1936年7月17日夕方,スペイン領モロッコで勃発し,スペイン全土に拡大して,39年4月1日に終結した内乱,内戦。この結果,スペイン第二共和政は崩壌した。
スペイン内乱は世界の耳目を集め,その解釈・論評の内容は非常に多岐にわたった。多様な見解が生じた第1の理由としては,内乱がスペインの歴史全体,とりわけ17世紀後半以降の歴史の中でとらえられていないことがあげられる。第2に,イデオロギーにとらわれた一方的あるいはかたよりのある狭い視野で内乱が語られたためである。第3は,文化的なプリズムから眺めたあいまいな内乱像が先行して,社会科学の厳密な考証をゆがめてしまったことに求められる。そこで,これまでに指摘された内乱像をまとめると次のようになろう。
まず,内乱の国際的側面については以下の見解がある。(1)内乱は世界的な反響と関心を呼んだ戦いであり,単なる一国内の内乱として片付けるのは適切ではない。(2)第2次大戦の序曲であり,その実験の場でもあった。(3)スペインの進路は,宿命的にヨーロッパの掌中に握られていた。(4)内乱像は,外国の諸新聞や世界的に著名な作家(ヘミングウェー,マルローら)の手によって固定化した。これらは一様にスペイン文化を評価し,さらに共和国陣営からの見聞であった。詩人ガルシア・ロルカの暗殺に関するセンセーショナルな話題の流布,ピカソの《ゲルニカ》をめぐる神話の創造などもこれにあたる。(5)諸外国の援助が戦いを長期化させた。(6)コミンテルンの支援を得て,1932年以降大衆に広まった共産主義に対抗して蜂起した国民戦線側は,内乱を〈自由への戦い〉と意義づけた。
続いて,内乱の国内面では次の五つの見解があげられる。(1)内乱は19世紀後半以降,とくに1930年代前半の政治・社会構造と社会緊張に起因し,それらに諸外国のさまざまな要因が影響を及ぼした。(2)内乱はスペイン人特有の気質の結果である。すなわち,事態を客観的にとらえることができないゆえに,国民の平和的な共存の道を見いだすのに失敗した。同様に,自己中心の気質のために,左右両陣営ともに敵の挑発を受けたとき,制御がきかず,対立は激化していった。(3)通称〈悲劇の春〉と呼ばれる総選挙(1936年2月)以降の時期に,政治権力および政府機関の機能が弱体化して,国家の危機を招いた。とりわけ1936年3月14日から7月13日までの街頭におけるテロ活動は,激しさをきわめた。(4)国家の救済を旨とする軍部の伝統的な考え方と,ブルジョア中産階級の正義感の欠如が内戦の要因となった。(5)政治・行政・経済組織の構造が安定していないために,労働者・農民の不満を吸収して解決できず,彼らの忍耐の限界を越えてしまった。
内乱はまた,次のようなイデオロギー論争の側面があった。(1)世界観ならびにスペインの統一問題について,それぞれ二つの主要な思潮が対立した。まず世界観については,キリスト教ヒューマニズムとソ連の影響下に浸透した共産主義との対立である。スペインの統一に関しては,画一的かつ中央集権的な統一か,それともカタルニャ地方やバスク地方などの各地方の多様性を生かした統一を達成するかの対立である。そして,これらの思潮が複雑にからみ合い,過度に高揚した結果,右派は宗教的・愛国的祈りに宿るべき,敵を許す戒めを忘れ去り,左派は精神的・国民的なるものへの道を閉ざしてしまった。(2)1936年7月の軍事蜂起は,宗教への組織的な迫害の報復として,マルクス主義者,ユダヤ人,フリーメーソンなどの反スペインの動きに対抗して行われた。(3)右派にとって内乱は,共産主義に対する十字軍の戦いであり,左派にとっても,ある文献の表題となったように,ファシズムに対する〈大十字軍〉であった。(4)蜂起には軍人すべてが参加したのではない。軍部の中にもイデオロギーの分離が生じており,蜂起を単純に軍部の統一行動として理解できない。同様に,内乱を軍部と大衆の戦いとする図式も適切ではない。内乱は単なる社会階級闘争ではなく,両陣営にそれぞれ富者と貧者,さらに軍人,貴族,司祭までもがいたのである。(5)個人レベルの問題では,教会の教えに反する自由恋愛とキリスト教信者としての規律のはざまで苦悩する人々の姿があった。
以上の諸説を念頭において,内乱の経緯をたどると次のようになる。
失敗に帰した1932年8月の軍事クーデタを契機として,その参加者や王党派の軍人が軍部の中に〈スペイン軍人同盟(UME)〉という組織を結成した。この少数軍人の組織は,軍事クーデタを起こす危険性を絶えず内包する存在であった。それゆえに,軍事蜂起の主導権を握る可能性がある有能な軍人を左遷することにより,政府はUMEを牽制し不測の事態に備えていた。例えば,UMEには参加していないが,軍部の中では抜きんでた存在であった将軍フランコはカナリア諸島へ,同様にモロッコの駐屯部隊に属し,自由主義者であった将軍モラは伝統主義の傾向が強い北部のナバラ地方へ左遷された。ところが,反王政の立場にあったモラは,第二共和国の樹立後,王党派へ接近し,政府の思惑とは逆に,左遷の地で,蜂起の際の王党派とカルリスタの支援を取り付けていたのである。実際に,内乱勃発時において,反乱軍が受けた最初の強力な国民の支援は,カルリスタとカスティリャ地方の小地主によるものであった。そして,36年5月から7月の間,中隊以上の部隊の駐屯地での同時蜂起計画に関して,〈司令官〉のような役割をモラは担っていた。この間,フランコ将軍は陰謀に関与してはいなかったようである。軍事蜂起はその後,早急に実現に移されたが,準備不足は否めず,緒戦でのつまずきの原因となった。ところで,軍事蜂起へといたるおもな経過は次のとおりである。フランコをカナリア諸島からモロッコへ移送するためにイギリスで購入した飛行機が,7月11日夜ロンドン郊外の飛行場を出発。7月12日,重要な軍事陰謀が企てられたといわれる。7月13日,右派の指導者カルボ・ソテロJosé Calvo Sotelo(1893-1936)の暗殺。このニュースがモロッコに伝わったのは,反乱前夜であった。7月15日昼過ぎ,フランコを移送する飛行機がラス・パルマスに到着。7月17日午後5時ころ,スペイン領モロッコのメリリャで,同地駐屯部隊が蜂起を開始する。半島本土では,この知らせが深夜の最後のニュース番組で流された。7月18日,全国の主要都市で反乱軍が一斉に蜂起する。フランコはカナリア諸島から全国民へ,〈国民運動〉の動機と目的を表明した。同日昼過ぎ,フランコは飛行機でラス・パルマスを出発,アガディール,カサブランカを経て19日午後7時テトゥアンに到着した。
政府は軍事クーデタが起こる危険性を認めつつも,政権を覆すほどの決定的な力はもちえないと判断していたようである。その理由の一つとして,政治構造がマドリードの中央集権主義に依拠しているために,国の隅々にいたる実情までは熟知していなかった点があげられる。つまり,共和国大統領および首相は,国民の大多数がカトリック教徒であり,保守的な志向をもつ農民である事実を理解していなかった。それにひきかえ,社会党穏健派に属して,消息通であったI.プリエトは,5月以降,何回となく軍事クーデタが起こる可能性を示唆していた。また,ラルゴ・カバリェロ率いる社会党過激派,統一社会主義青年部(社会党+共産党),ならびに共産党は,36年8月半ばころまでは,クーデタをプロレタリア革命への契機とすることを意図していたようである。アナーキストもこの点においては同様である。
反乱軍の当初の戦略目標は,共和国政府陣営の中枢である,首都マドリードにおかれた。北アフリカでの蜂起に呼応して各地に広がった反乱の火の手は,伝統主義的な志向が強い北部のナバラ地方,ガリシア地方,さらにメセタの各都市では成功した。だが,マドリード,バルセロナ,および約1ヵ月間結着がつかず,勝敗が流動的であったバレンシアなどの大都市では,反乱軍の指導者の優柔不断な指揮により蜂起は失敗した。緒戦の戦局を左右したのは,反乱を起こした北アフリカ駐屯軍がジブラルタル海峡を渡り,半島本土へ進撃したことである。海峡の制海権,制空権を握っていた政府がなぜ容易に反乱軍の渡海を許したのか,現在でも定かではない。以上は,7月末から8月初旬にかけての経緯である。
一方,8月初め,フランスのイニシアティブでスペインにおける紛争をイベリア半島に限定するため,ヨーロッパ諸国の不干渉委員会が成立した。このフランスの提案を最も強く支持したのはイギリスであった。
海峡通過後,北アフリカ駐屯軍は,半島北西部で蜂起に成功した部隊と南西部のエストレマドゥラ地方で合流し,南から一路マドリード攻略へ向かった。ところが,北部および北東部での蜂起に成功して南進してきた部隊は,グアダラマなどのマドリード北部の山脈地帯で共和国政府軍の堅い防御を突破できず,半島南部から北進してきた部隊との合流は不可能になった。他方,首都へ北進する部隊の指導者となっていたフランコは,9月27日にトレドを陥落させ,アルカサル王宮を解放し,10月1日には反乱軍側の陸海空三軍最高司令官に就任した(以下,反乱者側を国民戦線と呼ぶ)。その後,国民戦線軍は11月4日から6日の間に,マドリード郊外のヘタフェまで到達した。しかし,翌7日に進撃をためらったために,共和国政府軍に陣営の立て直しを可能とさせ,8日からはマドリードの大学地区で激しい抵抗に見舞われた。このとき共和国政府軍を援助したのが,アルバセテの訓練場から急きょ派遣された国際旅団であった。また,マドリード防衛軍の参謀本部長であり,軍人アカデミーの戦術の教官でもあったロホ中佐の巧妙な作戦の下に,共産党系の〈第5軍団〉とソ連の軍事顧問の助言を受けた統一社会主義青年部の混成部隊は強力な防御線を築き,内戦終結時まで国民戦線軍のマドリード進攻を足止めさせた。それゆえ,国民戦線軍は一時マドリード攻略を棚上げせざるをえなかった。続くマドリード郊外のハラマ川の戦(1937年1月)は結着がつかなかったが,この戦闘において,共和国政府軍が使用した戦車や飛行機などのおもな兵器は,ソ連の援助によるものであった。こうしたソ連の本格的なてこ入れを考慮すると,ドイツ・イタリアの援助なくしてフランコの勝利はありえなかったかもしれない。また,この戦いで現実には第二義的な役割でしかなかった共和国政府軍の〈リンカン部隊〉がアメリカの特派員によって,また,国民戦線を支援したイタリア軍部隊のグアダラハラ侵攻作戦の失敗が,ルイジ・ロンゴとピエトロ・ネンニのおおげさな叙述によって神話化されるにいたる。
1937年4月,国民戦線陣営では,戦いの勝利へ向けて諸政治勢力がフランコを党首として結束し,国民運動と称する統一党を創立した。これに対して共和国政府側では,共産党の反アナーキストおよび反トロツキストの動きが顕著になり,5月にはバルセロナで双方が武力衝突をするにいたった。この事件後,首相の座が社会党過激派のラルゴ・カバリェロから親共産党のJ.ネグリンへ移ったために,共和国陣営内での共産党の発言力はしだいに増していった。
ドイツ,イタリア両国の空軍,とりわけイタリア空軍の援助(1937年3月1日のドゥランゴへの爆撃および4月26日のゲルニカ爆撃)により,フランコの軍隊は6月19日に,通称〈鉄のベルト地帯〉と呼ばれる防御線を突破した。その後,ビルバオへ向けて進撃し,サンタンデル(8月26日),オビエド(10月17日),ヒホンとアビレス(10月21日)を占拠し,ビスケー湾に臨む北部一帯を制圧した。元来この地方は,共和国政府に忠誠を誓ったわけではなかった。自治権の獲得を目ざして,共和国陣営にくみしていたにすぎない。バレンシアで招集された議会は,カタルニャ地方へ1932年に与えたものとほぼ同様の自治権をバスク地方へ付与していた(1936年10月6日)。その結果,自治令に基づき,バスク地方はもとよりアストゥリアス地方やサンタンデル県の評議会は,独自の域内関税の設定をはじめ貨幣の鋳造や切手の発行までも行い,ほぼ半独立国のような権能を有するようになった。さらに,バスク地方の民法の条文によれば,同地方の外での戦闘は,外国での戦闘と同義であった。バスク地方はイタリア軍部隊の総司令官と独自に停戦条約を結ぶまでにいたったが,フランコは後にこの条約の効力を認めなかった。一方,共和国政府軍は国民戦線の背後をついて勢力を分散させる目的で,マドリード周辺(1937年7月のブルネテの戦)とアラゴン戦線(10月21日のベルチテの戦)で反撃に出たが,すべてむだに帰した。
37年12月に共和国政府軍が奪回したアラゴン県テルエル市の攻防では,吹雪の中を両陣営とも精鋭部隊を繰り出し,動員兵数は双方合わせて10万人以上にも及んだ。また,砲火器,タンク,飛行機など兵器の面でも,まさに総力を結集した戦いとなった。それだけに,テルエル市の攻防は内乱の勝敗を左右する重要な意味があった。戦局は最終的に,国民戦線軍のアルファンブラ川における反撃が効を奏し,テルエル市は再度国民戦線の掌中に落ちた。以後,国民戦線軍は戦いを優勢に進め,38年4月16日には,地中海沿岸の港町ビナロスを占拠して,共和国陣営を南北に二分してしまった。共和国政府のネグリン首相は,分離した陣営を一つにまとめるべく尽力するが,すでに軍事上の主導権はフランコに完全に握られていた。両陣営の当時の政治状況は,国民戦線側の場合,38年1月末にフランコが第1次内閣を発足させ,強固な基盤を築いていた。他方,共和国政府側も,ネグリン首相が権力の強化に努め,国内再建計画ならびに国民戦線側との妥協を有利に導くよう〈13ヵ条の声明〉を発表した(4月30日)。そうした状況下で,38年7月25日午前0時15分,共和国政府の〈赤軍〉(政府内で共産党の影響力が強くなり,なおかつこの戦いに参加した部隊の指導者がほとんど共産党あるいは同党に関係のある人物であったためにこう呼ばれる)はエブロ川を渡り,総反撃を開始した。一般に〈エブロ川の戦〉と呼ばれるこの戦闘は,内乱における最後の大規模な戦いであり,まさに全面戦争であった。
エブロ川の戦の最中,38年9月に開かれたミュンヘン会談は,西欧民主主義国がヒトラーと対決する用意がないことを示した。戦局の劣勢を挽回する唯一の活路を西欧諸国の対ドイツ戦争に求めていた共和国政府は,この結果,運命を自らの手で切り開かねばならなかった。しかし,外国からの援助も困難となり,約4ヵ月にわたるエブロ川の戦の末,共和国政府軍の武器および軍需物資は底をつき始めていた。この機に国民戦線軍は,38年12月23日,カタルニャ地方へ進撃を開始し,翌39年1月15日以降,同地方の主要都市を一気に制圧していった。それまで,比較的時間をかけて敵陣営を攻略していたフランコが,このとき速攻へとかわった背景には,陣営内の有力な将軍との確執があり,作戦の遅延は自らの立場を不利にする危険性があったためであろうと思われる。2月11日,共和国政府軍は国境を越えフランスへ敗走した。ここにいたり,共和国政府は交渉によって内乱を終結させるべく,マドリードに防衛委員会を設置し,ブルゴスのフランコ政府と接触し始めた。その中心人物となったのは,カサード政府軍中部方面軍司令官や,社会党が1930年代に過激化したときから同党の指導者となったJ.ベステイロらである。防衛委員会の申出に対するフランコの回答は,無条件降伏であった。この頃,共和国政府陣営内では,あくまでも戦いの続行を主張する共産党と,防衛委員会および内乱時の共産党による弾圧に報復の念を抱いていたアナーキストとの間に対立が生じ,分裂状況を呈してしまった。ネグリン首相と閣僚ならびに軍人高官は,南東部での最後の抵抗を試みるべく,3月8日に南フランスのトゥールーズからアリカンテへ空路舞い戻ったが,時すでに遅く,前線部隊は壊滅していた。そして3月28日,孤塁を守っていた首都マドリードはほぼ無防備のままで陥落した。1939年4月1日,感冒で臥床していたというフランコは,防衛委員会が提出した降伏文書に署名した。
執筆者:フアン・ソペーニャ
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フランコらスペイン軍部の右翼勢力による人民戦線政府に対する武装反乱(1936年7月~39年3月)。当初の短期決戦の見通しが崩れ,長期的な内戦へと発展した。ナチス・ドイツやファシスト・イタリアが反乱派を,ソ連や国際的人民戦線勢力が政府側を支援したため,著しく国際的・イデオロギー的な性格をもつ内乱となったが,マドリード陥落により反乱派が勝利。その後フランコ政府は独・伊の圧力のもとで防共協定に加入した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…スペインの首都マドリードから北西へ58km,グアダラマの山間部に,スペイン内乱(1936‐39)の戦死者を弔うために建立された納骨堂の通称。スペイン語ではバリェ・デ・ロス・カイードスValle de los Caídos。…
…スペイン内乱(1936‐39)に義勇兵として共和国側の戦列で戦った唯一の日本人。本名不明。…
…36年6月,フランスでは社会党と急進社会党よりなる人民戦線政府が発足した。しかしながら新政府の社会改革計画は資本側の抵抗にあって行き詰まり,さらに7月に勃発したスペイン内乱に伴う外交指導の危機にさらされ,統治能力の喪失を露呈した。人民戦線政府に対する軍部のクーデタに始まるこの内乱に際してブルム政府は,反乱側へのドイツ,イタリアの援助にもかかわらず,イギリスの圧力とフランス国内世論の分裂の危機に直面して不干渉政策を提案し,9月にはロンドンに不干渉委員会が設けられた。…
…通常,1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻から45年9月2日の日本の降伏文書調印まで続けられた戦争は〈第2次世界大戦〉といわれる。この期間ドイツ,イタリア,日本の枢軸国側とイギリス,フランス,アメリカ,ソ連,中国などの連合国側とが,大西洋,ヨーロッパ,北アフリカ,そして太平洋,東アジアを主たる戦場として巨大な規模の戦争を展開した。この戦争は,(1)当時の大国のほとんどが戦争に参加したこと,(2)また当時の先進国の領土が戦場となったこと,(3)このため戦争により国際秩序が根底的に変化したことから,まさに〈世界大戦〉といえるものであった。…
…13世紀に造られた聖堂は要塞の性格を備えている。ポルトガル方面への要所にあるため,スペイン独立戦争中の1811‐12年に重要な戦闘が行われ,また1936年スペイン内乱勃発直後,北アフリカ駐屯軍がここを占領し,激しい弾圧を行った。最近の資料では,弾圧によって殺された人の数は当時の人口の4.22%,2964人といわれ,スペイン全国の国民戦線による弾圧の平均を上回っている。…
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[イスパノ・アメリカの文学]
スペイン系アメリカを中心にしたラテン・アメリカ文学は,15世紀末の発見・征服の時代から始まり,植民地時代を経て,独立時代に入り,現代にいたる約500年の歴史をもっている。まず発見・征服の時代には,それに参加した征服者や聖職者の日記,記録,報告,年代記,書簡などが文学史を形成することになる。そのおもなものをあげると,ラス・カサスの手書本による《コロンブス航海誌》,エルナン・コルテスの《五つの報告書》(1519‐26),ラス・カサスの《インディアス破壊に関する簡潔な報告》(1552),ベルナル・ディアス・デル・カスティリョBernal Díaz del Castillo(1495か96‐1584)の《新スペイン征服正史》(1552)などである。…
※「スペイン内乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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