日本大百科全書(ニッポニカ) 「カエサル」の意味・わかりやすい解説
カエサル
かえさる
Gaius Julius Caesar
(前100―前44)
古代ローマ、共和政末期の政治家、将軍。いわゆる第1回三頭政治を敷いた政治家の一人。英語ではシーザー。ガリアを平定して、古典古代の文化をヨーロッパ内陸部にまで広めるとともに、内乱での勝利の結果、単独支配者となり、世界帝国的な視野のもとで社会的、政治的な変革を行ったが、共和政ローマの伝統を踏みにじるものとみなされて暗殺された。ギリシア・ローマの歴史を決定的に変えた大政治家であり、将軍、文人としても第一級の人物とみられている。
[長谷川博隆]
コンスルへの道
カエサルは紀元前100年7月13日に生まれた。女神ウェヌス(ビーナス)の後裔(こうえい)であることを誇るパトリキ系の名門の出である(ただしカエサル家は第一級の名門には属さず、祖先にも名士を出していない)。伯母は将軍マリウスの妻。父はガイウス・ユリウス・カエサル。前85年に父を失ったが、良妻賢母の誉れの高い母アウレリアには一生敬愛の念を捧(ささ)げた。前84年に民衆派のキンナの娘コルネリアをめとったため、閥族派のスラの勝利後、離別を促されたが、受け入れず、追及を逃れて東方に赴き、前80~前78年属州アジアおよびキリキアで従軍し、武勲のため檞(かしわ)葉の冠を受けた。スラの死後帰国し、前77年、元地方長官ドラベラを告発することによって政治生活の第一歩を踏み出した。ついで前75~前74年ロードス島のモロンのもとで雄弁術を学び、前73年には神官に選ばれた。前70年以降は、第一人者たろうという功名心を燃やしつつ、スラ体制の打破を目ざす民衆派の一人としての道を歩み始めた。前69年には財務官として「彼方(かなた)のスペイン」(ヒスパニア・ウルテリオールHispania ulterior)に赴任し(~前68年)、前67~前64年にはポンペイウス支持の立場を鮮明にし、前65年のアエディリス(按察官(あんさつかん))に選ばれるや、大々的に剣闘士競技を催して、人心収攬(しゅうらん)に努めた。さらには大規模な買収によって前63年大神官(終身)になった。なお、国家転覆を謀るカティリナの陰謀事件に加担したかどうかについては議論があるが、キケロの強硬処置には反対している。前62年法務官となり、東方から帰国したポンペイウスのための各種の法案を支持し、12月のクロディウスと妻ポンペイア(スラの孫娘。コルネリアを失ったのち、前67年に再婚した女性)とのスキャンダル事件に関連して、翌年妻を離別した。ついでクラッススから多額の借金をして債鬼を逃れ、前61年「彼方のスペイン」の長官として任地に赴くや、属州の秩序を整え、ルシタニ人を討ち、戦利品で部下および国庫を潤し、政治的、軍事的に力を蓄えてゆく。前60年には、実力者ポンペイウス、富豪クラッススと同盟を結び、私的な結合たる第1回三頭政治を始め、これを背景に前59年共和政ローマの最高の官職コンスル(執政官または統領と訳す)に選ばれた。
コンスルとしては、ポンペイウスの老兵および無産市民に対する土地割当てをねらいとする2回にわたる国有地分配法案、ポンペイウスの東方での諸規定、秩序を認める法案、徴税請負法案、不法取得取締法案、さらにはアレクサンドリアの王に関する法案や元老院議事公開法案などを通すことによって、ポンペイウスやクラッススとの結び付きを固めるとともに、一般民衆の意を迎えた。一方、自らも一法案により、コンスル職ののち、ガリア・キサルピナGallia Cisalpina(アルプスの此方(こなた)のガリアの意)とイリリクム(現在のクロアチアのアドリア海に面する地方およびハンガリー西部)を前54年2月末まで統治することが認められ、さらにガリア・トランサルピナGallia Transalpina(アルプスの彼方のガリア)がこれに付け加えられた。また自分は執政官ピソの娘カルプルニアを妻とし、娘ユリアをポンペイウスにめあわせている。そのコンスル職の活躍は、護民官的なものであったと評されている。
[長谷川博隆]
ガリア戦争
前58年からガリアの地方長官として前50年までの在任中にガリア戦争を遂行し、ライン川左岸までのガリア全土をほぼ平定した。まず前58年にはヘルベティア人を討ち、さらにゲルマン人のアリオウィストゥスを破り、翌前57年にはガリア北部のベルガエ人を抑え、さらに前56年にはブルターニュ、ノルマンディーからアクィタニアに兵を進め、ウェネティ人も下した。ついで前55年にはライン川を越えてゲルマン人の地に入り、またブリテン島にも遠征している。さらに前54年7月、再度ブリテン島に兵を進めたが、秋にはガリアの大反乱に対処し、ついで前53年には北ガリアの諸部族、とくにトレウェリ人、エブロネス人を討った。その間も中央ローマの政治の動きに心を配り続けた。ポンペイウスとクラッススとの盟約は前56年4月のルカの会談で固められ、カエサルのガリアの地方長官職も5年延長されたが、一方、元老院の保守派との関係は悪化してゆく。前52年のウェルキンゲトリクスVercingetorix(前82ころ―前46)に率いられたガリアの大蜂起(ほうき)に対しては、アウァリクム、ゲルゴウィアの戦闘後、アレシアの包囲戦で勝利を収めた。翌年もベロウァキ人の蜂起などの戦闘はみられたが、いちおうガリアの戦いには終止符が打たれた。長年にわたるガリア戦争はローマの国庫を潤したばかりか、カエサルの経済的、政治的な力を増大させ、とくに都市国家ローマにとどまらない広い視野が培われるとともに、軍事独裁のための基盤がつくられた。一方、ヨーロッパ内陸部が初めてギリシア・ローマ文化の恵みに浴し、西欧文化圏成立の基礎がつくられたといえよう。
[長谷川博隆]
内乱
ポンペイウスに嫁した娘ユリアが前54年に死に、翌前53年にクラッススが東方パルティア遠征で敗死したため、第1回三頭政治も崩壊し、元老院の保守派と結んでゆくポンペイウスとの関係も悪化する。前51年来カエサルの召還、軍隊解散をめぐって事態は険悪の一途をたどり、妥協案も退けられ、前49年1月7日の元老院の最終決議(非常事態宣言)に対して、カエサルは兵を率いルビコン川を渡ってイタリアに侵入し、ポンペイウスに全権を与えた元老院の保守派との内乱に突入した。カエサルのイタリア制圧によりポンペイウスが東方に逃れたため、カエサルは彼の地盤の属州スペインを抑えたのち、前48年、エピルスの地にポンペイウスを追い、デュラキウムでの陣地戦のすえ、8月9日ファルサロスの決戦でこれを破った。ついでエジプトに渡ったが、王位継承戦(前48年10月~前47年3月)に巻き込まれ、戦いに勝って王位につけたクレオパトラとの間に一子カエサリオンをもうけた。その後、前47年8月にはミトリダテス大王の息子ファルナケスをゼラで討ち、小アジアの治安を整えた。ついでアフリカでスキピオの率いるポンペイウスの残兵をタプススに破り(前46年4月6日)、小カトーをウティカに自刃させた。さらに前45年3月17日にはスペインのムンダでポンペイウスの息子の率いる軍勢を破って、内乱に終止符を打った。
[長谷川博隆]
独裁者
前48年末に1年任期の独裁官に任ぜられ、またタプススの勝利後、前46年4月ごろ10年任期の、さらに前44年2月以降は終身の独裁官になり、数多くの栄誉や特権が与えられてゆく。全軍に対する指揮権、国庫の管理、和戦の決定、風紀取締り、推薦選挙などの特権、凱旋(がいせん)将軍の衣装(古ローマの王の衣服)の常時着用の栄誉が認められ、諸神殿に彼の彫像が立てられる。一方、政敵には寛大な姿勢を示し、大規模な恩赦を与え、これを登用してゆく。大凱旋式および見せ物、競技で民衆の意を迎える一方、大々的に救貧、イタリア内の土地分配、カルタゴやコリントへの植民などの事業を進め、ポー川以北、アルプス以南のガリアのラテン市にローマ市民権を与え、元老院の議席を増やして広い層の人を登用し、また大規模な土木工事をおこして首都ローマを整え、前45年1月1日からは太陽暦(ユリウス暦)を採用し、自治市の規準を示す法律も定めた。しかし権力を一身に集中したため、前44年3月15日、ブルートゥス、カッシウスら共和政護持者たちに元老院議場で暗殺された。
[長谷川博隆]
著作
雄弁家、文人としても第一級の人物として知られる。しかし、その演説の草稿、書簡、パンフレットは散逸し、現存するのは、簡潔な文体、的確な現実把握の点でラテン散文の範といわれる『ガリア戦記』(8巻。ただし第8巻は部将の手に成る)、『内乱誌』(3巻)のみである。
[長谷川博隆]
評価
実戦の雄であるばかりか、将軍として卓越した才能を示し、一方、人心の向かうところを正しくつかんだ民衆派政治家で、各種の改革を遂行したが、業なかばで倒れたというべきであろう。人間的には、冷静な頭脳をもっていた一方、情熱的で、在来の習慣を踏みにじり金銭関係もルーズであったが、人間味豊かであった。運命の女神とともにあることを確信し、世人からも運命の申し子とみなされた一方、政敵を心から受け入れる仁慈の人として知られる。究極のねらいは王政であったのかという点を踏まえ、彼を共和政の破壊者とみる説と、逆に帝政の礎石を据えた人物とする説との対立があり、評価は定まらない。政治家としてのスケールの点、とくに世界帝国的な視野の点についても学説史上対立がある。豊かな人間性、最後の悲劇性など、その人間像についても、シェークスピアをはじめ文学者、芸術家の手で、現代までさまざまの角度から取り上げられている。
なお、カエサルとは本来ユリウス氏族の一家族名であったが(カリグラ帝まで)、ローマ皇帝(元首)の称号となり、ハドリアヌス帝以降は帝位継承者の称号ともなった。さらにドミナトゥス時代には副帝をさしていたが、のちドイツではカイザー(カイゼル)、ロシアではツァーリとなり、それぞれ帝国の皇帝を意味する名称となった。
[長谷川博隆]
『国原吉之助訳『カエサル文集 ガリア戦記・内乱記』(1981・筑摩書房)』▽『近山金次訳『ガリア戦記』(岩波文庫)』▽『河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)』▽『村川堅太郎編・訳『世界古典文学大系23 プルタルコス』(1966・筑摩書房)』▽『ランボー著、寺沢精哲訳『シーザー』(白水社・文庫クセジュ)』▽『ヴァルテル著、橘西路訳『ジュリアス・シーザー』(角川文庫)』▽『ゲルツァー著、長谷川博隆訳『カエサル』(1968・筑摩書房)』▽『ピエール・グリマール他著、長谷川博隆監修・他訳『世界伝記双書3 ユリウス・カエサル』(1984・小学館)』