オラニエ公ウィレム1世が84年暗殺されると,オルデンバルネフェルトが共和国の政治を指導し,オラニエ公の遺子マウリッツを指揮官にスペイン軍と戦い,1609年にはスペインと12年間の休戦条約を結んで実質的な独立を達成した。オランダ共和国(正式にはネーデルラント連邦共和国)は独立の達成とともに,ヨーロッパで最も富裕な商業国家になった。…
…しかし,執政パルマ公の率いるスペイン軍はユトレヒト同盟に参加した南部の諸都市を征服し,さらに北部諸州を攻略し,84年オラニエ公は暗殺された。ウィレム亡きあと,オルデンバルネフェルトは連邦議会を舞台に北部諸州の団結に心を砕き,オラニエ公の若い息子マウリッツは軍事総司令官として,スペイン軍の占領した諸都市を次々に奪回した。こうして共和国は95年ごろまでに,7州のほぼ全領域を解放して実質的な独立を達成し,1609年スペインと12年間の休戦条約を締結した。…
…1600年ニウポールトNieuwpoortでも勝利したが,以後はスペインの勇将スピノラAmbrogio Spinola(1569‐1630)の反撃に阻まれた。〈十二年休戦条約〉期(1609‐21)に,〈厳格カルバン派(ホマルス派)〉を支持して,〈アルミニウス派〉と結ぶホラント州議会と対立,その指導者オルデンバルネフェルトを逮捕(1618),翌年処刑した。しかし政治的手腕に欠けて国家統一強化の機会を逸し,戦争再開後は軍事的にもふるわず,暗い晩年に終わった。…
※「オルデンバルネフェルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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