日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピョンヤン」の意味・わかりやすい解説
ピョンヤン
ぴょんやん / 平壌
北朝鮮の首都。政府直轄市。面積約2000平方キロメートル。人口276万7900(2003推計)。
朝鮮半島北西部、大同江下流部にある。地形は、市の中央部を貫流する大同江とその支流普通江と合掌(がっしょう)江によって堆積(たいせき)された沖積地と、地質時代の侵食と削剥(さくはく)によって形成された準平原である。市の北部は慈母山地の残丘である大聖山(294メートル)、峨嵋(がび)山(155メートル)があり、北東部は平安系の石炭層である。大同江は東方で合掌江をあわせて曲流して清流壁を過ぎ、綾羅(りょうら)島を挟みながら市中央部を南に貫流し、羊角島を残して北部から流れる普通江を入れて河口に向かっている。市の気候は大陸性気候で、年平均気温10.5℃、8月24.4℃である。ピョンヤンは政治、文化の中心だけではなく、屈指の工業都市として北朝鮮の工業生産の4分の1を占めている。解放後新しく創設した機械製作工業から消費物資まで大小200余の企業体がある。これは立地条件として、平壌炭田や平壌火力発電所(出力40万キロワット)などのエネルギー資源と大同江の豊富な工業用水、陸・海の運輸網が発達したからである。工業分野で比重の高いのは機械工業で、平壌電気、精密機械、電球、建設機械などの大規模の施設と朝鮮・キューバ親善平壌紡績機械工場・金鍾泰(きんしょうたい)電気機関車工場がある。いずれも全国的規模の中央企業体である。軽工業分野でも北朝鮮第一の生産をしている。そのおもなものは、紡績工業では平壌紡績、絹紡織、製糸工場があり、建材工業では勝湖里セメント工場、大聖窯業、平壌合成樹脂、ビニル管、木材総合工場などがある。
市街地は、大同江右岸地域が旧市街であるが、朝鮮戦争ですべての建造物が灰燼(かいじん)に帰し、戦後、再建された。市の中心は牡丹(ぼたん)峰(モランボン)西麓(せいろく)の万寿台上の朝鮮革命博物館である。博物館の西方に向かって万寿台議事堂、万寿台芸術劇場、平壌学生少年宮殿、人民大学習堂などの高層建物や朝鮮式の建物が並び、また政府機関もこの界隈(かいわい)にある。もっとも繁華な通りは大同江の流れに沿って東西に走る大同門街、勝利街、大学習堂街である。この通りには金日成(きんにっせい)広場を中心に博物館や劇場などの文化施設が多い。市北部に展開している普通江畔の人民文化宮殿、氷上館、清流館、蒼光苑(そうこうえん)は東平壌の平壌産院とともに最近建てられたものである。金日成70歳生誕を記念して七星街の凱旋(がいせん)門、東平壌の主体(チュチェ)思想塔が建設された。市の南西部の万景台区域には金日成の生家が保存され、万景台革命学園、亭閣(ていかく)などがあり、国の内外から多くの人々が訪れる観光コースの一つとなっている。名勝古跡地として有名な牡丹峰高台には牡丹峰地下劇場、解放塔、千里馬(チョンリマ)銅像があるが、乙密台や七星門、浮碧楼(うへきろう)は戦禍にあい消えうせた。
ピョンヤンは歴史と伝統のある都市である。王険城ともいわれ、檀君(だんくん)や箕子(きし)が都としたという伝承もある。初めて国の首都となったのは高句麗(こうくり)の長寿王15年(427)である。高句麗滅亡まで240年間、三国時代のもっとも発達した都市として、高度な文化を誇り、政治、経済、文化の中心地であった。その遺跡古墳が大同江下流地域に多く残っており、当時の華麗な古代文化のおもかげを伝えている。10~20世紀に至る高麗(こうらい)、李朝(りちょう)の約1000年間の時期は西京または柳京といわれ、つねに朝鮮半島第二の都市として経済、文化的に繁栄した。
1945年解放後、北朝鮮の首都として政府直轄市になった。朝鮮戦争の際、空軍により市内だけで55万余発の爆弾が投下され廃墟(はいきょ)と化したが、戦後復旧再建された。
[魚 塘]