コズロフ(読み)こずろふ(その他表記)Пётр Кузьмич Козлов/Pyotr Kuz'mich Kozlov

デジタル大辞泉 「コズロフ」の意味・読み・例文・類語

コズロフ(Pyotr Kuz'mich Kozlov)

[1863~1935]ロシア探検家。中央アジア各地を探検し、西夏遺跡ハラホトなどの古墳・遺跡を発見カズロフ

コズロフ(Kozlov/Козлов)

ロシア連邦の都市ミチューリンスク旧称

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精選版 日本国語大辞典 「コズロフ」の意味・読み・例文・類語

コズロフ

  1. ( Pjotr Kuzmič Kozlov ピョートル=クジミチ━ ) ロシアの軍人、探検家。中央アジア各地の調査に従事。エチナ河畔にある西夏時代の廃都カラ‐ホトの発見、発掘は有名。(一八六三‐一九三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コズロフ」の意味・わかりやすい解説

コズロフ(Pyotr Kuz'mich Kozlov)
こずろふ
Пётр Кузьмич Козлов/Pyotr Kuz'mich Kozlov
(1863―1935)

ロシアの軍人、探検家。カズロフともよばれる。1899~1901年、モンゴルチベット探検隊の長として、アルタイ地方、アラシャン砂漠、ツイダム盆地を経て東部チベットを調査した。1907~1909年には、モンゴル・四川(しせん)探検隊を率いてゴビ・アラシャン砂漠から青海省に入り、ハラ・ホトを発見、発掘(1908~1909)した。ついで1923~1926年には、モンゴルとチベットを探検して、ノイン・ウラウランバートルの北方約100キロメートル)に残る匈奴(きょうど)貴族の墳墓群を発掘し(1923~1924)、またハラ・ホトの再調査(1926)を行った。

[護 雅夫]

『コズロフ著、西義之訳『西域探検紀行全集11 蒙古と青海』(1967・白水社)』


コズロフ(Ivan Ivanovich Kozlov)
こずろふ
Иван Иванович Козлов/Ivan Ivanovich Kozlov
(1779―1840)

ロシアの詩人、翻訳家。零落した名門貴族の家に生まれる。近衛(このえ)連隊に勤務していたが、37歳のとき、病魔に足の自由を奪われた。ついで視力を失い始め、1821年、42歳にして失明した。この不幸がコズロフを社交界の花形から転じて詩人としての才能に目覚めさせるきっかけとなった。出世作は、若い修道僧が非運の身の上を告白する叙事詩『修道僧』(1825)で、作者自身の境遇を作中の主人公に仮託した悲痛な物語は多くの読者を得た。ほかに宗教的な人類愛と悲哀に満ちた叙事詩『ドルゴルーキー公爵夫人』(1828)、『馬鹿(ばか)な女』(1830)のほか、西欧詩人の翻訳も多い。

[島田 陽]

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改訂新版 世界大百科事典 「コズロフ」の意味・わかりやすい解説

コズロフ
Pyotr Kuzymich Kozlov
生没年:1863-1935

ロシアの中央アジア探検家。スモレンスク州に生まれた。1887年陸軍士官学校卒業後,プルジェワリスキー,ロブロフスキーの各探検隊に参加。1899-1901年みずからモンゴル・チベット探検隊を主宰し,その成果を《モンゴリアとカム》8巻(1905-08)として刊行。1907-09年モンゴル・四川探検隊を主宰し,ゴビ砂漠中に西夏時代の廃都カラ・ホトを発見,2000巻に及ぶ西夏語,漢文書籍を収集した。その探検の成果は彼の著《モンゴリアとアムドおよび死の都カラ・ホト》(1923)として発表された。1923-26年最後のモンゴル・チベット探検を行い,その際,外モンゴリアのヘンテイ山中でフン族貴族の墳墓ノイン・ウラを発掘調査した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コズロフ」の意味・わかりやすい解説

コズロフ
Kozlov, Pëtr Kuz'mich

[生]1863.10.3. スモレンスク,ドゥホフシチナ
[没]1935.9.26. レニングラード近郊ペテルゴーフ
ソ連の軍人,探検家。初め N.プルジェワリスキーの中央アジア探検に従う。 1899~1901年にアルタイ山脈,ゴビ砂漠,ツァイダム盆地を経て東部チベットを調査。 07~09年にはゴビ砂漠を踏査し,帰途エチナ河畔で西夏の廃都ハラ・ホト遺跡を発見,発掘して多数の西夏語文書,経典,貨幣などをもたらした。 24~25年には外モンゴルのノイン・ウラで匈奴の有力者の墳墓群を発掘し,匈奴の文化の解明に大きな役割を果した。

コズロフ
Kozlov, Frol Romanovich

[生]1908.8.18. ロシチニノ
[没]1965.1.30. モスクワ
ソ連の政治家。 1936年レニングラード工業専門学校卒業,同年共産党に加入,冶金技師となった。 41年に軍需工場の党書記,次いで党モスクワ市委員会勤務,50年レニングラード市党第一書記に就任。 57年の権力闘争の際に N.フルシチョフを全面的に支持し,同年党中央委員会幹部会員,58年副首相になり,60年からは党中央委員会書記も兼任。 59年アメリカの D.アイゼンハワー大統領と会見。フルシチョフの後継者とみなされていたが,64年 11月病気を理由に辞任。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コズロフ」の解説

コズロフ
Pyotr Kuz'mich Kozlov

1863~1935

ロシアの軍人,探検家。初めプルジェヴァリスキーの中央アジア探検に従う。1899~1902年にはみずからアルタイ,ゴビ沙漠,黄河源流域を,07~09年にはゴビ沙漠を踏査。帰途,エチナ河畔で西夏の廃都カラ・ホトを発見,24年,外モンゴルのノイン・ウラ匈奴(きょうど)の王侯の墳墓を発掘。25年以後,外モンゴルへの探検隊を指揮。

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百科事典マイペディア 「コズロフ」の意味・わかりやすい解説

コズロフ

ロシアの探検家,考古学者。1883年―1885年プルジェワリスキーの探検に同行,以後6度にわたり中央アジア各地を探検。1907年―1909年カラ・ホトで西夏の遺跡を発掘,1924年ノイン・ウラで匈奴(きょうど)の墓を多数発掘した。

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