ルーマニアのトランシルバニア南部の都市。同名県の県都。ドイツ語ではヘルマンシュタットHermannstadt,ハンガリー語ではナジセベンNagyszeben。人口は郊外地を除き,15万4543(2005)。現在は住民の大多数はルーマニア人で,ドイツ人(ザクセン人とよばれた),ハンガリー人等がこれに次いでいる。南方にカルパチ山脈に属するロトゥル,ファガラシュの山脈がそびえ(最高はモルドベアヌル山,2544m),市はその山麓に連なる丘陵地帯に位置し,オルト川の支流チビン川に沿っている。平野と丘陵の交錯するトランシルバニアの南縁に位置し,山地に近いためルーマニアの中では気温が低く,月平均の最高は19.5℃,最低は-3.8℃。西と北と東の三方は開け,中・東欧の諸都市への交通が容易であり,かつオルト川沿いにカルパチ山脈を横切り,ワラキアを経て黒海地方へ達することもできるので,古くから交通の要地,東西貿易の中継地として栄えた。第2次世界大戦後,社会主義政権の下で工業化政策が強調され,現在は工作機械,繊維・織物,木材加工,食料品(ルーマニアではとくにシビウのサラミが有名)などの工業がさかんだが,歴史的な観光都市としても知られている。
この地方はキビニウムCibiniumとよばれ,4世紀には原ルーマニア人が居住していたとされているが,シビウの基礎をきずいたのはハンガリー王の要請によって移住してきたドイツ人(ザクセン人)で,彼らはここを植民の組織者にちなみヘルマンの町とよんだ。ザクセン人のトランシルバニアへの移住は12世紀に始まるが,最初に植民したのがシビウ地方で,12世紀末には司教座も置かれ,ここから西,北,東方へ植民がひろがっていった。モンゴル人による破壊(1241)のあと再建され,ドイツ都市法に基づいて市議会や市長の制度が確立し,ギルド制度も発達した。植民市としての最盛期は15世紀前後で,当時の城壁跡や各ギルドの塔,市議会の塔,小市場の店舗や石畳の狭い階段道などが今でも昔の面影を伝えている。モハーチの戦(1526)の後,東南ヨーロッパへのオスマン帝国の支配が強まると,東西貿易の中継者たるザクセン商人の地位も弱まった。シビウはワラキア,バルカン半島との商業的結びつきを強め,市民の中にバルカン商人の数がふえ,やがて19世紀にはルーマニア人が多数を占めるようになった。18世紀から始まるオーストリア支配は,トランシルバニアの民族問題を激化させ,とくに1848年革命以後はシビウがトランシルバニアのルーマニア人の民族運動の中心となった。第1次世界大戦後,オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊によってルーマニアに併合されたが,1940-44年にハンガリーのホルティ政権がトランシルバニア北部を領有した時期に,クルジュにあったルーマニア人の行政機関と大学がシビウに移転したことがある。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ルーマニア中央部、シビウ県の県都。ドイツ名ヘルマンシュタットHermannstadt。トランシルバニア地方の南端にあり、オルト渓谷の北に位置する。人口15万5045(2002)。機械、金属、繊維、皮革、食品の各工業が発達している。紀元前にローマの植民地として要塞(ようさい)が築かれた。12世紀のドイツ人の植民により、交易、政治、文化の中心地として発展した。1989年のチャウシェスク社会主義政権崩壊後、ドイツ人は減少し、ルーマニア人が多数を占めるようになった。グリビツァ要塞塔、ブルケンタール博物館、国立劇場などがあり、中世のおもかげを残す文化都市である。
[佐々田誠之助]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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