契丹(読み)キタイ

精選版 日本国語大辞典 「契丹」の意味・読み・例文・類語

キタイ【契丹】

[1] 〘名〙 (Kitai) モンゴル族の一種族。四世紀ごろから内蒙古のシラ‐ムレン流域遊牧。唐代には有力な八部族の連合体を組織して、大きな勢力となる。一〇世紀初め、耶律阿保機(ヤリツアポキ)が内外蒙古および満州の諸部族を統合し、その子太宗のとき国号を遼とした。きったん。
[2] 中世以来のヨーロッパ人が、華北あるいは中国全土をさして呼んだもの。カタイ。

けい‐たん【契丹】

〘名〙 =キタイ(契丹)(一)
※高野本平家(13C前)五「神宮皇后御世をうけとらせ給ひ〈略〉鬼界、高麗、荊旦(ケイタン)までせめしたがへさせ給ひけり」

きったん【契丹】

〘名〙 =キタイ(契丹)(一)

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デジタル大辞泉 「契丹」の意味・読み・例文・類語

キタイ(Khitai)

4世紀以来、遼河支流シラ‐ムレン流域にいたモンゴル系の遊牧民族。10世紀初めに耶律阿保機やりつあぼきが周辺の諸民族を統合し、その子太宗のとき国号をとした。12世紀初めにに滅ぼされたが、一部は中央アジアに移動して西遼カラキタイ)を建てた。契丹きったん。→契丹文字きったんもじ
[補説]「契丹」とも書く。

きったん【契丹】

キタイ

けいたん【契丹】

キタイ

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百科事典マイペディア 「契丹」の意味・わかりやすい解説

契丹【きったん】

東部モンゴリアに5世紀以来現れた遊牧民族。モンゴル系でツングース語系諸族と混血したといわれる。10世紀初め,耶律阿保機が諸部族を統合,916年皇帝となる。これがで華北,満州をも領有,大いに勢力をふるった。1125年に滅ぼされたが,その一族は西走して中央アジアにカラ・キタイ(西遼)を建て,1211年まで存続。→キタイ
→関連項目燕雲十六州契丹語契丹文字高祖(後晋)東胡渤海満州モンゴル[人]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「契丹」の意味・わかりやすい解説

契丹
きったん

古くから中国の興安嶺(こうあんれい)東部のシラムレン川流域に遊牧し、10世紀の初め遼(りょう)王朝を建設したモンゴル系の民族。契丹の名を伝えた最初の文献は4世紀の北魏(ほくぎ)王朝の正史『魏書』であるが、8世紀前半のオルホン碑文にはキタイ、8世紀後半のウイグル碑文にはキタン(キタイの複数形)と記されているから、契丹はその音を漢字で写したものであろう。今日、ロシア語、トルコ語、ギリシア語で中国のことをキタイとよぶのは契丹に由来するという。

 初めシラムレン川流域にいた契丹族は5世紀には南方に移住し、大凌河(だいりょうが)流域に遊牧した。隋(ずい)・唐時代には営州(現在の遼寧(りょうねい/リヤオニン)省朝陽(ちょうよう/チャオヤン))に住み、首長(しゅちょう)は都督の職を与えられて中国の庇護(ひご)を得ていたが、696年営州に反乱が起き唐軍の討伐を受けてからしだいに移動し、シラムレン川とラオハ川の合流点付近に本拠を移した。契丹は8部ないし10部の部族から構成され、各部は馬をトーテムとする耶律(やりつ)姓と牛をトーテムとする審密(しんみつ)姓(蕭(しょう)姓)との二つの氏族(フラトリー)に分属していたが、唐王朝との闘争を通じて部族が結集して協力するようになった。10世紀の初め、迭剌(てつら)部から耶律阿保機(やりつあぼき)が出ると、それまでの君長互選制を廃止し、907年皇位につき、君主独裁の大契丹国を建てた。阿保機はタングート吐谷渾(とよくこん)、タタールウイグルを攻め、渤海(ぼっかい)国を滅ぼし、927年死亡した。その次男の太宗は中国に侵入して後晋(こうしん)を滅ぼし、947年、国号を大遼国と改めた。

[河内良弘]

『田村実造著『中国征服王朝の研究 上』(1964・東洋史研究会)』『愛宕松男著『契丹古代史の研究』(1959・東洋史研究会)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「契丹」の解説

契丹(きったん)
Qidan

キタイ(Kitai)ともいう。王朝の母体民族。5世紀にはモンゴル高原東部,遼河上流のシラムレン川とラオハムレン川流域の遊牧狩猟民族として知られた。モンゴル草原と遼河下流の農耕地域との中間地点にあって,モンゴルとトゥングース両者の要素を持つといわれ,白馬・青牛の始祖説話を持つ。8世紀には東ウイグル可汗国と唐に服していたが,10世紀初め唐の滅亡と同時に耶律阿保機(やりつあぼき)が8部族の長となり,916年には天可汗(てんかがん)を称して契丹国と名乗った。女真(じょしん)室韋(しつい)などを併せて満洲地域,モンゴル高原,遼河下流域に拡大し,シラムレン最上流の草原に中国風の都城,上京臨潢府(じょうけいりんこうふ)を建設して首都とした。キタイの名は中国の代名詞としてヨーロッパまで伝わった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「契丹」の意味・わかりやすい解説

契丹
きったん
Qi-dan; Ch`itan

キタイ。中国北東部,大興安嶺山脈南部のシラ・ムレン川流域を本拠としたモンゴル系遊牧種族および国家の名称。東胡の後身。 (けい) と関係深く,4世紀末,北魏以来動静が知られだした。初め周辺強国に隷属,数部に分れ,そのなかから族長を互選。唐末 10世紀初め,周辺強国が衰亡し,迭剌 (てつら) 部に耶律阿保機 (やりつあぼき) が現れると,渤海をはじめ満州,モンゴルの諸族を統合し契丹国を建て,華北の一角も占領し中国風に遼国と改称,最初の征服王朝となった。東アジアの一大国として,その名は北中国の称として北方諸族に響いた。さらにモンゴル帝国の発展によってキタイの名はトルコ語,ペルシア語,ロシア語に入り,中国および中国人をさす Cathay以下の語となった。西遼 (カラ・キタイ) は,遼滅亡に際し,皇族の耶律大石 (→徳宗) が中央アジアに逃れて建てた国。

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旺文社世界史事典 三訂版 「契丹」の解説

契丹
きったん
Ch'i-tan

内モンゴルのシラムレン川流域からおこり,遼 (りよう) を建国したモンゴル種族の一分派。北アジアの遊牧民の間ではキタイ(Kitai)またはその複数形のキタン(Kitan)で呼ばれた
10世紀初め耶律阿保機 (やりつあぼき) がこの部族を統一して中国北部を領有,契丹国(のちに遼,916〜1125)を建国した。領土は満州・モンゴル・華北にまたがる。女真族の金に滅ぼされたが,耶律大石 (やりつたいせき) は西走して中央アジアに西遼(黒契丹・カラ−キタイ,1132〜1211)を建てた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「契丹」の解説

契丹
きったん

10世紀初めに遼を建てたモンゴル系民族。8世紀前半のオルホン碑文にはキタイKitai,8世紀中頃のウイグル碑文では複数形のキタンKitanの名でみえる。4世紀以来,東モンゴルのシラ・ムレン川の流域で遊牧し,突厥(とっけつ)・ウイグル・高句麗・中国に隷属していたが,10世紀初めに隣接諸部族を征服し,中国北辺を領有して大契丹国を建て,のち遼と改めて2世紀にわたって君臨した。

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改訂新版 世界大百科事典 「契丹」の意味・わかりやすい解説

契丹 (きったん)
Qì dān

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世界大百科事典(旧版)内の契丹の言及

【モンゴル族】より

…モンゴルの名は,唐の歴史を記した《旧唐書(くとうじよ)》《新唐書》に見える蒙兀(もうごつ)というのが初出であるとされる。しかしモンゴル族としてはっきりしているのは契丹(きつたん)である。契丹はすでに4世紀にモンゴリア東部,興安嶺東麓で活躍していたことが中国の歴史書に見える。…

【遼】より

…契丹(きつたん)(キタイ)族の耶律阿保機(やりつあぼき)が東モンゴリアに建国し,モンゴリアおよび中国東北部と華北の一部を支配した国家または王朝。916‐1125年。…

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