フランスの代表的なゴシック様式の聖堂。パリの南西、ボース平野の小都市シャルトルに建ち、聖母(ノートル・ダム)に捧(ささ)げられたカテドラル(司教座をもった聖堂)。1979年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。献堂式は1260年10月24日に聖王ルイ9世の列席のもとに執り行われたが、クリプト(地下礼拝堂)は9世紀にさかのぼり、何度も火災を受けて再建、修復が繰り返されたものである。9世紀の聖堂は1020年の火災で消失し、ただちに司教フルベールの指揮のもとに再建されたが、1134年の火災でふたたび正面玄関部が破損を受けた。のち修復されたこの第2期のロマネスク様式聖堂は、1194年の火災でまたもや破損を受けることになるが、「王の門」とよばれる扉口をもつ西正面玄関部と左右の塔は破損を免れた。今日のゴシック様式の聖堂は1194年以降の第3期の建造によるものである。
堂内身廊部の幅は16.4メートルでフランス第一の規模を誇り、天井の高さ36.55メートル、堂内奥行73.47メートルで、1220年に完成している。内陣部は翌21年に完成し、この時点で聖堂はふたたび使用可能となった。南北の翼廊部は1245年に仕上がり、正面北側の塔は最終的には1513年にフランボワイヤン様式によって仕上げが行われている。木骨構造であった屋根は1386年の火災ののち鉄骨に変更され、屋根も銅で葺(ふ)かれた。ゴシックのカテドラルの建造はこのように長い歴史をもっている。
彫刻では、1150年ころ完成された西正面玄関部の外壁を飾る3個の扉口(王の門)のものがまずあげられる。タンパン(扉口上部の半月形壁面)を飾る彫刻と、扉口左右の人像柱(スタテュ・コロンヌ)である。南側のタンパンは「キリスト誕生」、北側は「キリスト昇天」、そして中央扉口のタンパンは「栄光のキリスト(最後の審判のキリスト)」を表している。人像柱は『旧約聖書』のイスラエルの族長たち、預言者たち、そして聖人たちで、いずれも厳粛な容貌(ようぼう)、細長く引き伸ばされた体、衣のひだの様式化された垂直性など、12世紀中ごろのロマネスク様式からゴシック様式への過渡期の特徴をよく示している。南北の翼廊部の扉口を飾る彫刻は1200年から1215年の時代のもので、純粋にゴシック様式に属する。
ステンドグラスは、ゴシック聖堂のうちシャルトルのものがもっとも保存状態がよく、一部分に12世紀中ごろのものもあるが、全体の構想は1200年から1250年に至る時代のものである。西正面および南北翼廊部を飾る「バラ窓」をはじめとして総数173個のステンドグラスがアーケードと高窓にはめ込まれ、その総面積は2000平方メートルにも及ぶ。フランス革命期に破壊されてしまった部分もかなりあるが、全体として13世紀のゴシックの大聖堂の姿をみごとに今日に伝えている。とくに「バラ窓」のステンドグラスの美しさは「この世に存在するもっとも美しいもの」とたたえられている。西正面の「王の門」上部のバラ窓は「最後の審判」を表し、南側翼廊および北側翼廊のバラ窓は、それぞれ栄光のキリストと聖母に捧げられている。
[名取四郎]
フランス北部,シャルトルにある大聖堂。正称はノートル・ダムNotre-Dame。建築,彫刻,ステンド・グラスなどのほとんどが12~13世紀の面影をそのまま伝える貴重なゴシック建築で,彫刻家ロダンは〈フランスのアクロポリス〉と絶賛した。大聖堂の建つ場所には聖なる泉があり,キリスト教化される以前からガリア人の信仰を集めていた。クリプタ(地下祭室)には,今なおその井戸が残る。876年カール禿頭王がシャルトル大聖堂に〈聖母マリアの御衣〉を寄進して以来,シャルトルは聖母マリア(ノートル・ダム)信仰の中心地となり,広く西欧全体に知られ,多くの巡礼を集めた。
非対称の双塔が比類なき美を見せる西正面は,1134年の火災ののちに再建された12世紀の部分を残す。また,その晴朗な輝きから〈シャルトルの青〉との呼び名を生んだ西正面の三連窓のステンド・グラス,および西正面三つの扉口側壁で稚拙な微笑を浮かべて並ぶ旧約聖書の王たちも,12世紀初期ゴシック芸術の粋である。94年に猛火がシャルトルの町を襲い,同大聖堂は民衆の情熱に支えられて再建され,わずか26年後の1220年にほとんどが完成した。献堂式は60年,聖王ルイ(9世)臨席のもとに行われた。身廊はアーケード,トリフォリウム,高窓の3層構成で,天井はリブ・ボールト(肋骨穹窿)に統一され,堂内は盛期ゴシック建築の到来を告げている。南北袖廊扉口を飾る彫刻群も盛期ゴシック時代(13世紀)の作で,北袖廊扉口にはキリスト生誕までの旧約聖書の世界,南袖廊扉口には新約聖書の世界が表現される。ステンド・グラスは,12世紀のものを除き,三つのばら窓をはじめ大部分が1210-40年の短い期間に完成されたため,均一な質を見せている。身廊の床には直径12mの迷宮(ラビュリントス)が彫られているが,これは一説には聖地エルサレムに至る苦難の道を表すといわれる。
執筆者:馬杉 宗夫
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フランス,シャルトルの司教座教会(ノートルダム)で,古典様式ゴシック最初の作例であり典型である。フルラッドの会堂被災後,1194年着工,1260年献堂式。特にステンドグラスが完全に保存されている。巡礼の中心地。
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…13世紀前半のシャルトル,ブールジュ,サンスなどに残るものは最盛期を示し,デッサンは自然さをまして力強さを失わず,配色も繊細さを加え,奥行きをも表している。今日なお大多数の当時のステンド・グラスを保存するシャルトル大聖堂の壮観は言葉で表せない。この時代,高窓には,巨大な単身像で聖母や旧約聖書中の人物,聖人などを表し,階下の窓は円や方形や菱形の区画を連ねて聖書伝・聖人伝諸図を表すものが採用され,教会堂建築とよく一致してその効果を発揮している。…
…ここでは,神の属性である光をいかに神秘的に表現するかが意識されていた。サン・ドニ修道院で完成された様式は,シャルトル大聖堂西正面三連窓に伝播していく。ここでは,鮮やかな青ガラスが至上の輝きをみせている。…
…フランスの修復建築家,建築史家,建築理論家。パリ生れ。エコール・デ・ボザール(国立美術学校)を忌避して独学で建築を学び,文化財保護技監であったP.メリメに認められてベズレーのラ・マドレーヌ教会の修理に当たった。ついで老練の建築家ラッシュスJean‐Baptiste Lassusとともに,1845年よりパリのノートル・ダム大聖堂の修復工事を担当してその地位を固めた。その後,文化財保護委員会委員,宗務省の建築技監として活躍し,シャルトル,ランス,アミアンなどの大聖堂やカルカソンヌ市の城壁,ピエールフォン城(ナポレオン3世の命による)などの修復に当たった。…
※「シャルトル大聖堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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