地中海東部、エーゲ海の南部に横たわるギリシア領最大の島。長さ254キロメートル、幅10~56キロメートル、面積8263平方キロメートル。クレタCretaは古称で、現代ギリシア語はクリティ、別称カンディアCandia。行政上はカニア、レティムノン、イラクリオン、ラシティオンの4県からなる。周辺の島々を含む4県の人口合計は60万1159(2001)。中心都市はイラクリオン。ほかにカニア、レティムノンなどの都市がある。島の3分の2は不毛な岩場で、入り組んだ海岸線に険しい山が切り立ち、北側には天然の良港スーダ湾をはじめ、いくつかの湾がある。石灰岩質の山系が東西に並び、東からディクティ山(2148メートル)、イダ山(2456メートル)、レフカ山(2452メートル)などがそびえる。気候はきわめて温暖で、比較的乾燥しており、とくに高原地域は保養地として最適である。平均気温は1月12.2℃、8月26.3℃、年19℃。降雨は冬季に限られ、年降水量500~620ミリメートルである。最大の平地は中央南部のメサラ平野で、島の穀倉地帯となっている。土地はさほど肥沃(ひよく)ではないが、オリーブ、オリーブ油、ぶどう酒、干しぶどう、柑橘(かんきつ)類、バナナ、アーモンドなどのナッツ類、および多くの畜産物を産する。工業は未発達で、イラクリオンのシトロン酒製造など食品加工業が中心である。商業活動は北部の港での輸出入に限られる。
1970年代以降は観光業が著しく発展している。クレタ島は古代ギリシア文明の先駆けをなしたエーゲ文明が繁栄し、また、クノッソス宮殿をはじめとする遺跡が豊富にある。これらが島を訪れる観光客の対象となっている。カンディアという名称はイスラム教徒の占領(823)以来のもので、イラクリオン市の旧称として用いられ、その名称が島全体をさすようになった。
[真下とも子]
人間生活の最初の痕跡(こんせき)は紀元前六千年紀の新石器時代にさかのぼるが、初期青銅器時代(前3000~前2000ころ)に移って、穀物栽培の定着とオリーブを主とする果樹栽培の開始によって社会発展の契機がもたらされた。メサラ平野に広範に分布するトロス墓群や、東クレタのモクロス島墳墓群の豊かな副葬品、そしてバシリキ、ミルトスの集落遺跡にその繁栄と氏族的共同生活の一端がうかがわれる。キクラデス文化圏からの影響は全島に及んでいるが、アヤ・フォティアとフルニ(アルハネス)の墳墓群にとくにそれが顕著である。前代の発展を基礎に中期青銅器時代(前2000~前1600ころ)の初期から宮殿時代を迎えた。クノッソス、ファイストス、マリア、そして東端のカト・ザクロスにも壮大な宮殿が建立され、後期青銅期時代(前1600~前1100ころ)の初期には地方的拠点も営まれて繁栄の絶頂にあったが、前15世紀なかばに、クノッソス宮殿を唯一の例外として、すべての文化的拠点が炎上倒壊した。一部にはこの破壊をティラ(サントリン)島の火山噴火に伴う自然災害によって説明しようとする人もいるが、前16世紀からすでにエーゲ海に進出しつつあったギリシア本土のミケーネ人一派がクレタ社会に浸透し、前15世紀なかばにクノッソス王権を簒奪(さんだつ)して自らの王朝を樹立したことに伴う政治的、社会的変動と関連するできごととみることもできる。クノッソス宮殿は前14世紀初めに焼失放棄されるが、そこに大量出土した線文字B粘土板文書は、同宮殿の最終王朝がギリシア語を公用語とする勢力であったことを証明している。線文字Aは未解読なので、本来的なクレタ先史文明の担い手の人種的帰属は不明のままである。
歴史時代にはクレタ島はドーリス系ギリシア人が支配的住民となり、多数の小ポリスが併存した。共同食事、隷農制などスパルタに類似した社会体制にたって、コスモイを高官とする貴族政が広く行われた。古典期にはギリシア国際政治のらち外にとどまった。前67年ローマに征服され、のちビザンティン帝国に属したが、823年から961年の間はイスラム教徒の占領下にあった。13世紀初め、第4回十字軍の直後にジェノバ人の占領を経てベネチア人の掌中に移り、4世紀半に及ぶ長期の支配が続いたが、17世紀なかばからオスマン・トルコ帝国の侵攻が始まり、1669年首都カンディアが陥落してトルコの支配が確立した。ギリシア独立戦争(1821~29)当時からクレタ住民の蜂起(ほうき)が相次いだが、19世紀なかばからはギリシア帰属を求める民族主義的な反乱に発展して、列強の介入を招いた。トルコ当局の譲歩によってギリシア正教徒住民の自治権が伸張し、1913年のロンドン条約でギリシア帰属が実現された。第二次世界大戦中はドイツ軍の占領を受けたが、1945年解放された。
[馬場恵二]
ギリシア領エーゲ海最大の島。古典つづりではKrētē,現地音ではクリーティKríti。面積8263km2,人口60万1131(2001)。エーゲ海南端にあって東西に細長く延び(約260km),海岸線の長さは1000km以上に達する。行政上はイラクリオン県,ラシティ県,レティムノン県,カニア県の4県に区分されている。おもな山系は西方からレフカ・オリ(〈白山〉の意),イディ,ラシティと連なり,平野は中部南岸のメサラ平野が同島最大の沃野である。詩人ホメロスによって,90の町のある豊かな土地と歌われたように農産に富むが,一方で森林荒廃も著しい。
古代以来ミノス王の豊かな伝説に包まれていたクレタ島は,1900年以降,欧米諸国の考古学者の発掘活動によって先史の姿を現し始めた。クレタ島の最初の文化は新石器時代に始まり,前3000年ごろ青銅器文化に移行する。イギリスの考古学者A.J.エバンズは,このクレタ島青銅器文化を伝説の王ミノスにちなんで〈ミノス文明〉と命名した。ミノス文明は前2千年紀には華々しい宮殿文化を開花させ,クノッソス,ファイストス,マリア,そして同島東端のザクロス(カト・ザクロス)に壮大な宮殿が営まれ,第2宮殿時代の前16世紀には島内各所に地方的な館が建設された。しかし繁栄の絶頂にあった前15世紀の半ば,ミノス文明の諸拠点はクノッソス宮殿を唯一の例外として破壊を受け灰燼に帰してしまった。この原因をサントリニ(テラ)島の火山噴火に求める自然災害説も唱えられているが,ギリシア本土のミュケナイ・アカイア勢力(ミュケナイ文明の担い手)の軍事的進出によるクノッソス王権奪(さんだつ)と島内統一支配の形成という歴史的過程と関連づけるほうが説得的であるようである。ミュケナイ・アカイア王朝の拠点として存続したクノッソス宮殿も前14世紀初めに炎上崩壊して放棄された。その残存勢力は同島西部のカニアに移った可能性はあるが,クレタ島の繁栄は失われた。
歴史時代のクレタ島は,ポリス社会形成に先鞭をつけた実績もあるが,歴史の主役を演ずるにはいたらず,対外関係を避け貴族社会の体制を維持した。ヘレニズム時代には海賊の根拠地として名を馳せた。前67年ローマ軍によって征服され,属州のキレナイカに編入された。帝政初期のクレタ島の主都はゴルテュンで,ディオクレティアヌス帝のときクレタは単独の属州となった。ビザンティン帝国時代には西方からのイスラム勢力によって一時占領され(827ころ-961),第4回十字軍以後ベネチア人(1210-1669),ついでオスマン帝国の支配下に置かれた。1821年のギリシア本土における独立戦争に呼応した動きは制圧されたが,62年のイオニア7島のギリシア合併はクレタ島のギリシア系住民を刺激して反乱が相次いだ。97年1月には全島に及ぶ反乱蜂起が生じ,トルコ側も譲歩を余儀なくされた。ギリシアへの完全復帰は1913年にようやく実現した。第2次世界大戦中はドイツ軍に対する激しい抵抗が組織された。
→ミノス文明
執筆者:馬場 恵二
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アジア,アフリカ,ヨーロッパの十字路に位置するギリシア領最大の島。前2000年頃ミノア文明(クレタ文明)が栄えた。その後,前66年にローマ領となった。3世紀以降ゴート,ヴァンダル,スラヴ人が侵略し,9世紀以降ビザンツ帝国とイスラーム勢力がその支配をめぐって抗争を繰り返した。1204年のヴェネツィア統治の開始から1669年のオスマン領併合までの間,農産物輸出とレヴァント貿易で繁栄した。16~17世紀にはカトリックと正教文化が融合したクレタ・ルネサンスが花開いた。オスマン帝国下ではカンディア(現イラクリオン)を州都とする一州を形成した。1830年にギリシア王国が成立すると,正教徒住民は王国への統合を求めて幾度も蜂起した。西欧列強の介入とバルカン戦争をへた1913年ギリシア領となった。
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…エーゲ海周辺地帯を主域として栄えた青銅器文明。キクラデス諸島,ギリシア本土の東部と南部,小アジアの西海岸からクレタ島やキプロス島をふくみ,前3000年(ないし前2800年)ころから前1200年ころにわたる。この文明は単一ではなく,また中心も範囲も変動するいくつかの文明からなるが,共通性をもつためエーゲ文明と一括される。…
…その担い手がどこから来たのかはわからないが,前2千年紀の初めごろに古い文化を破壊しつつここに北方から来住したのは,インド・ヨーロッパ語族に属するギリシアの一派(イオニア人,アイオリス人などの東ギリシア方言群の祖先)の言語を話す人々であったと推定される。彼らはしだいに海上に進出してエジプトやメソポタミアの文明,ことにミノス(クレタ)文明を採用して前1600年ころには高度な青銅器文明をつくりあげた。これがミュケナイ文明で,これをつくりだしたギリシア人の支配層は,壮大な城砦と巨大な穹窿墓(トロス)を築き,戦車を駆る貴族層で,その中から卓越した王が,ミュケナイ,ティリュンス,ピュロス,オルコメノス,アテナイなどの城砦の中に華麗な壁画をもつ王宮を営んでいた。…
…オスマン帝国からの独立(1830)後,旧ビザンティン帝国の失地回復をめざすギリシアと,国土防衛を図るトルコとの間の2度の戦争。(1)1860年代以来,ギリシア本土への併合をめざすクレタ島のギリシア系住民のたび重なる反乱を利用したギリシアが,1897年2月,クレタ島へ軍隊を派遣。同年4月オスマン帝国がギリシアに宣戦してギリシア軍を破ると,イギリス,フランス,ドイツ,ロシア,オーストリア,イタリアの6ヵ国の仲介により,5月に休戦が成立した。…
※「クレタ島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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