コズロフ(読み)こずろふ(英語表記)Иван Иванович Козлов/Ivan Ivanovich Kozlov

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コズロフ」の意味・わかりやすい解説

コズロフ(Pyotr Kuz'mich Kozlov)
こずろふ
Пётр Кузьмич Козлов/Pyotr Kuz'mich Kozlov
(1863―1935)

ロシアの軍人、探検家。カズロフともよばれる。1899~1901年、モンゴルチベット探検隊の長として、アルタイ地方、アラシャン砂漠、ツイダム盆地を経て東部チベットを調査した。1907~1909年には、モンゴル・四川(しせん)探検隊を率いてゴビ・アラシャン砂漠から青海省に入り、ハラ・ホトを発見、発掘(1908~1909)した。ついで1923~1926年には、モンゴルとチベットを探検して、ノイン・ウラウランバートルの北方約100キロメートル)に残る匈奴(きょうど)貴族の墳墓群を発掘し(1923~1924)、またハラ・ホトの再調査(1926)を行った。

[護 雅夫]

『コズロフ著、西義之訳『西域探検紀行全集11 蒙古と青海』(1967・白水社)』


コズロフ(Ivan Ivanovich Kozlov)
こずろふ
Иван Иванович Козлов/Ivan Ivanovich Kozlov
(1779―1840)

ロシアの詩人翻訳家。零落した名門貴族の家に生まれる。近衛(このえ)連隊に勤務していたが、37歳のとき、病魔に足の自由を奪われた。ついで視力を失い始め、1821年、42歳にして失明した。この不幸がコズロフ社交界花形から転じて詩人としての才能に目覚めさせるきっかけとなった。出世作は、若い修道僧が非運の身の上を告白する叙事詩『修道僧』(1825)で、作者自身の境遇を作中の主人公に仮託した悲痛な物語は多くの読者を得た。ほかに宗教的な人類愛と悲哀に満ちた叙事詩『ドルゴルーキー公爵夫人』(1828)、『馬鹿(ばか)な女』(1830)のほか、西欧詩人の翻訳も多い。

[島田 陽]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コズロフ」の意味・わかりやすい解説

コズロフ
Kozlov, Pëtr Kuz'mich

[生]1863.10.3. スモレンスク,ドゥホフシチナ
[没]1935.9.26. レニングラード近郊ペテルゴーフ
ソ連の軍人,探検家。初め N.プルジェワリスキーの中央アジア探検に従う。 1899~1901年にアルタイ山脈,ゴビ砂漠,ツァイダム盆地を経て東部チベットを調査。 07~09年にはゴビ砂漠を踏査し,帰途エチナ河畔で西夏の廃都ハラ・ホト遺跡を発見,発掘して多数の西夏語文書,経典,貨幣などをもたらした。 24~25年には外モンゴルのノイン・ウラで匈奴の有力者の墳墓群を発掘し,匈奴の文化の解明に大きな役割を果した。

コズロフ
Kozlov, Frol Romanovich

[生]1908.8.18. ロシチニノ
[没]1965.1.30. モスクワ
ソ連の政治家。 1936年レニングラード工業専門学校卒業,同年共産党に加入,冶金技師となった。 41年に軍需工場の党書記,次いで党モスクワ市委員会勤務,50年レニングラード市党第一書記に就任。 57年の権力闘争の際に N.フルシチョフを全面的に支持し,同年党中央委員会幹部会員,58年副首相になり,60年からは党中央委員会書記も兼任。 59年アメリカの D.アイゼンハワー大統領と会見。フルシチョフの後継者とみなされていたが,64年 11月病気を理由に辞任。

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