改訂新版 世界大百科事典 「クルジュ」の意味・わかりやすい解説
クルジュ
Cluj
ルーマニアのトランシルバニア地方の中心的都市で,同名県の県都。人口31万1528(2005)。現在の正式名称はクルジュ・ナポカCluj-Napoca。ハンガリー名はコロジュバールKolozsvár,ドイツ名はクラウゼンブルクKlausenburg。ソメシュ川の流域に位置し,西方にはアプセニ山脈をひかえ,東方はトランシルバニア台地に通じ,古来軍事・交通の要衝であった。市の中央の自由広場には,大貴族に対抗して同市の自治を認めたハンガリー王マーチャーシュ1世の銅像がたち,その後方には完成までに1世紀半(1350-1487)を要したゴシック様式の聖ミハーイ・カトリック教会がそびえている。中心部には行政・学術機関が多く,ルーマニア語とハンガリー語の両講座をもつバベシュ・ボーヤイ大学や,第2次大戦前からの日本庭園をもつ植物園などがあり,落ち着いた雰囲気をもつが,周辺部には皮革・製靴,製薬,工作機械等の工場があってトランシルバニア産業の一中心地でもある。歴史的にはプトレマイオスの地理書に初めてナポカの名で現れ,ローマのダキア支配期にも同名で呼ばれた。11世紀にマジャール人が征服して県制度をしき始めるが,クルジュ(都市名)の名が初めてみられるのは1213年のラテン語文書にある〈クルスの城砦Castrum Clus〉である。13世紀の50年代にはモンゴル軍による破壊を被ったが,15~16世紀に繁栄期を迎え,ベネチア,ウィーン,ボヘミア,ポーランドなどとの交易も盛んで,16世紀末に人口は8000~8500といわれた。商工業ギルドも発達し,ハンガリー人とザクセン人と呼ばれたドイツ人移民からなる都市貴族層が形成されたが,城外地には下層のハンガリー人,ザクセン人,ルーマニア人が居住していた。16世紀中葉からオスマン帝国がトランシルバニアの宗主国となったが,シビウなど南部の諸都市ほどトルコ軍の侵攻を招くことはなかった。1699年以後オーストリア領となり,トランシルバニア公国の主都にもなって政治的重要性を増した。18世紀後半からルーマニア人の市内居住者も増え,民族主義の台頭とともに民族的軋轢(あつれき)も激しくなった。第1次大戦後ルーマニア領になったが,第2次大戦の際,一時期(1940-44)ハンガリー領であった。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報