多彩色のガラスを種々の大きさに切り,それらを鉛の枠にはめ込み溶接したもの。絵ガラスともいう。鉛の枠が図柄の黒い輪郭線になり,装飾や宗教的主題が表現される。いわゆる窓枠にはめられたステンド・グラスの歴史は古く,その手法は,古くからガラスが製作されていた地中海沿岸のオリエント地方からきたものと推測されている。また,ポンペイ,ヘラクラネウム,アレジア,ストラスブール,トリールなどで発掘された断片により,ヨーロッパでも1世紀以来ステンド・グラスが使用されていたことが知られている。この時代には,ガラス片は比較的小さくて厚く,ブロンズ(青銅),大理石,木などの縁にはめ込まれていた。文献によれば,5,6世紀以来,イタリアやフランスでステンド・グラスが採用されていたことが知られる。しかし,図柄の表現された現存する最古のものは,ドイツのロルシュ出土の〈聖人の頭部断片〉(9世紀)とされている。さらには,マクデブルク出土の頭部の断片(10~11世紀前半)やワイセンブルク(現,フランス領)出土の〈キリスト頭部〉(11世紀)などにより,ドイツでは古くからステンド・グラスの伝統があったことがわかる。
小さな規模ではあるが,ステンド・グラスが〈聖なる書〉として,神の国たる教会堂の窓を積極的に飾りはじめたのは,12世紀のロマネスク時代においてである。ロマネスク教会堂の窓は通常なお小さく,円形や矩形の枠で仕切られ,ステンド・グラスの色彩は鮮明な青を地色とし,赤との対比に特徴を示す。12世紀のステンド・グラス芸術の中心地は,パリ郊外サン・ドニ修道院であった。修道院長シュジェールSugerのもとで1144年に完成された同修道院内陣では,はじめて壁面が大々的に窓に開放され,そこにステンド・グラスがはめられた。ここでは,神の属性である光をいかに神秘的に表現するかが意識されていた。
サン・ドニ修道院で完成された様式は,シャルトル大聖堂西正面三連窓に伝播していく。ここでは,鮮やかな青ガラスが至上の輝きをみせている。西部フランスではル・マン大聖堂,ポアティエ大聖堂,アンジェ大聖堂,シャンパーニュ地方ではシャロン・シュル・マルヌ,サン・レミ・ド・ランス,ドイツではアウクスブルク,イギリスでは,ヨーク,カンタベリーなどに12世紀の作例を残す。これらは,図像的には同時代のロマネスク壁画や写本挿絵と類似を示している。12世紀のステンド・グラスの技法は,ベネディクト会修道士テオフィルスが書き残した《諸技芸大要Schedula diversarum artium》で知ることができる。
13世紀ゴシック時代には,シャルトル大聖堂の工房の活動にもうかがえるように,ステンド・グラス芸術はその頂点に達した。ゴシック建築は,ロマネスク建築が壁面中心であったのに対し,構造体を骨組構造にし,窓はますます大きくなり,そこにステンド・グラスがはめられた。破壊をほとんどまぬがれたシャルトル大聖堂身廊,内陣のステンド・グラスは,13世紀前半の典型例で,より深い色調になった赤と青を主調とする色彩対比と,大まかなデッサンによるモニュメンタルな様式に特徴をみせる。また,構成においては,下層の窓は小さな場面(聖書伝や聖人伝)の表現にあてられ,上層の窓は孤立した大きな聖人像にあてられ,視覚的効果が考えられている。シャルトル大聖堂の様式は,ブールジュ大聖堂,サンス大聖堂,ルーアン大聖堂などに伝播した。パリでは,ノートル・ダム大聖堂,サント・シャペルなどに新しい流派が生まれ,13世紀中ごろには,クレルモン・フェランをはじめ全フランスに影響を与えていった。とくにサント・シャペル(1243-48)では,壁面はすべて15の窓に開放され,光の壁と化している。イギリスではカンタベリー大聖堂(〈トマス・ベケット伝〉)やリンカン大聖堂のステンド・グラスが,フランスの様式とのつながりを示す。ゲルマン諸国では,マールブルクのザンクト・エリーザベト教会などにフランスの様式の影響が見られるが,ストラスブール大聖堂,ナウムブルク大聖堂では,装飾性に富んだドイツ独自の特徴が顕著である。
1270年ころに,新しい傾向が現れる。すなわち,より多くの光を教会堂内に入れるため,色ガラスのほかに,白ガラスの上にグリザイユ(陰影画)で描かれた無彩色のガラスが増える(トロアのサンテュルバン教会)。さらに14世紀初頭には,〈ジョン・ダルジャン〉という技法の導入によりステンド・グラスは絵画化の傾向を強めていった。この技法は,銀の硫化物を使い,ガラスの表面に薄い黄色の膜を作り着色していく。これにより,ガラスの表面に図柄を描くことが可能になり,14世紀のステンド・グラスは,13世紀のモニュメンタルな様式を失った代りに,繊細優雅な表現を獲得した。とくに,天蓋などに遠近法の導入がなされ,絵画化への傾向は一段と強くなった。色ガラスは,ソーダの含有率が多く明るくなり,色彩も豊富になり華麗さを増していった。ルーアンのサントゥーアン教会,エブルー大聖堂,ウィーン大聖堂(東窓)などにその代表例がある。
15世紀になって,ブールジュ大聖堂(〈受胎告知〉),ムーラン大聖堂などでは,さらに明るく鮮明な色ガラスになり,写実的傾向が強くなった。写実的傾向は,16世紀ルネサンスの到来とともにより強くなった。ボーベのルプランスLeprince家をはじめとするこの時代のステンド・グラス師は,イタリア・ルネサンスの様式を導入した。また北方では,デューラー,バルドゥング,H.ホルバイン(子)らの画家が,下図を提供している。フランスに現存するステンド・グラスの半数近くは16世紀の制作になり,16世紀はステンド・グラスの第2の黄金時代といえる。技法面では,黄色のグリザイユや彩色された透明なエマイユ(七宝)が,16世紀後半に伝播していった。ルーアンのサン・バンサン教会,パリのサン・ジェルマン・ローセロア教会,サンス大聖堂などに,この時代の作例が残る。
17,18世紀には,ステンド・グラスは衰退を見る。当時の古典主義的精神は,中世芸術固有のものである彩色された平面的なステンド・グラス芸術に対立したからである。ステンド・グラスが復活するのは,ゴシック美術を再評価したロマン派が台頭した19世紀のことである。とくにイギリスでは,その復活は,装飾性を重視した19世紀末のラファエル前派の運動と一致していた。20世紀には,マティス,レジェ,G.ブラック,ルオー,さらにはシャガール(ランス大聖堂)などがステンド・グラスを手がけている。また,ステンド・グラスは新しい抽象的建築装飾としても採用されている。
執筆者:馬杉 宗夫
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色板ガラスにグリザイユという顔料を焼き付け、個々のガラス片を断面がH型の紐(ひも)状の鉛によって組み合わせ、画像や文様を表したもの。とくに中世ヨーロッパの教会建築において華やかな展開がみられた。
ガラスを建物の窓に使用することは紀元前後には行われ、初期の教会建築にも色ガラスの窓のあったことがいくつかの記録から知られている。しかし12世紀前半にテオフィルスによって『諸芸提要』に記されたような、ガラスの粉末と金属酸化物からなる顔料でガラス片に線や陰影を表し、それを焼き付けるという技法が行われるようになったのは、カロリング朝のころからと推定されている。現在残る最古の例は、ドイツのロルシュ修道院で発見された「聖者の頭部」断片で、9~10世紀のものと考えられる。ついで全体像の残るものとしては、アウクスブルク大聖堂の5人の「預言者像」(11世紀末~12世紀初)があげられる。
中世を通じてステンドグラスは人々の心を照らす光として、神の家たる教会にふさわしい装飾と考えられ、その建築様式と大きくかかわりながら発展した。またその図像は、同時代の写本装飾や金属工芸との様式的関連がしばしば指摘されている。11~12世紀にかけてのロマネスク教会堂では構造上、窓は比較的小さく、側廊には物語を表すメダイヨン(縁飾りで囲まれた円形などのパネル)の窓、高窓には正面性の強い単身像が配置されることが多い。これに対し13世紀には柱で建築を支えるゴシック様式が盛んになり、これによって大きく開放された壁面にステンドグラスがより重要な役割を果たすことになった。縦長の窓にメダイヨンが上下に連なり、ガラスパネルを保持するための鉄枠も、それ自体がデザイン的な効果を意図するようになった。
ステンドグラス制作がもっとも盛んに行われたフランスでは、早くから各地方に特色ある工房が成立していた。なかでもゴシック建築の端緒ともなったサン・ドニ修道院の聖歌隊席(1140~1144)の窓を制作した工房は、ついでシャルトル大聖堂西ファサードの窓も手がけ、その作風はイギリスのカンタベリーおよびヨークの大聖堂にも及んだ。一方、同じく12世紀中葉のル・マン大聖堂「昇天」、ポアチエ大聖堂「磔刑(たっけい)」、シャルトル大聖堂「美しき絵ガラスの聖母」などの窓はロマネスク的傾向の強い作例として知られている。このころのステンドグラスは、鮮やかな青と赤のガラスを効果的に対比させ、輪郭線としての鉛線を生かした力強い表現をみせている。
13世紀前半にはシャルトル、ブールジュ大聖堂、カンタベリー大聖堂トリニティー・チャペルの「トマス・ベケット伝」など大規模な制作が行われ、世紀なかばにはパリのサント・シャペル(1243~1248)でゴシックの様式が洗練の極みに達した。またドイツでは、フランスの影響を受けつつもナウムブルク大聖堂、ストラスブール大聖堂、マイブルクのザンクト・エリザベート教会などがゲルマン的な豊かな色彩と装飾性をみせている。なお、グリザイユの窓とよばれるヨーク大聖堂「5人姉妹」のように、この時代から白ガラスを多用する傾向も現れた。
14世紀になると、イタリア絵画の影響を受けてステンドグラスにも奥行や量感が表現されるようになる。スイス、ケーニヒスフェルデンのハプスブルク家礼拝堂(1325~1330)の窓はアルプス以北で線遠近法を導入した最古の例といわれる。さらに焼付けによって黄色系を発色するシルバーステイン(銀の硫化物)の使用が始まり、頭髪などにも自由な表現が可能となって、ステンドグラスの絵画化は急速に進んだ。イギリスとフランスでは色彩も明るく、人物表現は精妙になった。またゲルマン諸国では天蓋(てんがい)装飾などに複雑な三次元的構図が進み、続く15世紀はフランドル絵画の影響もあって、写実化の傾向が著しい。
14世紀に始まったステンドグラスの絵画への接近は、16世紀後半にエマイユの使用が広まったことでさらに進み、その本来の美しさをまったく見失うに至った。加えて宗教改革や反宗教改革に伴う抗争で多くの作品や工房が壊滅的な被害を受け、中世的な伝統は衰退して長い不毛の時代が続くことになる。そのようななかで、教会堂や邸宅の窓には紋章や世俗的主題の円形小パネルが取り入れられた。
ステンドグラスの再興は19世紀のゴシック・リバイバルの動きのなかで始まった。ビオレ・ル・デュクらの手で中世の窓の再発見、研究、補修が行われ、古い製法による板ガラス製造も復活した。ついでウィリアム・モリス、バーン・ジョーンズらのラファエル前派によって新たな表現として生き返った。またアール・ヌーボーの風潮にも合致して盛んに制作され、アメリカのティファニーは乳白ガラスと銅箔(どうはく)という新しい素材を使って独自の作品をつくりだしている。
20世紀にはマチス、レジェ、シャガールをはじめとする多くの作家がステンドグラスを積極的に現代建築に取り入れてきた。また、近年では厚板ガラスを使った技法も広がるなど、建築とのさまざまなかかわりが展開されつつある。
[井上暁子]
『宮本雅弘著『ステンドグラス』(1985・美術出版社)』▽『L・リー、G・セドン他著、黒江光彦訳『ステンドグラス』(1980・朝倉書店)』▽『渡部雄吉写真集『ステンドグラス』(1982・小学館)』
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絵ガラス。主として12世紀以後ゴシック教会堂の窓に愛用された。切断した種々の色ガラスを鉛の細枠で組み立て,細部の線を焼きつけて,人物や画像を表現する。13世紀後半から技法の進展によって写実性が増した。フランスのゴシック芸術固有の絵画的表現ともいえる。シャルトル大聖堂(12世紀半ば),パリのサント・シャペル(13世紀半ば)などの作例が有名。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… これに対し中世美術においては,光はきわめて重要な要素ではあるものの,そのあり方は古代および近世と著しく異なる。中世美術の中枢を占める教会堂建築では,古代に比べて内部空間が格段の重要性を得たのに伴い,金地とガラス片の輝かしいモザイク,戸外の白色光を色とりどりの光に変えるステンド・グラスが,聖性を象徴する超現実的な光でこれを満たすようになった。一方,中世絵画には,古代と近世の写実的光を基準にすれば,光は存在せず色彩あるのみということになるが,中世には独自の光があることに注目しなければならない。…
※「ステンドグラス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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