ロシアの画家マレービチが1915年に描き始めた幾何学的な抽象絵画の名称。ロシア語で正しくは〈スプレマティズム〉。〈絶対主義〉〈至高主義〉と訳されるが,彼自身によれば〈シュプリーム〉とは自然形態を制覇し,それを描写対象とせず,幾何学的な色彩平面形態だけを描くことである。そこではただ色彩と表面の様子のみが重要であって,この抽象化への決断は,彼の言う〈形態のゼロ〉から出発することで可能となった。革命後シュプレマティズムの絵画も新しい社会の建設に積極的に参加することが求められた。色彩を持つ平面が独立の要素として,エネルギーの経済原則に従った〈経済的幾何学主義〉の名のもとに,新たに時・空間の中で地球と月の間の新しい衛星計画案へと展開した。リシツキーはこれをうけて,19年より〈プロウンPROUN(新しきものの確立のための計画)〉を計画し,スエティンNikolai Mikhailovich Suetin(1897-1954)やチャシュニクIlia Grigorievich Chashnik(1902-29)などもそれぞれシュプレマティズムの作品を制作した。シュプレマティズムと20年代の構成主義を含めて,革命前後の前衛的な芸術の動向を指すのに〈ロシア・アバンギャルド〉の語が使われることもある。
→抽象芸術
執筆者:宮島 久雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ラテン語のsupremus「至高」を起源とする絵画理論。至高主義または絶対主義と訳されている。第一次世界大戦の初期にロシアの画家マレービチによって提唱されたもので、対象の極端な簡略化を求め、純粋感性を絶対とする絵画理論である。マレービチは『セザンヌからシュプレマティズムへ』というパンフレットを書くほか、1914年には『ダイナミックなシュプレマティズム』という作品を発表している。ソ連では抽象芸術の一種として規定していたが、長らく公式的には認められず、そのため百科事典の項目としても1920年代に登場したのち、スターリン死後の雪解けが訪れるまで採用されていない。このことは提唱者マレービチの評価とも密接につながり、現在もなおマレービチは全面的には容認されていないが、ロシアのシュプレマティズムの運動がその後の西ヨーロッパ美術に及ぼした影響はけっして小さなものではない。
[木村 浩]
… こうして世紀末から世紀の変り目にかけて準備されていた下地の上に,抽象芸術は第1次大戦前後の時期にさまざまなかたちで現れてくる。すなわち,まず,当時ミュンヘンにいたカンディンスキーの1910年ころからの試み,キュビスムにおける描写対象の分解・分析・総合,キュビスムから枝分かれしたR.ドローネー,ピカビア,クプカF.KupkaらによるオルフィスムOrphismeの音楽的詩的抽象,マレービチの純粋幾何学的抽象の試みであるシュプレマティズムといった動きが抽象芸術を形づくる。次いで,オランダで新造形主義をかかげたモンドリアン,彼を支持したファン・ドゥースブルフらの絵画,彫刻,デザイン,建築等の各分野にわたる運動であるデ・ステイル(1917年より同名の雑誌を刊行),革命後,やはり各分野にわたる広がりをみせたロシアの構成主義(タトリン,リシツキー,ガボ,ペブスナー,ロドチェンコら)などによって抽象芸術は急速に広まり,両大戦間にはシュルレアリスムと並ぶ一大動向を形成し,1930年代には早くもマンネリ化,アカデミズム化の現象すらみせている。…
…ロシア・ソ連邦の抽象画家。シュプレマティズム絵画の創始者。キエフ近郊に生まれ,モスクワの絵画・彫刻・建築学校に学ぶ。…
※「シュプレマティズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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