カマラシーラ(読み)かまらしーら(その他表記)Kamalaśīla

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カマラシーラ」の意味・わかりやすい解説

カマラシーラ
かまらしーら
Kamalaśīla
(?―800ころ)

インドの瑜伽行中観(ゆがぎょうちゅうがん)学派系の仏教学者。漢訳名は蓮華戒(れんげかい)。チベットでは、カマラシーラの師匠シャーンティラクシタの仏教布教後に、摩訶衍(まかえん)(大乗和尚(だいじょうおしょう))がきて中国系の頓悟禅(とんごぜん)を広めた。794年にカマラシーラはインドから招かれてこれと対決し、サムエ寺の法論において論破し、以後インド系の漸門(ぜんもん)仏教がチベットで正統とされたが、反対派の刺客により数年後殺されたという。師匠の『真理綱要(しんりこうよう)』『中観荘厳論頌(ちゅうがんしょうごんろんじゅ)』に注釈を施したほか、『中観光明論(ちゅうがんこうみょうろん)』などを著した。タントラ密教の著作も多い。『修習次第(しゅじゅうしだい)』3巻は以上の論争の経過を伝えるものとして注目される。

川崎信定 2016年11月18日]

『芳村修基著『インド大乗仏教思想研究――カマラシーラの思想』(1974・京都・百華苑)』

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改訂新版 世界大百科事典 「カマラシーラ」の意味・わかりやすい解説

カマラシーラ
Kamalaśīla

8世紀後半にチベットで活躍したインドの学僧。生没年不詳。漢文文献では蓮華戒(れんげかい)と訳される。大乗仏教中観派の所属。シャーンタラクシタŚāntarakṣita(寂護)の弟子。はじめはナーランダー寺タントラを教授していたが,チベットで師の寂護の没後漢人の僧である摩訶衍の教えが流行しはじめ,インド系の僧がそれに抗議していたので,ティソン・デツェン王はカマラシーラを招き,サムイェ寺で彼と対決させた。カマラシーラは,〈不思不観〉の立場に立つ摩訶衍の頓悟座禅を排し,正しい個別観察に基づく〈空(くう)〉の悟得という中観派の教えを提唱した。対決の結果,カマラシーラが勝利し,これよりチベットでは中観派が栄えた。主著は《修習次第(しゆうじゆうしだい)》。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カマラシーラ」の意味・わかりやすい解説

カマラシーラ
Kamalaśīla

[生]?
[没]796/797
インドのナーランダ僧院からチベットに招かれた学僧。漢訳名は蓮華戒。シャーンタラクシタの弟子。 794年,摩訶衍 (マハヤーナ) による禅宗の普及に危惧の念をいだいたティソン・デツェン王によって招かれ,サムエ寺において王の面前で論争して勝ち,インド仏教の正統派としての評価を確立し,論争後その立場を示す『修習次第』を著わしたと伝えられる。シャーンタラクシタの著作を注釈し,みずからも『中観明』などを著わし,論理学を自在に用い,瑜伽行中観派見解を示した。最後は外道の刺客に殺されたと伝えられる。

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世界大百科事典(旧版)内のカマラシーラの言及

【ラマ教】より

…786年敦煌が陥落すると,その地から招かれた漢人僧摩訶衍(まかえん)が利他行を重視した不思不観の禅の教えを流行させたので,インド系仏教徒との間で宗論が起った。王はインドから寂護の弟子の巨匠カマラシーラ(蓮華戒)を招いて摩訶衍を論破させ,インド仏教を正統とした。 この論争では,中国仏教は,他を救うことを目的とした大乗仏教から自ら救われることのみをいう教えに変質していると指摘され,さらに,人間は本来仏の素質をもっているとする如来蔵思想の一つの傾向から禅宗の実践ではインド仏教の瞑想法に特有な教理に凝念する態度が捨てられ,不思不観が勧められたので,それでは般若の智慧が得られないとして非難された。…

※「カマラシーラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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