カラジッチ(読み)からじっち(その他表記)Radovan Karadžić

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カラジッチ」の意味・わかりやすい解説

カラジッチ(Radovan Karadžić)
からじっち
Radovan Karadžić
(1945― )

ボスニア内戦時のセルビア人勢力指導者。サライエボへの無差別的攻撃や、民族浄化(他民族の殺害・追放)を命令した戦争犯罪(大量虐殺罪)の容疑で、同勢力軍司令官ムラディチRatko Mladić(1943― )とともに旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷に起訴された。モンテネグロ生まれだが、サライエボで精神分析医となる。詩人としても知られた。1990年の自由選挙を前にセルビア人の主権を求める「セルビア民主党」を創立し、党首に就任。選挙後、ムスリム系およびクロアチア系の民族主義政党と「反共」連立政権を樹立し「不戦の誓い」を交わした。しかし1991年後半から1992年初めにかけて、旧ユーゴスラビアからの独立を目ざす多数派の動きにセルビア人が反発し、3勢力の連立政権は崩れていった。カラジッチはボスニア内部に「セルビア人共和国」を樹立し、大統領となる。将来のセルビア本国との合併を見越した行動である。1992年春以降、ユーゴ連邦人民軍(新ユーゴ軍)の支援を得ながら軍事的に支配地域を拡大した。当初はセルビア本国のミロシェビッチの傀儡(かいらい)とみなされたが、戦争を通じて実力を蓄え、「全セルビア民族の指導者」の地位を争うまでになった。しかし、1995年アメリカのオハイオ州デイトンでの和平交渉には戦犯容疑で起訴されたため参加できなかった。1996年6月に大統領辞任、7月には公職追放され、同年9月に行われた統一選挙にも出馬しなかったものの、停戦後も隠然たる影響力を保った。しかし、2008年7月セルビアのベルグラードで同国治安当局に拘束された。

[千田 善]

 2016年に禁錮40年を言い渡された。

[編集部]

『千田善著『ユーゴ紛争――多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)』『M・グレニー著、井上健・大坪孝子訳『ユーゴスラヴィアの崩壊』(1994・白水社)』


カラジッチ(Vuk Stefanović Karadžić)
からじっち
Vuk Stefanović Karadžić
(1787―1864)

セルビアの文献学者、民俗学者。セルビアの寒村に生まれ、独学で教養を身につける。政情不安定な故国を離れ、生涯の大半をウィーンで過ごした。スロベニアの文献学者コピータルJernej Kopitar(1780―1844)によってセルビアの文化的指導者たるべき才幹をみいだされ、ヤコプ・グリムゲーテ、ランケの知遇を得て学者として大成した。コピータル、クロアチアのガイらとともに民衆語に基づいた文語改革を推進し、セルビア人とクロアチア人に共通の標準文語を確立させた。『セルビア語文法』(1814)、『セルビア語辞典』(1818)、『セルビア民謡』6巻(1841~1866)などの業績がある。

[栗原成郎 2018年6月19日]

『栗原成郎・田中一生訳・編『ユーゴスラビアの民話Ⅰ』(1980・恒文社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カラジッチ」の意味・わかりやすい解説

カラジッチ
Karadžić, Radovan

[生]1945.6.19. ユーゴスラビア,シャブニク
ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家,医師,作家。セルビア人勢力指導者。サラエボ大学で医学を学び,精神科医になった。また詩集や子供向けの本も出版した。1990年,クロアチア系政党に対抗するために設立されたセルビア民主党の創設に携わり,初代党首(1990~96)を務めた。1992年,一方的に独立を宣言したボスニア・セルビア人共和国の大統領となり,ユーゴスラビア連邦のセルビアモンテネグロ同盟を結んだ。セルビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領とボスニアのセルビア軍指導者ラトコ・ムラディッチの支援を受けてボスニア各地を制圧し,それらの地域から非セルビア民族を一掃する軍事行動に出た。1995年,旧ユーゴスラビア国際戦争犯罪法廷 ICTYオランダのハーグで開かれ,集団虐殺,殺人,強姦,その他の民間人虐待の罪で起訴された。同 1995年末にはデートン和平合意への署名を余儀なくされた。合意には,戦犯として起訴された者は 1996年9月実施予定の選挙に参加できない旨が明記され,みずからの政府と党首の地位の放棄を求められた。1997年逃亡生活に入ったが,2008年7月,セルビアのベオグラード近郊でセルビア当局により拘束。その後まもなく裁判のためハーグへ身柄を移送された。(→ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

カラジッチ
Karadžić, Vuk Stefanović

[生]1787.10.26. トゥルシチ
[没]1864.1.25. ウィーン
セルビアの言語学者,文学者,民俗学者。 19世紀セルビアおよびクロアチア文化を代表する人物。ウィーンでスロベニアのスラブ学者 B.コピタルと出会って,セルビアの民謡と言語の研究をすすめられ,1814年には文法書を出版,18年には主著『セルビア語辞典』を出版した。また,セルビア語とクロアチア語の統一をめぐる長期にわたる話合いをまとめて,セルボ=クロアチア語を成立させその正字法をつくった。南スラブの口碑文学の収集,出版や,最初のセルビア民族蜂起の研究,民俗学の研究もあり,これらによりセルビアおよびクロアチアの現代文学の基礎をつくりあげた。

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改訂新版 世界大百科事典 「カラジッチ」の意味・わかりやすい解説

カラジッチ
Vuk Stefanović Karadzić
生没年:1787-1864

ユーゴスラビアの言語学者,文学者,歴史家。セルビア人。ベオグラードの大学で聴講したほかは独学。第1次セルビア蜂起が失敗した1813年ウィーンへ渡り,何度か帰国したものの,この地で結婚し生涯を終える。ウィーンではスロベニア人のコピタルを知り,その勧めで初のセルビア語文法をまとめ(1814),次々と民謡を収集・編纂して発表した(1814,15,23,33)。また初めてセルビア語辞書を作成し(1818),ナポレオン法典や新約聖書を訳した(1847)。グリム兄弟,ゲーテ,ランケらの知遇をえて自国の文学と歴史をヨーロッパに広めたが,彼の最大の功績はセルビア語の改革にある。教会や支配階級が固執する不自然なアルファベットから18字を捨て,六つの新字を考案し,〈一音一字〉〈話すとおりに書け,書かれたとおりに読め〉の原則で正書法を改めたのである。これによって民衆の言葉が簡潔で力強い文語として成立し,後代に計り知れない影響を与えた。また1850年にはI.マジュラニッチなどとウィーンで〈文語協定〉を結び,セルビア人とクロアチア人は同一の文語を持つことを確認した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のカラジッチの言及

【スラブ学】より

…《古代ロシア語辞典資料》のスレズネフスキーIzmail Ivanovich Sreznevskii(1812‐80)もその一人である。チェコではユングマンJosef Jungmann(1773‐1847),シャファーリクなどが活躍し,セルビアではカラジッチがセルビア民族叙事詩を採録し,さらにセルビア・クロアチア文章語の創設に尽力した。ポーランドでも19世紀前半にワルシャワとクラクフを中心にスラブ文献学がおこった。…

【ユーゴスラビア】より

…クロアチア人のガイが主唱するイリュリア運動に参加したマジュラニッチは,トルコ人の非人間性を描いた叙事詩《スマイル・アガ・チェンギッチの死》(1846)を発表し,〈スロベニアのプーシキン〉といわれたプレシェレンは愛国的な抒情詩《ソネットの花環》(1834)を,モンテネグロの聖俗界に君臨したニェゴシュ(ペータル2世)はオペラ形式の英雄叙事詩《栄光の山並み》(1847)を完成した。当時ウィーンにあってセルビア人の口承文芸を収集・刊行していたカラジッチは,大胆にセルビア語を簡素化した。そして1850年マジュラニッチたちとウィーンで会合すると,セルビア語とクロアチア語は共通の言語であるとする〈文語協定〉を締結し,将来の文学活動に計り知れない刺激を与えた。…

※「カラジッチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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