新撰 芸能人物事典 明治~平成 「グルリットマンフレート」の解説
グルリット マンフレート
Gurlitt Manfred
- 国籍
- ドイツ
- 職業
- 指揮者 作曲家 ピアニスト
- 肩書
- グルリットオペラ協会主宰
- 生年月日
- 1890年 9月6日
- 出生地
- ベルリン
- 経歴
- 教育者、音楽家などを輩出した一族に生まれ、大叔父コルネリウスは作曲家、いとこのヴィリバルトは音楽学者。9歳の時にモーツァルト「魔笛」に感動してオペラの道を志し、明治39年処女歌曲集を発表。エンゲルベルト・フンパーディンクに作曲、モーリッツ・マイア=マールとルドルフ・マリア・ブライトハウプトにピアノを師事。41年ベルリン宮廷歌劇場補助指揮者に就任、ここではカール・ムック、レオ・ブレッヒに学び、リヒャルト・シュトラウスの助手も務めた。44年バイロイト音楽祭にアシスタントとして参加、またエッセン市立歌劇場第2指揮者になった。45年アウグスブルク市立歌劇場正指揮者に就任、この頃から作曲家としても頭角を現し、「ピアノ五重奏曲」が初演される。傍ら、ロッテ・レーマンらのピアノ伴奏者としても活動した。大正3年ブレーメン市立歌劇場正指揮者に移籍、この時代はバロック音楽などを中心に演奏する。6年クラウス・プリングスハイムと出会い、後年日本で再会することとなる。9年フリッツ・エルツェと新音楽協会設立の後はマーラー、シェーンベルク、自作「5つのオーケストラ歌曲」など現代曲を精力的にとりあげるようになった。13年ブレーメン市立歌劇場総音楽監督の称号を授与される。この頃、ゲオルク・ビューヒナー原作のオペラ「ヴォツェック」を作曲、同じ原作のオペラを書いたアルバン・ベルク作品の初演4ヶ月後に初演された。昭和2年ブレーメン市歌劇場を辞任し、ベルリン国立歌劇場指揮者に転じた。8年ナチスによりエミール・ゾラ原作、マックス・ブロート台本のオペラ「ナナ」の初演がマックスがユダヤ人だということで阻止され、以後も“文化的ボルシェヴィスト”と目され、“頽廃音楽”排斥の一環としてその作品の上演は禁じられた。迫害を避けるためナチスに入党するも、父方の祖母がユダヤ人であることが暴かれ12年除籍された。この頃からミュンヘンに移り、各地の歌劇場で客演して糊口をしのぎつつ、ウィーンにいた橋本国彦を通じ東京音楽学校(東京芸術大学)への赴任を計画するがナチスの妨害で失敗、来日は14年当時ベルリン在住の近衛秀麿の依頼に乗じて“宣伝省音楽部員の日本視察”という名目で亡命するのを待たねばならなかった。同年橋本の推薦で中央交響楽団(東京フィルハーモニー交響楽団)の常任指揮者に近衛とともに就任。16年のヴェルディ「アイーダ」全曲日本初演からは藤原義江歌劇団常任指揮者になった。17年楽団を解雇され、その後、ユダヤ系音楽家への圧迫により軽井沢に軟禁された。戦後の21年、アルトゥーロ・トスカニーニ、アルフレート・アインシュタインへの書簡を出し、欧州音楽界復権への活動を開始。27年オペラ歌手の日高久子と3度目の結婚。同年グルリットオペラ協会を設立、28年にはグルリット歌劇団を結成した。同年「ナチスによる損害賠償保証法」が制定され、名誉回復のためドイツ政府当局に賠償請求の申請をするも、32年ナチ党員だったことを理由に却下された。35年代半ばから視力に陰りが差し、演奏活動を停止した。指揮者としてワーグナー「ローエングリン」、バルトーク「バイオリン協奏曲」、チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」、リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」、マスネ「ウェルテル」など多数の日本初演を手がけた功績は大きい。作曲作品に「合唱とオーケストラのための〈3つの政治的演説〉」「ゴヤ交響曲」「シェイクスピア交響曲」「海ゆかば変奏曲」「ピアノ協奏曲1〜3番」「バイオリン協奏曲1・2番」「4つの劇的歌曲」、オペラ「聖なるもの」「北国のバラード」などがある。
- 受賞
- 勲四等瑞宝章(日本政府)〔昭和31年〕 国際モーツァルト協会賞〔昭和34年〕
- 没年月日
- 1972年 4月29日
- 家族
- 妻=日高 久子(オペラ歌手)
- 親族
- 大叔父=コルネリウス・グルリット(作曲家),おじ=コルネリウス・グルリット(美術史家),いとこ=ヴィリバルト・グルリット(音楽学者)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報