エーゲ文明(読み)えーげぶんめい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エーゲ文明」の意味・わかりやすい解説

エーゲ文明
えーげぶんめい

地中海東部のエーゲ海周辺地域に栄えた古代文明。この地域はいわゆる地中海型の温暖な気候で、空気が澄み、島影を見失わずに安全に航海することができたから、先進のオリエント文化圏と海上交通で結ばれ、ヨーロッパの他の地域よりはるかに早く高度の文化が開けた。その地理的位置がアジアとヨーロッパの接点で文化伝播(でんぱ)の橋の役割を果たしたように、エーゲ文明は歴史的にも性格的にもオリエントとヨーロッパ文明の中間に位置している。

 エーゲ海周辺地域には紀元前3000年ごろの新石器時代末から非アーリア系の小アジア人が定住し始め、前2600年ごろから、クレタ島キクラデス諸島ミケーネをはじめとするギリシア本土南部、小アジアのトロヤなどに初期青銅器文化が興った。とくにキクラデス諸島は海上交通の中継地として繁栄し、「フライパン」とよばれる渦文装飾の土器や大理石の偶像がつくられたが、その単純な抽象的形態は現代彫刻に通じる新鮮さがある。金属の使用は前3000年ごろすでにみられ、エレクトラム(金と銀の合金)や金、銅や青銅などによる小像や装身具がつくられた。また、切り石や焼成れんがによる堅固な建物がつくられ、しばしば浮彫りや壁画で飾られた。ついで中期青銅器時代に入ると、クレタやミケーネの芸術活動も飛躍的に発展したが、前1200年ごろ、北方からのドーリア人の南下によって滅んだ。

 エーゲ文明の存在は19世紀中ごろまでまったく知られていなかったが、19世紀末から20世紀初頭にかけてシュリーマンによるトロヤ、ミケーネの発掘、エバンズによるクレタ島クノッソスの発掘をはじめ各地の発掘が相次ぎ、その様相がしだいに明らかになってきた。近年では、1967年に始まるマリナトスによるサントリーニ(古代名テラ)島の発掘によって、多くの壁画が出土したことが注目される。今日でもギリシアをはじめイギリス、フランス、イタリアなどの考古学者によって発掘・研究が続けられている。

 エーゲ文明はクレタ島に代表される南方系の文化と、ミケーネに代表される北方系の文化に大別される。

[友部 直]

クレタ島

クレタ島はエーゲ海の南端にある大きな島で、早くからオリエント諸地域やエジプトと交流があった。住民は地中海人種とよばれる種族に小アジア人が混血したものと考えられる。新石器時代に島の東部から開け、政治、軍事、芸術は急速に進歩し、東地中海の交易権を独占するようになった。前2000年ごろ1人の王による全島の支配が確立された。クノッソスをはじめマリア、フェストス、ザクロなどに大宮殿が造営され、陶器、金属器の製作が盛んになり、小さな彫刻や絵画が発達した。この伝説的な王の名「ミノス」にちなんで、「ミノス文明」ともよばれる。前1700年ごろ、おそらく火山活動に伴う降灰と大地震と思われる災害によって各地の宮殿は倒壊したが、まもなく、より大規模な新宮殿が再建された。この後のほぼ2世紀がクレタ文明の絶頂期である。とくに首都クノッソスは、エバンズの推定によれば人口8万を数え、政治、経済の中心として繁栄した。1900年に始まったクノッソスの発掘は、ホメロスが『オデュッセイア』のなかで「大いなる街クノッソス。ミノス王が9年の間統治した」というクレタの繁栄を実証することになった。その宮殿はなだらかな丘の上に展開し、長方形の中庭をもち、それを囲んで祭儀や公務のための室、王族の私室、工房、倉庫が配置され、採光や排水にも留意されていた。狭い通路は何度か直角に曲がって入口に達するようになっている。このような複雑なプランをもつことから、クノッソス宮殿は「迷宮」(ラビリントス)とよばれることになったのであろう。他の地域の宮殿も大小の差はあるが、プラン、様式ともクノッソスと共通した性格が認められる。クノッソス宮殿のおもな室は色彩鮮やかな壁画で飾られ、古代の絵画史のなかで特異な作品として注目される。おもなものに「牛跳び」「ユリの冠の若者」、「パリジェンヌ」とよばれる若い女性像の壁画断片がある。クレタ美術の特色は、エジプトやギリシアのように巨大な彫刻を残さなかったことであり、彼らは日常的で小さく親しみあるものに興味をもった。牛の頭部をかたどったリュトンとよばれる角状杯、象牙(ぞうげ)の蛇女神像、焼成の際の斑紋(はんもん)を生かしたバシリキ陶器、カマレス式とよばれる嘴(くちばし)状の注ぎ口をもつ黒地の陶器には、人物、草木、渦巻のほか、魚や貝、タコなど海洋民族らしいモチーフが描かれている。ぶどう酒やオリーブ油を貯蔵するピトスとよばれる大甕(おおがめ)もつくられた。装身具では黄金のハチのペンダントや指輪がある。

 当時の宗教および言語についてはまだ不明な点が多いが、エーゲ文明がある種の文字をもっていたことはエバンズが指摘しており、象形文字A、同B、線文字A、同Bに分類した。1952年イギリスのマイケル・ベントリスが線文字Bの解読に成功し、それによって、当時の行政組織や社会状態をある程度まで推測できるようになった。それによると、麻織物やぶどう酒が輸出され、鎧(よろい)や一輪車の需要も大きかった。青銅品をつくる錫(すず)や染物の媒染剤のミョウバンが輸入されている。こうして推定される生活文化は、ほぼホメロスの描く世界に近い。クレタは前1400年ごろギリシア本土からの侵入によって滅び、クノッソスはじめ各地の宮殿は破壊され住民は四散して、エーゲ文明の中心はミケーネに移った。

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サントリーニ島

クレタ文明と同時期に、キクラデス諸島の最南端の小さな火山島、サントリーニ島にも青銅器時代後期の文化が栄えた。かつてこの島には大きな町があったが、前1500年ごろ大噴火によって島の大半が吹き飛んだ。噴火口にあたる部分は湾になり、それを囲む外輪山が現在の陸地になっている。ギリシアの考古学者マリナトスは、サントリーニ島の火山爆発が想像を絶する規模の地震と津波をおこし、それがクレタ島にも被害をもたらし、クレタ文明滅亡の原因となったと推測した。そして、1967年にサントリーニ島の発掘調査を始めた。その結果、島の南端アクロティリから灰にうずもれた大家屋群が発見され、予想をはるかに超える新事実の発見となって人々を驚かせた。これらの家屋の内部はみごとな壁画で飾られ、それらはクレタと同じ手法のフレスコ画であるが、クレタよりも保存状態ははるかによい。モチーフは海上・陸上の風景、花や草、動物、人物などで、「春のフレスコ」と名づけられた壁画は岩山に咲き乱れるユリの花とツバメを描いた叙情的な作品で、サントリーニの人々の自然観を思わせ、「ボクシングの少年」「漁師」「婦人像」などからは当時の風俗を知ることができる。また長さ7メートルに及ぶ「舟行図」では隊列を組んで海上を行く船団と、それを見送る陸上の人物が描かれ、当時の舟の構造や操船法を知るうえで貴重な作品である。壁画以外にも、アクロティリ遺跡から土器、石器、ランプ、青銅器などが出土し、なかにはクレタの製品と思われるものもある。サントリーニ島の発掘調査は続けられているが、いままでのところ人骨や貴金属類が発見されておらず、人々は最終的な大噴火の前に島を避難したものと想像されている。

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ギリシア本土

クレタ文明がクノッソスを中心に高度の青銅器文明を開花させていたころ、ギリシア本土では初期ヘラディック文化があったが、前2000年から前1600年にかけてインド・ヨーロッパ語系の北方民族がバルカン半島を南下し、先住民族を征服して、ペロポネソス半島を中心にギリシア各地に定住した。彼らはアカイア人とよばれ、本土南部の各地に小王国を建設した。ミケーネ、ティリンス、オルコメノス、ピロスなどがそのおもなものである。このうちもっとも強大だったのがアトレウス家のミケーネ王国で、本土の諸勢力の中心的存在となり、先進のクレタ文明に接してこれを受け入れるとともに、ついには武力でクレタを崩壊させ、エーゲ海に君臨した。

 ミケーネ文明は前1600年末から前1400年にかけて絶頂期に達し、その王宮と出土品はミケーネの美術の特質をもっともよく示している。ミケーネの遺跡は、シュリーマンがトロヤに次いで1874年に発掘を始め、76年に有名な獅子門(ししもん)の内側にある二重の石板で囲まれた巨大な円型墳墓から黄金のマスクをつけた男性の遺体や数々の財宝を発見し、これによって「黄金に富めるミケーネ」をよみがえらせた。王宮の遺構は岩山を背に小高い丘アクロポリスの上に築かれ、クレタ宮殿の開放性とは対照的に、王宮というより城塞(じょうさい)としての性格が強いものであった。それは主門としての獅子門にもみることができる。アクロポリスの城外に築かれた壮大な穹窿(きゅうりゅう)墓群もミケーネ美術を特徴づけるもので、もっとも有名な「アトレウスの宝庫」は、直径14.5メートルのドームからなる祭室と奥の遺体安置室で構成され、ミケーネ時代最盛期の建築技術がいかに高い水準をもっていたかを物語っている。

 ミケーネ美術にはクレタ美術の影響が濃厚にみられるが、両者の間には本質的に異なるいくつかの特色もみられる。建築ではクレタの多くの宮殿は比較的平坦(へいたん)な土地に建てられ、華やかな壁画で彩られた開放的な建物で、明るく快適な日常生活を楽しむ傾向が著しいが、ミケーネでは、宮殿は巨大な城壁で囲まれた砦(とりで)であった。宮殿の中庭に面してメガロンという長方形の主室があり、4本の柱が立ち、周囲を厚い壁で囲まれ、中央に炉が仕切られていた。この簡素なメガロン様式は後のギリシアの神殿建築の原型となった。城の正門に置かれた巨大な獅子の浮彫りもクレタにはみられないものである。

 クレタ美術が開放的で自然主義的、女性的、絵画的であるとすれば、ミケーネ美術は閉鎖的で幾何学的、男性的で権威表象性を重視している点に特色がある。陶器の文様に人物を主題としたテーマ、兵士や戦闘場面などが現れてくるのもこの時代に入ってからである。

 前1400年以後、ミケーネ文明はしだいに衰退の兆しをみせ始め、巨大な墳墓の造営はみられなくなる。北方から鉄器をもったドーリア人が南下し、その民族移動の波を受けて、前1100年ごろには、栄華を誇ったミケーネをはじめとする諸市は崩壊し、エーゲ文明は終わりを告げる。アルカイック期が始まる前8世紀ごろまで、ギリシアは暗黒の時代に入るのである。

[友部 直]

『村田数之亮編『世界美術大系4 エーゲ美術』(1962・講談社)』『新規矩男編『大系世界の美術4 古代地中海美術』(1976・学習研究社)』『W・ヴォルス著、友部直訳『オリエント・エーゲ海美術』(1979・グラフィック社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エーゲ文明」の意味・わかりやすい解説

エーゲ文明
エーゲぶんめい
Aegean civilization

前 2500年頃から前 1100年頃までエーゲ海周辺に栄えた青銅器文明の総称。その初期から,(1) クレタ,(2) キクラデス諸島,(3) テッサリアを含むギリシア本土,(4) トロイと小アジア北西部の4つに分けられ,それぞれクレタ文明キクラデス文明ヘラディック文明,トロイ文明として知られる。このエーゲ文明の最初の中心はクレタであり,ここに前3千年紀末から非ギリシア人によって,オリエント文明の影響を受けながらも,独自の洗練された文明が築かれた。これはヨーロッパ地域で最初の高度な文明でもあった。前 2000年頃からギリシア本土の民族が伝統的なヘラディックの文明にクレタの要素を取入れ,前2千年紀中頃にはエーゲ地域全体に,個々の地域の相違はあるとしても,統一的なミケーネ文明が栄えた。その中心がミケーネ,ティリンス,ピュロスなどであり,前 1400年頃からは政治,経済の中心はクレタのクノッソスから本土のミケーネへと移行した。この文明は H.シュリーマン,A.エバンズらの遺跡発掘や M.ベントリスと J.チャドウィックによる線状文字Bの解読により次第に解明された。遺跡としてはクノッソス宮殿,ミケーネ,ティリンスなどの城壁,墳墓などがあり,壁画や陶器も残っている。

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