ポルトガルの映画監督。ポルト生まれ。1896年に、アウレリオ・ダ・パス・ドス・レイスAurélio da Paz dos Reis(1862―1931)監督がポルトガルで最初の映画『下着工場コンフィアンスの労働者たちの外出』Saìda do Pessoal Operário da Fabrica Confiançaを撮影した場所である港町ポルトは、オリベイラの多くの映画で舞台となり、この地をめぐる数本のドキュメンタリー映画も彼の手によってつくられている。父親は裕福な織物工場の経営者。地元の高校を卒業後、スペインのガリシア地方ラ・グアルディアでイエズス会系の学校に通う。このころから映画を観ることに熱中しはじめる一方、20代にかけて陸上競技などのスポーツやモーター・レースでも活躍。とりわけ後者では、ポルトガル、スペイン、ブラジルのレースで数々の賞を獲得、レーサーとしての活躍は1940年まで続いた。
映画界入りの足がかりとして、イタリア人の映画監督リノ・ルーポRino Lupo(1888―1936)の開設した俳優養成学校に兄とともに入り、端役(はやく)で映画に出演。モダン都市を描く実験的な映画の代表作であるワルター・ルットマンWalter Ruttmann(1887―1941)監督の『伯林(ベルリン)――大都会交響楽』(1927)に触発されて、ポルトを流れるドーロ川周辺を生きる人々を題材にドキュメンタリー映画を撮る企画を立て、父親の援助やアマチュア写真家だった友人の協力を仰ぎながら、処女作となる短編サイレント映画『ドウロ河』(1931)を2年もの歳月をかけて完成させる。本作は1931年にリスボンで開催された第5回国際批評会議で上映され、とりわけフランスの批評家から高い評価を受けた。本国以上にフランスの批評家や観客から高く評価される構図は、その後も彼の映画に宿命的に付きまとうこととなる。
俳優としてポルトガル初のオール・トーキー映画『リスボンの歌』A Cançāo da Lisboa(1933)に出演するが、むしろスポーツやカー・レースに情熱を注ぐ日々が続き、ようやく1941年になって、やはりドーロ川を舞台に子どもたちの生活を生き生きと描く初の長編劇映画『アニキ・ボボ』(1942)を撮る機会に恵まれる。同作は、第二次世界大戦後のイタリアに出現したネオレアリズモの先駆けとしてのちに評価されたものの、興行的には失敗。オリベイラはふたたび映画界から遠ざからざるをえなくなり、その後、14年にわたってドーロ川流域でのポート・ワイン製造業(彼の妻は葡萄園主の娘だった)や父親の工場の経営に従事した。
それでも映画への情熱を捨てないオリベイラは、カラー・フィルムによる先端的な撮影技術や機材を駆使し、画家である兄が描いたポルトの町と、実際の町の映像を重ね合わせた大胆な短編ドキュメンタリー映画『画家と町』(1956)を発表。その年のベネチア国際映画祭で評価される。1963年、国営映画援助資金の援助を受けて、約20年ぶりとなる長編第二作『春の劇』を製作。当初は、スペイン国境近くの山岳地帯の村で毎年演じられるキリスト受難劇を題材としたドキュメンタリーとして構想されたが、フィクションとして再構成することで、フィクションとドキュメンタリーの狭間にあるきわめて現代的なスタイルの映画となり、オリベイラのフィルモグラフィー中、転換点となる作品となった。『春の劇』上映後の討論会の席でオリベイラは、「ポルトガルには検閲が存在する」と発言(実際、1933年からの長期独裁政権下の情報局の事前検閲によって、オリベイラらの企画の多くが葬り去られていた)、政府反逆罪の容疑でリスボンの刑務所へ送られる。家族や映画関係者の尽力で拘束は長びかなかったが、ふたたび長編映画を撮る機会が奪われる結果となった。しかし、時代の波は着実に変化しつつあり、フランスのヌーベル・バーグなど世界的な映画革新運動に呼応する「ポルトガル・シネマ・ヌーボ」の動きを形成する映画作家たちがポルトガル映画界において長らく不遇の時を過ごすオリベイラを精神的な父と仰ぐ一方、彼らの手で国家の補助金なしに映画製作を行うための組織、ポルトガル映画センター(CPC)が立ち上げられ、国家に依存した既成の映画作りから離脱する可能性も開かれた。オリベイラの長編第三作『過去と現在』(1971)は、このプロジェクトが生み出した最初の作品である。1974年のいわゆる「カーネーション革命」(独裁政権に対し、若手将校が起こした軍事クーデター。無血のうちに成功し、銃にカーネーションが飾られたことからこうよばれた)で、ポルトガルの民主化が進み、映画からも検閲が消えるが、オリベイラの作風自体は、革命以後もそれ以前と変わりなく独自のスタイルが貫かれた。
1970年代なかば以降、おもにフランスでオリベイラへの評価が高まるなか、以後オリベイラ作品のほぼすべてを製作することになるポルトガル人プロデューサー、パウロ・ブランコPaulo Branco(1950― )とパリで出会い、年齢にして70代を迎えた映画作家にとって実り豊かな時代が幕を開ける。
ポルトガルの現代作家アグスティーナ・ベッサ・ルイースAgustina Bessa-Luis(1922―2019)の小説の映画化である『フランシスカ』(1981)を皮切りに、ポール・クローデルの戯曲に基づく7時間に及ぶ大作で、ベネチア国際映画祭の審査員特別金獅子生涯功労賞に輝いた『繻子(しゅす)の靴』(1985)、ポルトガル史を題材に戦争の愚かしさを描き、カンヌ国際映画祭で国際批評家特別賞を受けた『ノン、あるいは支配の虚しい栄光』(1990)、ベッサ・ルイースの協力による『ボバリー夫人』の大胆な翻案『アブラハム渓谷』(1993)など、コンスタントに密度の濃い作品を生み出した。さらに『メフィストの誘い』(1995)、『世界の始まりへの旅』(1997)、『家路』(2001)などでは、高まる世界的な名声のなかで欧米の豪華スターたちの共演を実現させ、『永遠(とわ)の語らい』(2003)では、やはり国際的な名優たちの共演を通し、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロとそれ以降の世界に対して、壮大な西洋文明論を背景に批判的な言及を展開し、衰えることのない批判精神と挑発的な映画作りへの情熱を世界の観客に見せつけた。
[北小路隆志]
ドウロ河 Douro, Faina Fluvial(1931)
アニキ・ボボ Aniki Bóbó(1942)
画家と町 O Pintor e a Cidade(1956)
春の劇 O Acto da Primavera(1963)
過去と現在 昔の恋、今の恋 O Passado e o Presente(1971)
フランシスカ Francisca(1981)
繻子の靴 Le soulier de satin(1985)
カニバイシュ Os Canibais(1988)
ノン、あるいは支配の空しい栄光 'Non', ou A Vã Glória de Mandar(1990)
神曲 A Divina Comédia(1991)
アブラハム渓谷 Vale Abraão(1993)
階段通りの人々 A Caixa(1994)
メフィストの誘い O Convento(1995)
世界の始まりへの旅 Viagem ao Princípio do Mundo(1997)
不安 Inquietude(1998)
クレーヴの奥方 La lettre(1999)
わが幼少時代のポルト Porto da Minha Infância(2001)
家路 Je rentre à la maison(2001)
家宝 O Princípio da Incerteza(2002)
永遠の語らい Um Filme Falado(2003)
夜顔 Belle toujours(2006)
コロンブス 永遠の海 Cristóvão Colombo - O Enigma(2007)
それぞれのシネマ~「唯一の出会い」 Chacun son cinéma - Rencontre Unique(2007)
ブロンド少女は過激に美しく Singularidades de uma Rapariga Loura(2009)
『遠山純生編『マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』(2003・エスクァイア マガジン ジャパン)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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