ドイツ西部,ラインラント・ファルツ州の都市。ライン川左岸に位置する。人口7万7000(1991)。染色を含む若干の化学工業,金属加工,家具製造が盛んで,ラインヘッセン・ワインの主産地の一つ。ケルト人,ゲルマン人の居住の後,前50年ころカエサルがこの地を占拠,以後ローマ軍団の駐屯地となる。4世紀以降司教座の所在地(1801まで)。413-436年ブルグント王国の首都,496年以後フランク王国の王領地となり,898年には国王の諸特権が司教に委譲される。市内では代々の司教の助成を得てワイン,穀物,魚の取引が盛んになった。経済的実力を蓄えた市民たちは,1073年には一時司教を追放するほどになり,翌年ザクセン諸侯の反乱鎮圧に協力した功で,ハインリヒ4世から関税免除特権を獲得。1122年にはこの地でウォルムス協約が結ばれた。1254年ライン都市同盟の指導的構成員となる。8世紀末より16世紀半ばまでに皇帝の滞在すること200回を超え,帝国議会の開催も45回にのぼる。有名なのは,帝国改革をめざした1495年のそれと,ルターの信仰告白で知られる1521年の国会(ウォルムス国会)である。市はその後,三十年戦争やファルツ継承戦争の戦禍で荒廃,18世紀に一時回復したが,神聖ローマ帝国の終焉,フランス革命軍による司教区の廃絶という事態のなかで決定的に衰退する。1816年ヘッセン大公国に属し,19世紀中葉には工業化による新たな経済的復興を経験した。第2次大戦の被害も大きかった。ウォルムス大聖堂は,シュパイヤー,マインツの大聖堂とともに,ドイツ後期ロマネスク様式の代表例。東西両端にアプスのある二重内陣式で,6基の塔を頂く。
執筆者:魚住 昌良
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ドイツ西部、ラインラント・プファルツ州の都市。ボルムスともいう。人口8万0400(2000)。ライン川がライン地溝帯の幅広い平野を蛇行する左岸にあり、西側にはブドウ栽培の盛んな丘陵地帯が接している。ローマ時代に起源をもつドイツの古都の一つ。346年に大司教座が置かれ、フランク王朝時代にその帝国直轄都市となり、政治的にも重要な地位を占めた。ここでの帝国議会開催は8~16世紀間に100回以上に及び、神聖ローマ皇帝とローマ教皇との「ウォルムス協約」(1122)や新教のルターを喚問した「ウォルムス国会」(1521)の場となった。中世の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の舞台としても知られる。地域中心都市として官公庁や文化・教育施設が集中するほか、市域の北部やライン川の河港付近には、機械、家具、麦芽製造、ワイン醸造、製粉、鉄鋼、アルミニウムなど各種の工業が立地する。
[朝野洋一]
フランスの哲学者、社会学者。レンヌに生まれる。初期の哲学研究から、法律、文学、経済学などの研究で得た博識をもって社会学の研究に進む。その間カーン大学の法学教授、パリ商業学院の経済学教授を経て、高等研究院(エコール・デ・オート・ゼチュード)の社会学史教授を歴任した。社会学への主要な貢献は編集者、組織者としての役割で、1892年『国際社会学評論』を創刊、翌1893年国際社会学協会を設立し『国際社会学叢書(そうしょ)』を監修した。1895年パリ社会学会を設立。1924年参事院の官職に就任。
彼の社会学は、当初『有機体と社会』(1896)において、当時威信を得つつあった進化論的生物学の影響を受け、社会は生物有機体と同じ一般法則に服すが、社会は生物有機体より高い進化段階にある、より複雑な「超有機体」であるとする社会有機体説を掲げた。有機体説への批判の高まりを意識して、後期の著作では、生物学的要因より心理的要因に力点を移し、初期の、社会と生物有機体との強引なアナロジーを緩和した。
[古賀英三郎]
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