改訂新版 世界大百科事典 「キルギス族」の意味・わかりやすい解説
キルギス族 (キルギスぞく)
Kyrgyz
北アジアに祖をもち,のちトルコ化して中央アジアに住む民族。旧ソ連邦の中央アジアに253万(1989)が住み,キルギス共和国を構成する主要民族である。キルギス語を話し,自称はキルギズ,大部分がスンナ派のイスラム教徒である。古くはエニセイ川上流域のミヌシンスク地方にいて,中国の漢代にすでに堅昆,鬲昆などの名で知られた民族がその祖と考えられている。この地域では森林・草原の狩猟・牧畜のみならず,小規模灌漑農耕,そしてミヌシンスク金属文化(タシュティク文化)に代表されるような,鉱産資源を活用した冶金・手工業も行われていた。彼らは,元来ヨーロッパ系であったと目されていて,唐代の記録にも〈赤髪(金髪),皙面(白い肌),緑瞳(青い瞳)〉をもった〈長大〉な人々とされている。これよりさき前3世紀末から前1世紀半ばまで匈奴によって拉致されその支配下にあったと思われる〈黒髪〉〈黒瞳〉の漢族もその中に混住していたらしい。その後,結骨,紇骨とも呼ばれ,唐代には黠戛斯(ハカス)とも表記された。6世紀半ばごろ,突厥(とつくつ)第一帝国の3代木杆可汗の弟,地頭可汗に併合され,急速にトルコ化が進行したもようである。突厥文字を使っていわゆるエニセイ碑文を残したものもキルギス族であった(突厥碑文)。8世紀初め,彼らは突厥第二帝国の2代可汗黙綴によって討たれたが,この間の事情はキョル・テギンKöl Tegin碑文などの突厥碑文によってもqïrqïzの名と共に知られる。
8世紀半ば,このエニセイ・キルギス族は,突厥を継いだモンゴル高原の遊牧国家ウイグル族によって征服されたが,840年に彼らはウイグルの内紛と天災に乗じてオルドゥバリクを攻撃し,これを打倒した。以後アルタイ山脈南麓にもしだいに展開していったが,10世紀前半,契丹(きつたん)の進出と共にエニセイ川上流域の故地に再び中心を据え,都市建設まで行っていた。しかしその一方では各地への分散もみられる。すなわち,モンゴル勢力が台頭する13世紀初めにはアルタイのキルギス族は離散させられて西部天山一帯にも移ったと考えられ,他方,カラコルム北方に家畜を飼う貧しいキルギス族の集団の存在も報告されている。彼らは13世紀後半には完全にモンゴル・元朝の支配を受け,なかにはマンチュリア(満州,現在の中国東北地方)に移されたものもあったという。チャガタイ・ハーン国の崩壊後,15世紀ころにキプチャクなどと共に拡大したキルギスはセミレチエ地域(現在のカザフスタン共和国南東部)に入ったが,そこでは東カザフ族が強盛であった。
16~17世紀にはオイラートと戦っているキルギス族についてロシア・コサックが記録している。その頃からすでにキルギス族の一部は西部天山山脈やフェルガナ地方に移り,18世紀初めにはアルタイに残存するキルギスもオイラートによってフェルガナやパミールの方面へ追われた。オイラートのジュンガル・ハーン国が1757年(乾隆22)に清朝に滅ぼされると,ブルートBurūt(布魯特)とも呼ばれていた彼らは遊牧しながらフェルガナとカシュガリア間の貿易路を抑えた。フェルガナ方面のキルギス族はホーカンド・ハーン国,帝政ロシアの支配を経て,現在のキルギスタン共和国にいたる。中国では,新疆の克孜勒蘇柯尓克孜(キジルス・キルギス)自治州を中心とする地域に14万人(1990)が住んでいる。
執筆者:梅村 坦
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