日本大百科全書(ニッポニカ) 「カバコフ」の意味・わかりやすい解説
カバコフ
かばこふ
Ilya Kabakov
(1933―2023)
ソビエト連邦出身でニューヨークを拠点に活動した美術家。ドニエプロペトロフスク(現、ウクライナのドニプロ)のユダヤ人家庭に生まれる。若くしてモスクワへ移り、高校での美術教育を経てスリコフ記念モスクワ芸術大学に学び、1957年卒業。イラストレーターとして出発し、絵本の挿絵などを数多く手がけながら、1960年代より抽象画や物語絵画の制作も本格的に開始する。マレービチやタトリンらの強い影響を受ける半面、当時ソ連の正統な様式であった社会主義リアリズムには強い反発を覚え、1970年代後半以後、作風は反体制的な性格を強め、地下組織の前衛グループ「コレクティブ・アクション」の主要メンバーとしてパフォーマンスなどを行った。1985年、スイスのベルンを皮切りに個展が初めて海外を巡回、アルバム型の作品を発表する。また初めて訪れたアメリカでインスタレーション作品(虚構と現実が入り交じる寓話(ぐうわ)的な造形のなかにさまざまな記憶や技法が集積されていたことから、本人は「トータル・インスタレーション」とよんだ)『十の人物』(1988)を制作。いずれも大きな反響をよんで名声を確立、海外での活動基盤を築いた。ソ連崩壊後の1992年にニューヨークに移住し、以後アメリカを拠点に活動する。
1960~1970年代、ソ連圏では西側のポップ・アートの強い影響を受け、「ソッツ・アート」SOTSart(社会主義リアリズムsotsialisticheskiy realizmとポップ・アートからの造語)とよばれる運動が生まれたが、カバコフは創始者であるコマール&メラミードVitaly Komar(1943― )&Alex Melamid(1945― )やエリック・ブラトフEric Bulatov(1933― )と並んでこの運動の代表的作家とされる。「恐怖は芸術創造の原因であり、芸術は自由を得るための手段だ」と公言していたカバコフにとって、ソ連圏の体制に対する不平不満は創作上の大きな動機であった。簡単に折り畳め、携行可能なアルバム型の作品も反体制ゆえの緊張感によって発案されたもので、西側に移った後もソビエト時代の記憶に多くの作品制作の動機を負っている。しかしカバコフの作風には、ユダヤ系というアイデンティティをはじめ、死、忘却、記憶、天使というイメージの頻出など、かならずしも「ソッツ・アート」という枠組みにくくることのできないモチーフも多く潜んでおり、『十の人物』やドイツのミュンスター彫刻プロジェクトに出品された『見上げて言葉を読む』(1997)といった「トータル・インスタレーション」作品は、従来の枠組みとは別の側面からも評価されている。
1993年ベネチア・ビエンナーレに参加、1995年インスタレーション作品『われわれはここに住んでいる』を発表するなど1990年代以降も精力的に活動する。また、グループ展に参加するため1991年(平成3)に初来日して以来、日本の美術館、ギャラリーでも個展、グループ展を開催した。とりわけ、1999年に水戸芸術館で開催された個展「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」は、自らをキュレーターに見立てて、実在しない画家シャルル・ローゼンタールの個展を企画・構成するという形式によって行われ、架空の分身を通じて自分のルーツを見つめ直そうとした展覧会企画として大きな反響を呼んだ。2002年(平成14)には、東京国立近代美術館の「現代美術への視点――連続と侵犯」展にも参加した。1988年以後の作品の多くは、夫人であるエミリア・カバコフEmilia Kabakov(1945― )との共同名義によって発表されており、2004年には森美術館で「私たちの場所はどこ?」と題する二人展が開催された。
[暮沢剛巳]
『港千尋著『記憶――「創造」と「想起」の力』(1996・講談社)』▽『沼野充義著『イリヤ・カバコフの芸術』(1999・五柳書院)』▽『「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」(カタログ。1999・水戸芸術館)』▽『「現代美術への視点――連続と侵犯」(カタログ。2002・東京国立近代美術館)』