日本大百科全書(ニッポニカ) 「キリシタン用語集」の意味・わかりやすい解説
キリシタン用語集
きりしたんようごしゅう
コレジオ collegio
ヨーロッパの教育制度を取り入れて行われた高等教育機関。1580年(天正8)府内(大分市)に創設されたが、禁教令によって山口、生月(いきつき)、千々石(ちぢわ)、有家(ありえ)、加津佐(かづさ)、天草(あまくさ)、長崎と移動。1614年(慶長19)閉鎖。
コンフラリア confraria
信徒が司祭の指導の下に、自主的に組織した信心会。信心を深め、キリスト教的慈善事業を主として行った。代表的なものにミゼリコルディア(慈悲)の組、サンタ・マリアの組、ロザリオの組、セスタ講などがある。
信徒発見(しんとはっけん)
1865年(慶応1)3月17日、大浦天主堂で浦上(うらかみ)の潜伏キリシタンたちがプチジャン神父に信仰を表白した。250年にわたる江戸幕府の弾圧を経、絶滅したと思われたキリシタンが復活した事件。
セミナリオ seminario
イエズス会の初等教育機関。1580年(天正8)に安土(あづち)と有馬に創設された。禁教令によって加津佐、八良尾(はちらお)、有家、天草、長崎と移動。1614年(慶長19)江戸幕府の禁教令によって閉鎖。
寺請制度(てらうけせいど)
江戸幕府が庶民の思想統一と、キリシタン検索強化のためにとった制度。全国民はかならず特定の寺の檀家(だんか)とならねばならず、宗門改(あらため)帳(宗旨人別帳)に記載された。この改帳はのちには戸籍台帳的性格を帯びるようになった。
天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)
天正年間にポルトガル、スペイン、イタリアに派遣された(1582~90)伊東マンショを主席とする日本人キリシタンの4少年。バリニャーノの東西文化交流の計画によって、九州の3キリシタン大名の名代としてローマ法皇に謁見した。
ドチリナ・キリシタン Doctrina Christão
問答体によるキリスト教教義書。平易な文語体で書かれ、信徒間にもっとも流布した宗教教育書。キリシタン版の一つで、国字本2本、ローマ字本2本が現存する。
二十六聖人(にじゅうろくせいじん)
1597年2月5日(慶長1年12月19日)に長崎西坂の丘で、豊臣(とよとみ)秀吉の命令によって、ペドロ・バプチスタら6名のフランシスコ会宣教師と、日本人イルマン三木パウロら20名が処刑された。1862年(文久2)教皇ピオ9世によって列聖された。
バテレン(伴天連)
カトリックの神父、司祭の意。ポルトガル語、スペイン語、イタリア語のパードレpadreが日本で転訛(てんか)したもの。伴天連はこれの音写。
踏絵(ふみえ)
江戸幕府のとったキリシタン検索制度の一つ。キリシタン禁制下にあって信徒を発見し、棄教させるために、十字架、キリスト、聖母マリアなどの信仰対象を足で踏ませた制度。踏めない者を信者と認定し告発した。1628年(寛永5)ごろ長崎で開始され、九州各地で制度的に実施された。
[宮崎賢太郎]