改訂新版 世界大百科事典 「コンデ家」の意味・わかりやすい解説
コンデ家 (コンデけ)
16世紀にブルボン家から分かれたフランスの名門貴族。王家につらなる親王家として,3世紀にわたり政界に重きをなした。初代のコンデ親王ルイLouis,Prince de Condéおよび第2代のアンリ1世Henri Ⅰは,16世紀後半宗教戦争の過程で,カトリック勢力を代表するギーズ家に対抗し,新教派の指導者として活躍した。王族であったことから,少数派の新教徒に大義名分を与える象徴的存在としての役割を果たしたともいえる。第3代アンリ2世Henri Ⅱは名付親である国王アンリ4世により,一転してカトリックとして育てられ,以後コンデ家は旧教の陣営に転ずる。アンリ4世の最後の恋の対象となったシャルロット・ド・モンモランシーCharlotte de Montmorencyと結婚後,ブリュッセルに逃れて王の介入を避けた逸話は名高い。その子の第4代ルイ2世Louis Ⅱが,〈大コンデ〉の名で知られる名将だが,フロンドの乱の立役者として王権に刃向かった。この親子2代は,王権による権力の集中が進むなかで,これに対抗して旧来の特権を守ろうとする伝統的大貴族の代表的存在であり,しばしば反王権の陰謀に加担している。第7代のルイ・アンリLouis-Henriは,〈ブルボン公Duc de Bourbon〉の肩書で呼ばれ,ルイ14世の没後,摂政会議総裁(1715),宰相(1723)などの要職に就いた。第8代のルイ・ジョゼフLouis-Josephは,自由主義貴族の一翼を担っていたが,革命勃発とともに亡命し,ウォルムスで反革命の〈コンデ軍〉を組織した。息子のルイ・アンリ・ジョゼフもこれに加わるが,王政復古で帰国し国王ルイ18世を補佐した。1830年七月革命後,謎の縊死をとげ,コンデ家はここに断絶した。コンデ家は1643年以来シャンティイ城を居城としていたが,代々文芸・美術の愛好家として知られ,多くの美術品や稀覯書を収集した。それは今日,〈コンデ美術館Le Musée Condé〉として,フランス学士院の手にゆだねられている。
執筆者:二宮 宏之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報