契丹(読み)きったん(英語表記)Qi-dan; Ch`itan

  • Ch'i-tan
  • Khitai
  • けいたん
  • キタイ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

キタイ。中国北東部,大興安嶺山脈南部のシラ・ムレン川流域を本拠としたモンゴル遊牧種族および国家の名称。東胡後身 (けい) と関係深く,4世紀末,北魏以来動静が知られだした。初め周辺強国に隷属,数部に分れ,そのなかから族長互選。唐末 10世紀初め,周辺強国が衰亡し,迭剌 (てつら) 部に耶律阿保機 (やりつあぼき) が現れると,渤海をはじめ満州,モンゴルの諸族を統合し契丹国を建て,華北の一角も占領し中国風に国と改称,最初の征服王朝となった。東アジアの一大国として,その名は北中国の称として北方諸族に響いた。さらにモンゴル帝国の発展によってキタイの名はトルコ語,ペルシア語,ロシア語に入り,中国および中国人をさす Cathay以下の語となった。西遼 (カラ・キタイ) は,遼滅亡に際し,皇族耶律大石 (→徳宗) が中央アジアに逃れて建てた国。

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デジタル大辞泉の解説

4世紀以来、遼河支流シラ‐ムレン流域にいたモンゴル系の遊牧民族。10世紀初めに耶律阿保機(やりつあぼき)が周辺の諸民族を統合し、その子太宗のとき国号をとした。12世紀初めにに滅ぼされたが、一部は中央アジアに移動して西遼(カラキタイ)を建てた。契丹(きったん)。→契丹文字(きったんもじ)
[補説]「契丹」とも書く。

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百科事典マイペディアの解説

東部モンゴリアに5世紀以来現れた遊牧民族。モンゴル系でツングース語系諸族と混血したといわれる。10世紀初め,耶律阿保機が諸部族を統合,916年皇帝となる。これがで華北,満州をも領有,大いに勢力をふるった。1125年に滅ぼされたが,その一族は西走して中央アジアにカラ・キタイ(西遼)を建て,1211年まで存続。→キタイ
→関連項目燕雲十六州契丹語契丹文字高祖(後晋)東胡渤海満州モンゴル[人]

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大辞林 第三版の解説

五世紀以降内モンゴルのシラムレン河流域に現れた遊牧狩猟民族。モンゴル系でツングースとの混血種といわれる。一〇世紀耶律阿保機やりつあぼきが諸部族を統一し、のち征服王朝遼りように発展した。キタイ。 →

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

古くから中国の興安嶺(こうあんれい)東部のシラムレン川流域に遊牧し、10世紀の初め遼(りょう)王朝を建設したモンゴル系の民族。契丹の名を伝えた最初の文献は4世紀の北魏(ほくぎ)王朝の正史『魏書』であるが、8世紀前半のオルホン碑文にはキタイ、8世紀後半のウイグル碑文にはキタン(キタイの複数形)と記されているから、契丹はその音を漢字で写したものであろう。今日、ロシア語、トルコ語、ギリシア語で中国のことをキタイとよぶのは契丹に由来するという。
 初めシラムレン川流域にいた契丹族は5世紀には南方に移住し、大凌河(だいりょうが)流域に遊牧した。隋(ずい)・唐時代には営州(現在の遼寧(りょうねい/リヤオニン)省朝陽(ちょうよう/チャオヤン))に住み、首長(しゅちょう)は都督の職を与えられて中国の庇護(ひご)を得ていたが、696年営州に反乱が起き唐軍の討伐を受けてからしだいに移動し、シラムレン川とラオハ川の合流点付近に本拠を移した。契丹は8部ないし10部の部族から構成され、各部は馬をトーテムとする耶律(やりつ)姓と牛をトーテムとする審密(しんみつ)姓(蕭(しょう)姓)との二つの氏族(フラトリー)に分属していたが、唐王朝との闘争を通じて部族が結集して協力するようになった。10世紀の初め、迭剌(てつら)部から耶律阿保機(やりつあぼき)が出ると、それまでの君長互選制を廃止し、907年皇位につき、君主独裁の大契丹国を建てた。阿保機はタングート、吐谷渾(とよくこん)、タタール、ウイグルを攻め、渤海(ぼっかい)国を滅ぼし、927年死亡した。その次男の太宗は中国に侵入して後晋(こうしん)を滅ぼし、947年、国号を大遼国と改めた。[河内良弘]
『田村実造著『中国征服王朝の研究 上』(1964・東洋史研究会) ▽愛宕松男著『契丹古代史の研究』(1959・東洋史研究会)』

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精選版 日本国語大辞典の解説

[1] 〘名〙 (Kitai) モンゴル族の一種族。四世紀ごろから内蒙古のシラ‐ムレン流域に遊牧。唐代には有力な八部族の連合体を組織して、大きな勢力となる。一〇世紀初め、耶律阿保機(ヤリツアポキ)が内外蒙古および満州の諸部族を統合し、その子太宗のとき国号を遼とした。きったん。
[2] 中世以来のヨーロッパ人が、華北あるいは中国全土をさして呼んだもの。カタイ。
〘名〙 =キタイ(契丹)(一)
※高野本平家(13C前)五「神宮皇后御世をうけとらせ給ひ〈略〉鬼界、高麗、荊旦(ケイタン)までせめしたがへさせ給ひけり」
〘名〙 =キタイ(契丹)(一)

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

内モンゴルのシラムレン川流域からおこり,遼 (りよう) を建国したモンゴル種族の一分派。北アジアの遊牧民の間ではキタイ(Kitai)またはその複数形のキタン(Kitan)で呼ばれた
10世紀初め耶律阿保機 (やりつあぼき) がこの部族を統一して中国北部を領有,契丹国(のちに遼,916〜1125)を建国した。領土は満州・モンゴル・華北にまたがる。女真族の金に滅ぼされたが,耶律大石 (やりつたいせき) は西走して中央アジアに西遼(黒契丹・カラ−キタイ,1132〜1211)を建てた。

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世界大百科事典内の契丹の言及

【モンゴル族】より

…モンゴルの名は,唐の歴史を記した《旧唐書(くとうじよ)》《新唐書》に見える蒙兀(もうごつ)というのが初出であるとされる。しかしモンゴル族としてはっきりしているのは契丹(きつたん)である。契丹はすでに4世紀にモンゴリア東部,興安嶺東麓で活躍していたことが中国の歴史書に見える。…

【遼】より

…契丹(きつたん)(キタイ)族の耶律阿保機(やりつあぼき)が東モンゴリアに建国し,モンゴリアおよび中国東北部と華北の一部を支配した国家または王朝。916‐1125年。…

※「契丹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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