人類の所有する諸知識を,特定の配列法によって収録し,読者の全般的もしくは特殊な使用に供することを目的とした著作物。西欧語はギリシア語enkyklios(円環をなす)とpaideia(教育,訓練)の合成にもとづき,本来は,〈知識の環〉〈体系的教育〉といったほどの意。言葉の意味,発音,語源など,もっぱら言語に関する知識を扱う辞典(書)dictionaryとは区別されるが,内容的に百科事典のカテゴリーに入るものにも〈辞典〉の語が冠せられることがある。以下の記述において,固有の表題については原題に従って〈事〉と〈辞〉を区別して使用する。また刊行年,巻数についてはとくに断らないかぎり初版時のそれを採る。
古典古代時代以来,きわめて多数の百科事典が編集されてきた。歴史的にみる場合には次の4期に区分するのが適当と考えられる。
第1期は,古代から中世にかけてである。とりわけ,大プリニウス《博物誌》37巻(79完成)は,古代の地理,自然,歴史知識の集成とでもいうべきものであり,その後の著作者によってしばしば引用された。古代知識を中世に受け継いだ百科事典としては,カッシオドルス《年代記》(6世紀)とセビリャのイシドルス《語源論》20巻(7世紀)があげられる。ことに後者は,狭義の語源論ばかりではなく,プリニウスらの古典作家からの大量の引用と解釈とからなり,中世の著作者は,ほとんどがこれに依拠しているほどである。
定義にもよるが,固有の中世において初めての百科事典は9世紀のフルダ修道院長ラバヌス・マウルスによるものであり,ゲルマン世界に古典知識の集成をもたらした。11世紀から12世紀にかけて,量的にはめだたぬが,いくつかの例をあげられる。12世紀のサン・ビクトールのフーゴー《ディダスカリオンDidascalion》は,学的知識を体系的に分類し,古典古代以来の伝統を改変しつつ受けいれて,本格的なヨーロッパ百科事典の基礎をつくった。12~13世紀は,スコラ学の最盛期であったが,思想家は古典作家とキリスト教教父を権威とし,これへの依拠・引用をもって論説を組みたて,その手続の結果,壮大な体系をうちたてるのを理想とした。百科事典はその手続のための補助材であり,またそれ自身が引用・解釈の大集成となっていった。バンサン・ド・ボーベ《大鏡Speculum majus》(13世紀中葉)はこの時代の代表例である。〈自然〉〈理論〉〈歴史〉の3部,さらに死後〈道徳〉が追補されて全4部構成となり,全体として膨大な編纂物となった。古典,教父の著作ばかりでなく,同時代の新知見をも含んでいる。このほか,B.ラティーニ《宝庫Li livres dou trésor》は,初めて俗語(非ラテン語)で書かれた,包括的知識を含む著作である。
ルネサンス以後,新知見の大量獲得によって,それらの体系的整理の必要が生じた。第2期の百科事典は,量的な増大に加えて,独特の項目分類と取捨選択の原則を特徴としている。また,各国近代語の形成期にあたっていたことから,国語辞典としての性格をも併せもつようになり,百科事典とのあいだの中間的性格のものが出現した。F.ベーコンらの学問分類論は,ただちにはこれにのっとる百科事典を生まなかったとはいえ,後世に強い影響を与えた。このころ作成された辞典では,理性の原則による配列と記述とが顕著となる。16世紀にはJ.L.ビーベス(《De disciplinis》),C.エティエンヌ(《Dictionarium historicum,geographicum et poeticum》,1553)の百科事典,17世紀には百科事典的な言語辞典としてA.フュルティエール(《Dictionnaire universel des arts et sciences》,1690),L.モレリ(《Le Grand Dictionnaire historique》,1674)らの仕事をあげることができる。フュルティエールの辞典は,アカデミー・フランセーズ作成による《フランス語辞典》への対抗意識をもって作られたものとして知られる。また18世紀初頭にJ.ハリスの英語百科辞典(《Lexicon Technicum》,1704),ドイツのI.ヒューブナーの百科事典的用語辞典(《Realem Staats-,Zeitungs-und Conversationslexikon》,1704)が現れた。後者はConversationslexikon(字義どおりには会話辞典)と題するタイプの最初のものであり,台頭する市民階級の世間的つきあいに必要な教養を提供する目的で編まれており,この系統は後の《ブロックハウス百科事典》などにつながっていく。さらに,この時期の代表例としては,フランスのP.ベールの《歴史批評辞典Dictionnaire historique et critique》2巻(1697)があげられる。理性的判断への信頼を強調するベールは,個々の知見の真偽を〈批判的〉に吟味しようとしたのである。
第3期にあたる18世紀から19世紀にかけて,代表的な百科事典が各国ごとに編纂された。近代的事典の筆頭としては,イギリスのE.チェンバーズの《百科事典Cyclopaedia》2巻(1728)がある。これに範をとり,当初はそのフランス語訳作成の目的で開始された作業は,ディドロ,ダランベールらの手による《百科全書》に結実した。全28巻からなるこの事典は,ディドロによる序文にみられるように,明確な方法意識によって編集されている。ベーコンの学問分類論に従い,配列はアルファベット順によりつつも,全体として体系的知識を合理的な判断にもとづいて記述しようとしており,思想史上も重要な位置をしめている。
イギリス(のちアメリカに版権が移った)の《ブリタニカ百科事典》3巻(1768-71)やドイツの《ブロックハウス百科事典》6巻(1796-1808),《マイヤー大百科事典》46巻(1840-52。《マイヤー百科事典》)など,その後も国民的事典として長年,刊行され愛用されるものは,この傾向を受け継いでいる。国民国家が,各国民の文化的アイデンティティをも基礎に置くべきことが,認識された。ドイツの《ヘルダー百科事典Conversations-Lexikon》5巻(1853-57),フランスの《19世紀ラルース大百科辞典》15巻(1866-76。《ラルース百科事典》)などがこれに続いた。東ヨーロッパ諸国にあっても国民的百科事典が作成された。ポーランド(1858-68),ハンガリー(1861-76),ボヘミア(1860-90),ロシア(1863-66),ルーマニア(1898-1904)などである。これら19世紀以降の百科事典は,富裕な都市市民の購買力を期待しうるところから,巻数は増加し,フランスの《大百科事典La Grande Encyclopédie》(1886-1902)のように31巻を数えるものまで現れた。また,この時期にあっては,S.T.コールリジのプランによった《メトロポリターナ百科事典Encyclopaedia Metropolitana》29巻(1817-45)がその体系性のゆえに注目される。当初の意図どおりには進行しなかったとはいえ,歴史家のE.ギボンら,当時の代表的文筆家を総動員する記念碑的百科事典をめざしたものであった。
第4期は20世紀であるが,ここでは知識の多様化が進み,従来にないさまざまな試みが加えられた。ルーズリーフ・スタイルをとったアメリカの《ネルソン百科事典Nelson's Perpetual Loose-leaf Encyclopaedia》12巻(1909),図解記述を採用したドイツの《ドゥーデン百科事典》(1935)などである。またG.ジェンティーレ編集の《イタリアーナ百科事典Enciclopedia italiana》(1929-39),《ソビエト大百科事典》(1926-47)のように,前者は36巻,後者は65巻という膨大なものが続出したのも特徴である。
執筆者:樺山 紘一
イスラム世界の百科事典を語る前に,イスラムの学問の流れを概観しておく。イスラムの学問はバグダードを中心に発達したが,10世紀以降,イラクの政治的混乱が深まるにつれて,エジプト,シリアへ移住するウラマー(学者)の数が増大したので,その伝統はやがてカイロやダマスクスに引き継がれることになった。アイユーブ朝(1169-1250)やマムルーク朝(1250-1517)の君主が,スンナ派の教義を擁護する目的で,ウラマーを積極的に育成・保護したことも学問の発達を促す要因であった。しかし,アラブ起源の学問(法学,神学,歴史学,言語学など)とアジャム(異民族)起源の学問(哲学,医学,地理学,数学など)とからなるイスラムの学問は,このころまでにはその方法と体系がほぼ整えられ,新しい学問分野を開拓する余地はほとんど残されていなかった。そのため,14世紀以後のウラマーは,同時代の知見を加えてこれらの学問を総合することに努力を傾注したのである。
マクリージーはエジプトに伝わる地誌学(ヒタト)を集成して大部な《エジプト誌》を著し,スユーティーも地誌と歴史を総合した《講義の美徳》や15世紀末に至るまでの《カリフ史》をそれぞれ一書にまとめた。また,マムルーク朝の文書行政にたずさわる書記(カーティブ)のなかから,さらに体系的な形で〈知の総合〉を行う者が現れた。その代表が,エジプトの三大百科事典家といわれるヌワイリー,ウマリー,カルカシャンディーである。
マムルーク朝のスルタン,ナーシル(在位1293-94,1299-1309,1310-41)の下で軍務庁や監査庁の長官を歴任したヌワイリーは,晩年の二十数年を費やして書記のための知識を総合した《窮極の目的Nihāya al-arab》31巻を完成した。全体は〈地誌〉〈人間〉〈動物〉〈植物〉〈歴史〉の五つの学芸(ファンヌfann)からなり,それぞれの学芸はさらに細かな章節に分かれている。同じくナーシル時代にエジプト・シリアの文書庁に勤務したウマリーは,その経験をもとに20巻余の《諸国道里一覧Masālik al-abṣār fī mamālik al-amṣār》を著した。この書は〈土地〉と〈住民〉の2部からなるが,第1部は章ごとに各地の地誌を記し,第2部は宗派や歴史の解説に当てられている。アレクサンドリアでシャーフィイー派法学を修めたカルカシャンディーは,マムルーク朝スルタン,バルクーク(在位1382-89,1390-99)治下のカイロで文書庁に勤務し,みずからが極めた書記の技術(キターバkitāba)の真髄を伝えるべく14巻の大著《黎明Ṣubḥ al-a`shā》を著した。全体は10部からなり,〈書記の知識〉〈地誌〉〈文書の作成1,2〉〈地方行政〉〈官吏の任命〉〈イクター〉〈信仰〉〈条約の締結と破棄〉〈書記の学芸〉の各部は,章節の細かな区分によって体系的に構成されている。これらの百科事典的著作に共通しているのは,いずれも官庁勤務の長い経験をもつ書記が,その体験を生かして文書行政に必要な知識を体系的に,しかも具体的に叙述していることである。その知識は単に書記学の範囲にとどまらず,地誌,行政,自然科学,歴史にまで及んでいることが特徴であろう。書記の手引書としては,アッバース朝時代にスーリーal-Ṣūlī(?-947)が著した《書記の教養Adab al-kuttāb》があり,地誌と歴史の総合も,部分的にではあるが,すでにマスウーディーの《黄金の牧場と宝石の鉱山》によってなされている。しかしスーリーの書は小冊子の入門書であり,マスウーディーの著作もさまざまな情報が収められてはいるが本質的には地理書と歴史書を要約してつなぎ合わせたものにとどまっている。マムルーク朝時代の著作家は,これらの伝統を基礎として,より大部で,しかも総合的な知の体系化を実現したのである。
執筆者:佐藤 次高
中国の百科事典は辛亥革命を境として前後に分かれる。中華民国成立以前の百科事典は類書と呼ばれるものであって,今日の尺度からすれば厳密な意味での百科事典とはいえず,あくまでも中国的な百科事典であった。
類書が西欧風の百科事典とどのような点で基本的に相違するか,それは編纂の側と利用の側の両面からみて初めて,百科事典としての類書の性格が明らかになるであろう。類書は一般に,事物や現象に関する記事を既存の書物から抜粋し,これをいくつかの部類や項目に分類するという手順を経て編纂されるので,編纂者がみずから著述した書物ではない。これが編纂の側からみた根本的な相違点である。したがって類書は資料を羅列的に併記する,いわゆる資料彙編的性格を共通してもつ。類書に示されたこのような編纂態度は,中国的な認識の構造にかかわる。中国人は自然界,人間社会の全領域に存在する多様な事物や現象を多様性のまま認識するのを好んだ。その認識の上にたって,存在する万物を分割し秩序づける方法を,彼らはとるのである。すなわち自然現象や自然環境,人間の行為や思想さらには社会制度に至るまでを,くまなく分類し,認識の枠組みとしての類概念を設定して,体系的な認識を構成しようとするのである。ただ類書の記載がときとして枚挙的になり,類概念相互の関係が必ずしも十分に明らかにされないことがあるのは,やはり多様性を多様性のままに認識しようとする彼らの志向の反映といえよう。
さて著述的な要素を多少ともとり入れ,現在の百科事典に近づいた類書は,類書誕生後約1000年を経て著された,絵入りの類書である明の王圻(おうき)の《三才図会》をまたねばならない。王圻は《続文献通考》という政治制度の変遷を記した,多分に類書的色彩をもつ書物を編纂した学者であって,《三才図会》も内容がよく整っているので重用された。
類書を今日のわれわれは,百科事典と同じように,事項を検索するための事典として利用するが,編纂された当時にあっては,総合的な知識を増すために読む書物であった。ここが利用の側からみた百科事典との最大の相違点である。類書の出現によって,中国の知識人は,自国の全貌を歴史的にあるいは空間的に把握することが初めて容易に可能となったのであり,知識人の知識の性格にも変革を与えた。《華林遍略》《修文殿御覧(しゆうぶんでんぎよらん)》《芸文類聚(げいもんるいじゆう)》《太平御覧》に代表される典型的な類書は,ときに書名中に御覧という名辞が使われていることからも判断されるように,元来は皇帝の閲覧に供するために編纂されたものであった。いまその構成とそこに表された世界観のだいたいを示せば次のようになる。記載は自然現象・自然環境に始まり,人間・社会に関する事がらへと続く。それは人間が自然の道を体して生き,自然の秩序に従って社会の秩序を作り出すからであるが,社会秩序の形成と維持は天命を受けた天子のつとめとみなされるので,部類だてはまず皇帝ならびに帝室に関する事項についてなされ,次に統治のための制度,統治を支える価値体系,人間の行為・感情・思想へと及ぶ。記載の最後にくるのは人間の行為の対象となる金石・草木・獣鳥・虫魚の類で,人間がこれらの対象に働きかけていろいろな生活物資を作り出すことも,自然の道に従うものと意識される。
類書が百科事典的であるかぎりは,両者に類似するところがあるのもまた当然である。その1は,図書分類上の扱いに認められる。《国際十進分類法》《日本十進分類法》では,百科事典を総記(000)中に,《米国議会図書館分類表》では総合的著作(A)中に分類し,個別のジャンルに属する他の書物とは異なった扱いにしているが(図書分類法),中国でも同様の試みがなされたことがある。《四庫全書総目》が子部類書類の小序で〈類事の書は,四部を兼収して,経に非ず,史に非ず,子に非ず,集に非ず。四部の内,乃ち類の帰すべき無し〉と述べ,分類の対応に苦慮しているのはその現れである。中国では,六朝以来伝統的に書物を学術の系統に従って経・史・子・集の4部に分類してきた(四部分類)。類書は最初,雑家類に収められ,のち独立して1類をもつようになるが,雑家の書が子部に収められたのに制約されて,ついに子部の外に出ることはなかった。ただ類書を四部の末に置くべしという議論は明代にすでに存するのであり,嘉靖年間(1522-66)に胡応麟が,万暦年間(1573-1619)に祁承(きしようはく)がこれを主張している。もっとも四部分類法を採らない図書目録では,類書類はつとに独立の部門と認められており,それは南宋の鄭樵が著した《通志》芸文略の類書類,鄭寅の《七録》の類録に始まる。
その2は,図書編纂上の態度に認められる。ディドロは《百科全書》の百科事典の項目で〈百科事典は地球表面に散在する知識を収集し,その全体の見取図を同時代人に示し,またそれを後世に伝えることである〉と述べ,ベーコンの《学問の分類》にのっとりながら,あらゆる分野あらゆる時代において人間精神がなしとげたさまざまな努力の包括的な表を作ることから百科事典の編纂を始めた。一定の世界観と分類法にもとづいて個別の学術を総合化し体系化する態度は,類書と現在の百科事典に共通するところである。ただディドロが収集された知識を分類するために,人間の精神能力である記憶・理性・想像に対応して歴史・哲学・芸術(技術)の三大部門を置くのに対し,類書のそれが天・地・人の三大部門から構成されるのは,その構想の起点が人間の精神にあるか自然の道にあるかの違いによると考えられる。
第3の類似点は編纂史のなかに認められる。一般に類書は,前人のものを踏襲する形をとりながら,膨大化し,あるいは簡略化されて,当代に役だつように改編されるのであって,存在価値を失ったものはすぐに消滅してしまうという運命を担っている。この事態は,8年を費やして編まれた《華林遍略》720巻を一夜のうちに書写し,これに若干部の新書を加えて6ヵ月で完成させたという《修文殿御覧》が,当時にあってすでに〈床上に床を置き,屋下に屋を架けた〉役に立たぬしろものだとの酷評を被ったという逸話のなかに,象徴的に示されている。ただ,これは《修文殿御覧》にのみ例外なのではない。程度の差こそあれあらゆる類書にわたって指摘できる事がらである。それでも類書が編纂されつづけたのは,単に最新にして最高の情報が細大もらさず記載されてきたためだけではないのである。とりわけ百科事典的性格をもつ典型的な類書の編纂は,しばしば王朝の事業としてなされたので,皇帝の威信をかけて,時の権力の意にかなうように作り直されねばならなかった。そのため類書は皇王部・偏覇部といった部類の構成をつねに新しくしながら,各項目に記載される資料の選択を行う必要があったのである。編纂史の上で両者がいかに類似するかは贅言を要しまい。ディドロの《百科全書》ですら,事典刊行の直接の動機となったのは,イギリスのチェンバーズの《百科事典》の翻訳にあったことを指摘すれば十分であろう。
なお,類書は典故を検索し詩文を作るのにきわめて便利な事典であったから,その流行に伴ってもっぱらこれのみに依拠する知識人が現れるのもしかたがない。唐の楊烱(ようけい)(650-693ころ)が著した詩文の典故が《初学記》の域を出ないのは極端な例であるが,たとえりっぱな書物であっても,断片的な知識を集積した類書の流伝は後生の輩を誤らせるという朱熹(子)の言葉と,〈類書家は事を采(と)りて意を忘る〉と語った聞一多の言葉は,いずれもすぐれた思想家と文学者から発せられたものであるだけに,今日でも百科事典を編集する側,利用する側双方が心すべき内容をもっている。
類書の起源を何に求めるかについては議論のあるところであるが,筆者の考えによればまず第1は字書である。最古の字書で十三経の一つに数えられる《爾雅(じが)》においてすでに,類関係によって文字を区分する方法がとられており,親・宮・器・楽・天・地など19類に分けられるのであるが,後漢の劉煕(りゆうき)が著した《釈名》になると釈天・釈地に始まる27類がみごとに体系化されてくる。そして,こうした分類とその体系は後の類書に大きな影響を与えた。第2は賦である。賦は,漢代に盛んになった韻文の一形式であって,《文選》ではこれを京都・郊祀・耕籍・畋臘(でんろう)・紀行・遊覧・江南・物色・鳥獣・志・論文・音楽・情の13類に分かっている。この13類は賦の題材によって区分され,志と論文を除く11類はおおむね事物を描いたものである。賦の字には誦(朗読)と舗陳(並びたてる)の2義があるとされるが,ここに賦の特色が存するのであって,六朝士大夫の子弟教育に賦が用いられ,名物や景勝に関する知識を,事物の羅列という形式をとる賦の朗読を通して身につけたいというのは注目すべきことである。類書のなかの《北堂書鈔》や《翰苑》は,賦を意識して本文をつづり,これに注を付したものといえる。なお西欧の古代には,事物の名前を列挙するオノマスティコンonomasticonと呼ばれるジャンルがあった。名物学あるいは一覧表の学と称すべきもので,古く《創世記》のなかからも作品の例証を拾うことができるが,一時期の現象にとどまったところが,中国と異なる(名物)。また,日本の《枕草子》の雛型というべき唐の李商隠の《義山雑纂》には〈物は付け〉的記述があり,《紅楼夢》も,それを読むことによって近世の大富豪の生活環境を詳細に知ることができるなど,文学を通して百科的知識を得ることを中国人が好んだという一面も見のがせぬところである。
第3は雑家の書物である。それは《呂氏春秋》や《淮南子(えなんじ)》など,諸子百家と呼ばれる多くの思想家や技術者の幅広い知識を総合的に記述する書物であって,《隋書》経籍志の説くところでは雑家の書物は,王者の教化がすべての思想を貫くということを明らかにするところにある。類書が先に述べたように最初期には雑家の書と理解されていたことより判断すれば,類書は雑家の系譜を色濃く継承するものであることが理解される。
最後に述べておかねばならないのは,辛亥革命以後の動向である。この時期,西欧風の百科事典への志向は,《ブリタニカ百科事典》を読破していた王雲五によって始められた。それは結局,百科事典という形態をとらなかったけれども,彼の意図は叢書という形で達せられた。その最初の出版物は1920年に公民書局から出た《公民叢書》で,国際・社会・政治・哲学・経済・教育などの分野にわたって,国民に必要な知識を,欧米および日本の著述の翻訳を通して,提供しようとしたものである。それは江戸幕府が手がけた《厚生新編》と明治の《百科全書》,つまり日本の第1号と第2号の百科事典が西欧の百科事典の翻訳であったのと軌を一にしている。王雲五は翌21年から商務印書館にあって400余種の《百科小叢書》と4000冊2億4000万字にのぼる大叢書《万有文庫》の刊行を行っている。その後彼は60万の語彙を収める《中山大詞典》の編纂を独力で進めたが,9年を費やして第1巻を脱稿するにとどまった。
百科事典の編纂が最初に中国で計画されたのは1959年のことであった。65年ころまでにおおむね原稿は整ったが刊行に至らず,ようやく78年に国務院の決定を受けて中国大百科全書出版社が成立し,同社より《中国大百科全書》全80巻が出版される運びとなった。収録項目数は約10万,第1巻の《天文学》が80年に刊行されたのを皮切りに10年内外で完結することになっている。同書の特色は学問分野別に編集刊行するところにあり,巻頭に項目分類目録が掲げられていて,採録された項目の全体が体系的に示されている。もっともこれらの項目は各巻中においては,漢語拼音(ピンイン)字母の順に配列されているが,これはあくまでも検字の便宜を考えてのことであって,その構成は類書の伝統を継承したものと認めるべきである。このほか1979年に刊行された《辞海》を学問分野別の小百科事典に改編した同名の書が,80年に分冊で出版された。《辞源》《辞海》《辞通》といった辞典は辛亥革命の直後から編纂が始まり,改版を重ねながらいまなおその価値を失っていない。辛亥革命以後に百科事典の役割を果たしたのは,これらの辞典であったのである。
→類書
執筆者:勝村 哲也
現代の日本には,1万ページを超える大部の百科事典が幾種類もあるが,あらゆる分野の大小さまざまな項目が,見出し語の発音順に並ぶという形式の百科事典は,日本ではまだ100年の歴史しかもっていない。しかし,多方面の知識情報を総合的に記述しようとする努力は早くから続けられ,天に始まり地上の万物に及び,人事百般にわたる知識を記述し編纂した書物は,さまざまに利用されていた。以下,各時代に現れた百科事典的な書物の流れをみることにしたい。
中国の文化を受容することによって国家を整えた日本では,貴族官人が中国の制度文物について学ぶことは必須のこととされていたから,中国の種々の字典や類書は早くから輸入され,用途に応じて使い分けられていた。日本現存最古の図書目録である9世紀末の《日本国見在書目録》には,《芸文類聚》《初学記》《修文殿御覧》など,大部の類書の名がみえ,中国の百科事典的な書が用いられていたことがわかる。そして,勅撰漢詩集があいついで編纂された9世紀の前半には,日本でも類書の編纂が行われた。淳和天皇の勅を受けた滋野貞主(しげののさだぬし)が広く中国の典籍を渉猟してまとめた《秘府略(ひふりやく)》1000巻がそれであるが,現存するのは2巻のみで全容はわからない。平安時代も中期に入ると,中国への関心とともに日本を対象化してとらえようとする動きがみられるようになる。菅原道真が六国史のすべての記事を分類再編成して,《類聚(るいじゆう)国史》200巻(うち現存は61巻)を作ったのはその例の一つで,その分類と編成の枠組みは,中国の類書にならいながらもそれを改編し,六国史の世界に内在する原理をとらえたものであった。その編成は,日本的な類書の構成の原型となり,後世の和学に大きな影響を与えた。もう一つの例は,源順(みなもとのしたごう)が醍醐天皇の皇女勤子内親王の求めに応じて編纂した《和名類聚抄(わみようるいじゆうしよう)》10巻(略して《和名抄》,大幅に増補された20巻本もある)である。この書は,日本・中国の物名の語義と音訓を解説した辞書であるが,全体が類書的な部・門に編成されており,構成の面からみて百科事典的な性格をもっている。《類聚国史》が日本の国家と制度を中心とする官人貴族の百科事典であったとすれば,《和名類聚抄》は,宮廷で和歌が復興し仮名文字が普及しはじめた時期の,文人貴族の百科事典であったといえよう。この二つの事典は,いわゆる国風文化を支える知的な世界を示すものであった。
平安時代後期以降,貴族の子弟のために種々の初等教科書が作られるようになった。それらは〈往来物(おうらいもの)〉と呼ばれる書簡文例集形式のものが多かったが,必要な知識の手がかりとなる語句を網羅的にあげ,部・門ごとに配列するものも少なくない。中世・近世を通じて次々に作られた語句類聚形式の教科書は,きわめて簡略な形ではあるが,多方面の知識を集約している点で,百科事典的な性格をもっている。また,整然とした中国の類書から離れて,公家社会に伝えられる雑知識を説話の形で記述し,数々の説話を集積することが平安時代後期から盛んになったが,説話を分類し秩序立てて配列しようとした説話集は,種々雑多な知識を総合しようとしている点で,百科事典的な性格をもった。700余の説話を20巻30項目に分類編成した《古今著聞集(ここんちよもんじゆう)》は,鎌倉時代中期の公家文化の百科事典ともいうべき面をもっている。また,世の中のさまざまな問題についての知識を,類書的な方法ではなく,読物のなかに書き込むことが盛んになり,《太平記》のように軍記物としてだけでなく,雑知識の宝庫として読まれる書も少なくない。
中世に入って,武家や庶民のあいだにもさまざまな知識が普及しはじめた。鎌倉時代中期に作られた《塵袋(ちりぶくろ)》11巻は,和漢の古典や仏教に始まり日常生活にかかわるものまで,620の項目をとりあげ,それらの起源,典拠,語源などを平易な問答体で記述し,24部門にまとめている。室町時代に入ると,前代の人々の知恵袋であった《塵袋》にならって《壒囊鈔(あいのうしよう)》15巻が作られた。この事典は,項目を体系的に配列しておらず,公家・武家の文化,和・漢・仏の典籍に関する知識を混然と集めているところに,室町時代の文化の特色が表れている。室町時代の末には,《塵袋》と《壒囊鈔》を併せて一つにまとめた《塵添(じんてん)壒囊抄》20巻が作られ,近世を通じて広く用いられた。
公家の文化は,中世を通じて対象化され,憧憬の対象となったが,鎌倉時代の末に作られた《拾芥抄(しゆうがいしよう)》3巻は,平安時代以来の有職故実(ゆうそくこじつ)についての知識を集成した事典として重要な意味をもっている。また,中世の代表的な辞典である《下学集(かがくしゆう)》や《節用集(せつようしゆう)》は,類書的な編成をもっていたから,広く百科事典的な役割も果たした。
江戸時代は,社会的な変動が少なく,文治的な政治が進められたために,学芸の発達は著しく,武士・庶民の知的関心も高まった時代であった。また,仏教に代わって儒教が正統的な位置を確立して,世俗的なものへの関心が強くなった。17世紀の後半に編纂刊行された中村惕斎(てきさい)の《訓蒙図彙(きんもうずい)》20巻は,日本最初の挿絵入り百科事典で,太平の世の啓蒙的な事典として広く用いられ,間もなくそれに追随した《武具訓蒙図彙》《好色訓蒙図彙》《女用訓蒙図彙》などの,部門別事典が刊行された。数々の訓蒙図彙をみると,江戸時代前期の常識を知ることができる。こうしたなかで,近世の百科事典を代表する寺島良安の《和漢三才図会(わかんさんさいずえ)》105巻が現れた。良安は,明末に王圻が編纂した図入りの類書《三才図会》にならって,30年を費やして1713年(正徳3)にこれを完成させたが,両者を比べてみると,明末の隠士の古典を中心とした知的世界と,元禄時代の大坂で活動した医者の知識のあり方の違いが,よく表れている。この書は,《訓蒙図彙》の影響も受けているが,精巧な木版の技術や出版の盛行に支えられており,そうした面でも中世の百科事典とは異なるものであった。近世前期の上方文化のなかから生まれたこの百科事典は,明治以降も活版で刊行されている。
学芸の発達は学問の専門分化を生み出したが,近世の学問のなかで,百科事典的なものに深いつながりをもつものは,本草学であった。中国の本草学を中心に,日本で研究された薬学・博物学の知識を集成する試みはさまざまに行われたが,その代表的なものが18世紀の中期に稲生若水(いのうじやくすい)が編纂を始め,丹羽正伯が受け継いで完成させた《庶物類纂(しよぶつるいさん)》1000巻である。この書は近世の博物学を集大成したもので,編纂の過程で各地の学問に刺激を与え,その水準を上げたが,書物としては幕府に納められて一般に公開されることはなかった。他方,古典研究が盛んになると,日本の古典や歴史の世界を総合的にとらえようとする関心が高まり,18世紀中期に山岡浚明(まつあけ)の《類聚名物考》346巻が作られた。こうした関心は国学の発展を促したが,19世紀の前期には,屋代弘賢(ひろかた)が幕府の命を受けて《古今要覧稿》の編纂に着手した。この書は近世最大の百科事典で,内容もよく整っているが,弘賢の死により1000巻の計画は560巻で中絶した。また,塙保己一(はなわほきいち)が幕府の命によって編纂を始めた《武家名目抄(ぶけみようもくしよう)》381巻は,武家の社会と文化に関する百科事典であった。
江戸時代後期の学者文人たちは,広く古典を渉猟し,諸国の事情を聞くなどして,知識を蓄積することを競った。集められた知識は,随筆という形式で記述されたため,現在残されている膨大な近世の随筆群は,百科事典的な性格をもつものとして注目される。
18世紀末以来蘭学が勃興すると,蘭学者のあいだで西欧の百科事典が注目の的となった。フランスの司祭ショメルNoèl Chomelは,18世紀初頭に《Dictionnaire économique》という事典を刊行した。この百科事典は実生活に必要な知識を網羅したものとして広く用いられ,次々に英語,オランダ語,ドイツ語,スペイン語に翻訳された。18世紀の末に日本の蘭学者が入手したのは,《Huishoudelik woordenboek》と題されたオランダ語版であったが,19世紀の初めに幕府はその翻訳を計画した。馬場貞由を中心に,当代の代表的な蘭学者を集めて行われたこの近世最大の翻訳事業はなかなかはかどらず,アルファベット順に並ぶ項目のなかから,当面実用的な意味の大きい項目を選んで訳し,部門別にまとめて幕府に提出された。訳書は全体を《厚生新編》と名付けられたが,幕府要人のあいだで回覧されただけで一般にはその存在も知られず,やがて幕末維新の動乱のなかで蘭学が過去のものとなるなかで忘れられてしまった。苦心の訳業の全容が公刊されたのは,1979年のことである。
短期間に西欧の文化を受容しようとした明治政府は,さまざまな試行を続けたが,その一つに,イギリスの小百科事典《Chambers's Information for the People》の翻訳があった。1873年に計画されたこの国家事業は,箕作麟祥(みつくりりんしよう)らを中心とし,多額の費用を投入して進められた。訳稿は《厚生新編》と同様に,部門別にまとめ,電気編,交際編,経済編というような形で順次木版本で刊行され,全体を《百科全書》と名付けた。全編は後に有隣堂版30巻,丸善版3巻などの形でも出版されたが,この事業に続いて,西欧の家庭百科事典の類の翻訳出版が行われ,文明開化の時代を支えることになった。しかし,翻訳百科事典によって新知識を得ようとしたのは一部の人々で,多くの人々は,さまざまな新制度・新風俗など生活のための新知識を,新作の往来物などから学ぼうとした。こうした関心に応ずるために,伝統的な形式の実用百科事典が次々に現れたが,《明治節用大全》はその代表である。
欧化を推進した政府は,他方で神道国教化などの復古的な性格をもち,古典・古文書などを抄出して類聚しながら日本の制度・文物の沿革を明らかにする国学的な類書の編纂に着手した。1879年文部大書記官西村茂樹の建議に始まる《古事類苑》の編纂は,紆余曲折を経て1913年に和装本350巻,洋装本50巻・索引1巻という大部のものとして完成したが,江戸時代の《類聚名物考》や《古今要覧稿》を受け継ぎ集大成した日本に関する百科事典として,現在でも利用されている。また,物集高見(もずめたかみ)が独力で30年の歳月を費やして編纂した《広文庫》20巻,索引《群書索引》3巻も,同じ流れをくむものである。
平安時代に《色葉(伊呂波)字類抄(いろはじるいしよう)》という発音順配列の辞典が作られているが,古代以来日本の辞典・字典・事典は,類書的な部門別編成によるものが主流であった。しかし,東西の文化が混在する近代の日本で,中国の伝統的な類書の構成に依拠しながら,百科事典を編纂することは,しだいに無理になってきた。欧米式の百科事典の方式をとり入れた最初のものは,田口卯吉の《日本社会事彙》2巻で,1890-91年に刊行されたが,欧米の百科事典にならう総合的な事典の出版を計画したのは同文館であった。同文館は1901年に計画を発表し,《商業大辞書》6巻,《医学大辞書》8巻以下,分野別大辞書を刊行し,それらを併せて《大日本百科辞書》と名付けたが,この性急な出版事業は莫大な経費を要し,12年に同文館は倒産した。こうしたさまざまな試行を経て,本格的な百科事典が現れることになった。三省堂《日本百科大辞典》がそれで,1902年,大隈重信を総裁に,斎藤清輔を編集長として編纂が開始されたこの事業は,08年に第1巻を刊行したが,多くの困難に遭い,経済的にも行き詰まって,12年に三省堂が破産するに至った。しかし,この事業の挫折は大日本帝国の文化的な力の威信にかかわるという声もあがり,再建が計画され,19年に当初全6巻の計画が全10巻となって完成した。この百科事典は,明治時代の日本文化を集約したものとして,また高い見識と良心的な編集で高く評価され,日本の百科事典の歴史を画した。三省堂に次いで冨山房も《日本家庭百科事彙》2巻(1906)を出版したが,ようやく基盤が形成された市民社会を背景に,新しい百科事典の出版を計画したのが平凡社であった。独学で学んだ社主下中弥三郎は,万人の自学の手段として完備した百科事典を構想し,31年に刊行を開始した《大百科事典》全28巻(1935完結)は,初めて〈辞典〉ではなく〈事典〉という言葉を用い,日本の百科事典としての視点も明確にした編集で,第2次大戦前の日本文化の到達点を示すものであった。続いて冨山房も《国民百科大辞典》全15巻(1934-37)を刊行した。
第2次大戦の敗戦から,文化国家として立ち直ろうとするなかで,その基礎を作る役割を果たしたのは事典出版に力を注ぐ平凡社で,林達夫を編集長とした《世界大百科事典》は,戦後間もなく編集に着手し,1955-59年に全31巻と索引を刊行した。編集方針の第1に,〈世界的視野に立ち,先進大国のみならず後進諸国の諸文化をも軽視せずに採上げる。とくにアジアに関しては,欧米の事典の追随をゆるさぬ内容を盛る〉ことを掲げたこの事典は,現代の科学・技術における最高水準の成果の普及など,20世紀前半の文化を百科事典的な総合として集約することをめざしたが,すぐれた百科事典として広く受けいれられ,以後日本における百科事典の範型とされた。しかし,20世紀後半に入って科学技術の進歩はめざましく,最新の知識情報を集約する百科事典は,大小さまざまな改訂の必要に迫られることになった。また60年代以降,高度経済成長のなかで,文化,教育に対する関心が高まるなかで,《国民百科事典》全7巻(1961-62,平凡社)の成功を契機として,小学館,学習研究社,旺文社,TBSブリタニカなどの出版社から種々の百科事典が刊行された。こうした百科事典ブームのなかで,百科事典の役割やあり方が再考されるようになった。すなわち,大量化する情報に対応してこれを整理し,ますます専門分化する学問に対応して知識を総合し,市民に開かれた知識として提供すること,さらに国際化の趨勢のなかで人類文化の多様性を認識しみずからの文化を相対化すること,などが課題となっている。
執筆者:大隅 和雄
以上のように,広義の百科事典は知的形成史に深くかかわって,それぞれの時代に固有の性格をもっているが,とりわけ近代以降,広範に刊行・利用が進むなかで,新たな状況に直面しつつ,これに呼応して形態・内容ともに,変化をとげている。その変化のなかで,ときには,百科事典の長年の普遍的課題にこたえる画期的な役割を果たしたものもある。以下では,現代の百科事典をめぐる問題を列挙する。
(1)蓄積された伝統的知識を記載するばかりか,加速的に増大する新知識を収容するために百科事典は新たな形式を要求される。多くの代表的な事典が行っているように,一定の年限ごとに改版されるが,さらに情報の新鮮さを保証するためには,毎年の補訂巻を刊行している。さらには,ルーズリーフ・スタイルをとり,各葉には刊行日時を記入し,改変の必要が生じたときに,早急に入替えを行うというような徹底した例もみられる。
(2)現代における学問知識の高度化と大量化は,百科事典に困難な問題を提供している。19世紀以来,巻数の増加は顕著であり,質的に専門度の高い記述が増えることは避けがたいが,これは大衆的な商品としての性格と対立することが多い。
(3)百科事典はかつてディドロらが構想したように,専門家によって専有されていた知識を,一般社会に開放するという啓蒙的な性格をもっている。この目的のため,ヨーロッパにおいてはキリスト教会の統御から離れて,世俗化する傾向が明らかとなり,また以上にみたように,アカデミーの権威からも独立し,ときにはこれに対抗する事例がある。一般教育の普及によって百科事典への接近可能性が高まった一方,これら知的大衆に提供される情報は,より平易であることが求められ,記述の高度化とのあいだで矛盾を生じている。また知的大衆の使用にこたえるため,生活上の知識など,覆うべき情報も広範になっている。
(4)百科事典の歴史から明らかなように,事典は知識の全体系への眺望を提供する役割を負っている。F.ベーコン以来の体系観は,多くの百科事典が受け継いでいる。項目別の記述である本冊とならんで体系眺望の別冊をそなえるものもある。
(5)しかし,知識量は着実に増大し,これを読者の要請にこたえてより容易に検索できるように配列するためには,アルファベットあるいは五十音配列は避けがたい。現代生活にあっては,個々の知識は,全体系から離れて断片化された形で利用される。ここから百科事典項目における大項目主義と小項目主義の分離が起こり,現今では後者への傾きが著しい。両原則を採用して,全巻を二分する事例もある。
(6)文字記述ばかりでなく,図版や写真およびその解説をも含む多様な内容が一般的となり,今後は,音声資料もあわせ,さらに活字造本形態以外のものが急速に登場してくることが予想される。
(7)19世紀以降,各国の国民文化に相即した事典が一般となったとはいえ,需要の多様化に即して,対象と目的を限定した事典がみられるようになった。すでに17世紀末には,イギリスで女性用,ドイツで児童用の事典が作成されている。現今では各地方別,各民族別のものも成立し,記述の質が著しく多様化している。
(8)百科事典は,読者の思想を特定してはいないが,編集著作の側にあっては,特定の世界観の表明であることがしばしばである。啓蒙主義を掲げたディドロらの事典にみるように,知的・政治的立場の意識的宣言であることを免れない。レーニンも執筆した《ソビエト大百科事典》,ムッソリーニが〈ファシズム〉を執筆した《イタリアーナ百科事典》などの諸項目はその一例である。またこのため政治権力によって,刊行が妨害されるケースもあり,ナチズム下のドイツで,《ブロックハウス百科事典》《マイヤー百科事典》などが禁圧された例をあげることができる。
以上のように,現代にあって百科事典には新たな多様な課題がかけられている。歴史的な諸経過にかんがみても,百科事典は,時代や国民文化やより普遍的には人類の知識のその段階での記念物であることは明らかであり,そのことについての深甚な認識が,百科事典製作者と読者利用者,また研究者に対しても同様に強く要求されよう。
執筆者:樺山 紘一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
あらゆる自然的・人工的な事物、現象、事項および行動に関して解説を行い、さらに具体的に理解を助けるために挿画、地図、写真、図、表などを添えて、それらの項目を五十音(またはイロハ順)あるいはアルファベット順に配列した事典。近年は特定分野ないし一事項についての総合事典を「百科」と命名する傾向も現れている。中国語の場合には機械的な配列ができないので分類配列を行い、類書(るいしょ)と称する。類語として百科辞典、百科事彙(じい)、百科全書などがある。
百科事典とは英語でエンサイクロペディアencyclopaedia、アメリカ英語でencyclopedia、フランス語でencyclopédie、ドイツ語ではEnzyklopädieであり、いずれもギリシア語のegkúklios paideiaを語源としたものである。これはegkúklios(円環をなす、円満な)とpaideia(教育)の合成されたもので、全円的に集めた知識の教育の意であり、ギリシア哲学者の教育の理想を示したものであった。その理想はアリストテレスがアテネ郊外リケイオンに学校を開いて実現に努めた。また、彼は全知識の体系的著述も行い、それらのうち論理学、形而上(けいじじょう)学、政治学、文芸学、心理学および自然科学は残存して、その思想は現代まで影響力をもっている。
[彌吉光長・紀田順一郎]
ギリシア人は創造的で円満なる知識の教育をしたが、他の学者の説を整理することはしなかった。一方、ローマ人は創造よりも分類整理の術に長じていた。バロMarcus Terrentius Varro(前116―前27)の『学問論』Disciplineum9巻は当時の学問概説であり、プリニウス(大)はまた『博物誌』Naturalis Historiaで宇宙論、気象学、人類学、植物学ほかの各分野の専門書から抜いた知識を37の書に分類し、研究に役立てた(刊行は1473年)。
[彌吉光長・紀田順一郎]
中世になるとセビーリャ(スペイン)の聖職者イシドルスの『語源論』Etymologiae20巻がある。中世にはアラビア人はイスラム文化を盛り上げ、その結晶として多くの百科事典が出た。イブン・クタイバは『最高の伝統』Kitab‘Uyūn al-Akhbārを編し、古伝承や名句を分類編集した。イブン・アブド・ラッビヒはこれを増補して『無類の首飾り』Iqdとした。ペルシア人学者アル・フワーリズミーは『科学の鍵(かぎ)』Malātih al-‘Ulūmを編し、アラビア固有の学問とギリシア渡来学問とを別にまとめた。のちに、ペルシアの法学者アド・ダウワーニad-Dauwānī(1427―1501)は歴史と技術の発明百科事典『Unmūdag al-‘Ulūm』を編した。
14世紀ごろから文芸復興と宗教改革が南と北とでヨーロッパの精神界を揺り動かし始めるが、そのはしりともみられるのがドミニコ会の僧ボーベのバンサンVincent(1190?―1264)の『大鏡』Speculum mausであった。歴史、自然、教義、道徳の四鏡に分かれ、当時の広範な知識を集成した百科事典である。
[彌吉光長・紀田順一郎]
1630年になるとドイツ人アルシュテットJohann H. Alsted(1588―1638)は『分類百科事典』Encyclopædia septem tomio distinctaを著し、初めて「エンサイクロペディア」の語を用いた。これはプリニウス以後の分類型大著であったが、ラテン語で書かれたので一般には利用されなかった。
百科事典をアルファベット順配列に改めたのは1674年に発行された『大歴史辞典』Grand dictionnaire historiqueで、編者はフランスの僧モレリである。人名と地名の項目も多く、フランス語で書いて歓迎され、英語とドイツ語に訳された。また、現代的百科事典のはしりは、イギリス人チェンバーズが1728年ロンドンで出した『百科事典(サイクロピーディア)』Cyclopædia ; or an Universal Dictionary of Arts and Sciences4巻であろう。これは全知識をアルファベット順の大項目にまとめ、系統的記述で、喜ばれて版を重ねた。ただ、人名と地名はとっていない。リースAbraham Rees(1745―1825)が1778~1788年に5巻の増訂版を出し、1819~1820年には45巻の同名の事典が発行されている。また、イタリア語訳は1748~1749年9巻で発行された。さらに、フランス語訳はミルズJ. MillsとセリウズG. Selliusが企て、パリの出版者ル・ブルトンLe Bretonに持ち込んだが、契約は成立しなかった。しかし、ル・ブルトンは企画をあきらめず、ついに英語の翻訳者として知られたディドロに頼み、ディドロは友人ダランベールと共同で引き受けた。執筆を進歩的思想の名士に頼み、専門に応じて分担させ、ボルテール、モンテスキューをはじめビュフォン、ルソーなど啓蒙(けいもう)主義の一流の顔がそろったので、彼らは「百科全書派(アンシクロペディスト)」とよばれた。1751年にいよいよ第1巻が発行されると、大学をはじめ知識階級に好評であった。1772年に本文17巻と図版11巻を完成した。1780年にさらに本文4巻、図版1巻、索引2巻を完成した。『百科全書』Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers35巻である。この事典は国王専制と僧侶(そうりょ)の横暴を人民側から批判し、技術と生産を尊重したので、フランス革命の基礎を築いたとされている。
[彌吉光長・紀田順一郎]
現代百科事典の初めは『ブリタニカ百科事典』Encyclopaedia Britannicaである。銅版画家ベルAndrew Bellら3人は、市民たちの教養のためエジンバラで百科事典を100冊の分冊で発行することにし、1768年から毎週発行して71年に完了し、3冊に製本した。大項目主義で、各分冊に天文、地質、動物などをまとめ、また、小項目も数項目を収めた。その第9版と第11版は大学者や大詩人の執筆で、外国名士も執筆させるなど、Scholar's edition(学者版)ともいわれ、国際的に有名になった。しかし大資金を要して、経営は赤字続きで、1927年シカゴのシアーズ・ローバックに買収され、アメリカ式経営で立て直された。『アメリカーナ百科事典』Encyclopedia Americana13巻は、ドイツ系の政治学者リーバーFrancis Lieber(1800―1872)が『ブロックハウス百科事典』第7版を基礎に1829~1833年に出版。1918~1920年版30巻で、その権威を認められている。1923年から毎年改訂し、年鑑も補充発行して新機軸を出した。『ブリタニカ』も1936年から毎年改訂、1938年年鑑発行を開始、1975年大項目だけの本編20巻と小項目だけの付編10巻および参考文献の巻1冊を付す編成とし、以後この方式をもって改訂を続けている。
ドイツではツェドラーJ.H.Zedlerが1732~1750年に『万有百科大事典』Grosses vollständiges universal Lexikon aller Wissenschaften und Künste64巻を出版し、包括的学問の収容と詳細明確な論述を誇り、1955年再版した。もっとも普及し明確さを誇るのは『ブロックハウス』である。1796年からレバーG. Löberが破産で発行を中絶していた『家庭辞典』Frauenszimmer Lexikonを買収して改訂し、『会話辞典』Konversations Lexikon8巻として1808年に完成した。小項目主義で人名・地名が多く、好評であった。『Brockhaus Enzyklopädie』20巻(1966~1976)は22万項目を収める。この事典の形式は好評で、『アメリカーナ』のほか、オランダの『ウィンクラー‐プリンス百科事典』Grote Winkler Prins(1870)、イギリスの『チェンバーズ百科事典』(1859~1868)に採用された。現代のドイツでは1953年初刊の『ヘルダー大百科事典』Der Grosse Herder12巻や1972年初刊の『ベルテルスマン百科事典』Bertelsmann Lexicon10巻、1966年初刊の『デーテーファウ百科事典』dtv-Lexicon20巻など、学生や一般教養層を対象にしたものが版を重ねている。また、ロシアではエフロンI. A. Ephronがブロックハウスと共同出版で、『ブロックハウス・エフロン百科辞典』Entsiklopedicheskii Slovar'82巻・補巻4(1890~1907)を刊行した。革命前のロシアを知るための格好の事典である。ソ連時代には、国定の『ソビエト大百科事典』Bol'shaya Sovetskaya Entsiklopediyaが刊行され、第1版(1926~1947)65巻・別巻1、第2版(1950~1958)50巻・索引(2巻)、第3版(1969~1978)30巻という構成になっている。ロシアでは国家的プロジェクトによる『ロシア大百科事典』が刊行されている(1998~2003)。
フランスでラルースは1866~1876年に『19世紀万有大辞典』Grand dictionnaire universel du XIXe siècle15巻を発行し、のち小項目主義の『大ラルース』Grand Larousse encyclopédique10巻(1960~1964)、次に大項目主義の『大百科事典』La grande Encyclopédie20巻(1971~1976)を発行した。ほかに、水準の高い百科に『キレ百科事典』Dictionnaire encyclopédique Quillet10巻(1968~1970)がある。これは辞典をも兼ね、重要項目は詳説、約8万項目を収録している。現代フランスの百科事典としては、ディドロの『百科全書』の継承を目ざす『ユニベルサリス百科事典』Encyclopaedia Universalis20巻が1975年に完成している。
イタリアには『イタリアーナ百科事典』Enciclopedia italiana di scienze, lettere ed arti36巻(1929~1939、補遺7巻、1938~1962)がある。これは哲学者のジェンティーレの編集で、ファッショ色が濃いが、イタリアの都市の歴史や芸術家の伝記は質量ともに優れている。『イタリア大百科事典』Grande dizionario enciclopedicoも古い伝統を誇る。1984年に完成したディドロ『百科全書』の編纂(へんさん)方針を復活したエイナウディ版『百科全書』Enciclopediaも特色がある。
[彌吉光長・紀田順一郎]
中国の学問は伝統的に古典注釈学で、その集成したものが類書、すなわち百科事典であった。これは西洋の百科事典の初期と同様に、古典の集積である。
[彌吉光長・紀田順一郎]
秦(しん)末漢初2世紀までには『爾雅(じが)』が経典の注釈と事物の解説を兼ねて分類式に19編つくられ、辞典と事典の祖となった。次に魏(ぎ)には『皇覧(こうらん)』120巻、北斉(ほくせい)には『修文殿御覧(しゅうぶんでんぎょらん)』350巻の大著が、類書形式で編集されたが、散逸してしまった。現存の最古の類書は隋(ずい)の虞世南(ぐせいなん)の『北堂書抄』160巻である。これは、彼が隋の秘書郎時代に、秘書省の書庫北堂の貴重書を閲読抄出し、19部890類に編して注釈を加えたものである。唐時代には散逸していた文献を収めている貴重なもので、明(みん)代に万暦(ばんれき)版本(1576~1627)が刊行されている。唐官撰(かんせん)の『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』100巻は欧陽詢(おうようじゅん)らの編で45部、精密厳正な選択と注釈である。
唐以来、官吏試験の科挙制度が行われ、その準備のために類書が続出したが、名著といわれるものに徐堅(じょけん)(695―729)ら編『初学記』30巻、白居易(はくきょい)(楽天(らくてん))編『白氏六帖(りくちょう)』30巻がある。後者は、宋(そう)の孔伝(こうでん)が続30巻をつくり、さらに後人が新編を加え100巻とし、『白孔六帖(はくこうりくじょう)』という俗書にした。宋には、勅撰三大類書がある。『太平御覧(たいへいぎょらん)』1000巻は李昉(りぼう)(925―995)らが勅命で985年完成したが、古書珍籍を広く集めて55門に分類、刊行されたものである。次に李昉ら勅撰の『太平広記』500巻(983成稿)は瑞祥(ずいしょう)神仙の文を集めたもの。また、『冊府元亀(さっぷげんき)』(1013)1000巻は、宋の真宗の宰相王欽若(おうきんじゃく)(962―1025)らが君臣の行状功績を編したもので、名著といわれる。宋の王応麟(おうおうりん)(1023―1096)の『玉海(ぎょくかい)』200巻は科挙に重用され、その『小学紺珠(こんじゅ)』10巻は初学者向きの名著とされる。
[彌吉光長・紀田順一郎]
明の永楽帝は武力によって即位したが、文学を奨励した。彼は解縉(かいしん)(1369―1415)らに命じて大類書をつくらせ、『永楽大典(えいらくたいてん)』2万2877巻目録60巻が1409年に成った。一事項に全文を引用して、一大文庫を収める形式をとったものだが、清(しん)の乾隆(けんりゅう)帝時代にこのなかから『四庫全書(しこぜんしょ)』に十数部の逸書を収めた。しかし、この大著も散逸して世界に現存するものは800余巻にすぎない。明の有名な類書は万暦年間に集中している。馮琦(ひょうき)編『経済類編』100巻、徐元太(じょげんたい)編『喩林(ゆりん)』120巻、章潢(しょうおう)編『図書編』127巻、明末の董斯張(とうしちょう)編『広博物志』50巻、兪安期(ゆあんき)編『唐類函(とうるいかん)』200巻などである。なかで王圻(おうき)編『三才図会(さんさいずえ)』106巻は天地人あらゆる事項を14門に分類、各項を図説しており、現代の百科事典に近い。
[彌吉光長・紀田順一郎]
清の聖祖康煕(こうき)帝は1701年に張英(1637―1708)らに『淵鑑類函(えんかんるいかん)』450巻を編せしめた。これは、唐以後の詩文と事跡の集成である。聖祖はさらに古今の文献を網羅して大類書をつくることを陳夢雷(ちんぼうらい)などに命じたが不備のため、さらに蒋廷錫(しょうていしゃく)(1669―1732)らに命じた。帝の死後1725年に『欽定(きんてい)古今図書集成』1万巻が成り、その後改修して1729年銅活字で80部の印刷が完成した。6彙編(いへん)、32典、6109部の3段階に分類され、中国の文献はこのなかに収まるといわれる。聖祖はまた、張廷玉(1672―1755)らに『子史精華』160巻を編せしめ、1727年に完成した。儒書史書の集成も行っている。
[彌吉光長・紀田順一郎]
中国では政治、経済および文教の文化史的類書の一群を「九通(きゅうつう)」と称する。初め唐の杜佑(とゆう)(753―812)は『通典(つてん)』200巻を編し、古代から天宝まで(755)の食貨(経済)、選挙、職官、礼楽、兵制、州郡、辺防などに類別し、その史料の精粋をつかむこと正史に勝ると評価されている。南宋の馬端臨(1205―1274?)はこの後を継いで、1224年までの政治、経済、文教などの文化史の文献を分類編集して『文献通考』385巻に収めた。同じく南宋の鄭樵(ていしょう)(1104―1162)も杜佑に倣い、『史記』から『隋書』までの文化史を検討して『通志』200巻とした。断代の正史を古今通じた諸文化史でとらえた特色がある。清の乾隆帝(高宗)はこの「三通」を継いで『欽定続文献通考』252巻(1747)、『欽定続通典』144巻(1767)、『欽定続通志』640巻(1767)を編せしめた。また、清朝の文化史を『欽定皇朝文献通考』261巻(1747)、『欽定皇朝通典』100巻(1767)、『欽定皇朝通志』126巻(1767)に編せしめた。さらに南宋の宋白(そうはく)の『続通典』(逸書)と明の王圻(おうき)の『続文献通考』244巻があるが、乾隆帝はその不備を改めた。清末に劉錦藻(りゅうきんそう)は1905年『皇朝文献通考』320巻を編し、清朝末までに400巻(1911)に増補した。正続各三通に皇朝三通を加えて「九通」と称し、劉錦藻編を加えて「十通(じっつう)」ともいわれる。
[彌吉光長・紀田順一郎]
西洋の方式を取り入れた最初の百科事典は陸爾奎(りくじけい)ら編の『辞源』上中続3冊で、1913年に上中編、1929年に続編が出た。また1943年に新版が発行されている。ほかにも春明出版社版『新名詞辞典』(1949)と同社編新華書店発行の『世界知識辞典』(1959)の小形百科事典がある。なお、中国では1978年、80冊10万項目の企画が定まり、1980年胡喬木(こきょうぼく)(1911/12―1992)が主任となって『中国大百科全書』が発行され始め、カラー写真、分類式で、外国文学2冊、戯曲、曲芸、天文学、法学、環境科学、紡織など各分野にわたる分冊事典の形態によって刊行されている。
台北の中国文化大学、中華学術院編『中華百科全書』20巻が張其昀監修で1981年完成。
[彌吉光長・紀田順一郎]
韓国には『東亜原色世界大百科事典』30巻(1982~1984)がある。
[彌吉光長・紀田順一郎]
日本では、唐から輸入の類書がもっぱら用いられた。『日本国見在書目録』にも『物始(ぶつし)』『修文殿御覧』『華林遍路(かりんへんろ)』『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』などをあげている。
[彌吉光長・紀田順一郎]
最初の類書は、滋野貞主(しげののさだぬし)らによる831年勅撰(ちょくせん)の『秘府略(ひふりゃく)』1000巻で最大最高であった。いまわずかに「百穀」と「布帛(ふはく)」の一部が現存する。大江音人(おおえのおとんど)の『群籍要覧(ぐんせきようらん)』40巻、菅原是善(すがわらのこれよし)編『会分類聚(かいぶんるいじゅう)』70巻などは滅び去った。日本的類書の萌芽(ほうが)は、源順(したごう)の『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』10巻である。名詞を分類別に並べて、和訓を万葉仮名で付し、出典をあげたものであり、これにはさらに、分類24門を32門に増補した二十巻本もある。その門人源為憲(ためのり)は『口遊(くちずさみ)』1巻(970)をつくっている。藤原誠信(しげのぶ)の教育のため、天地人19門の最小の類書であり、歌謡の形式で親しみやすく、記憶に便利な特色がある。児童百科事典の起源である。鎌倉末期(13世紀末)の『塵袋(ちりぶくろ)』(著者不詳)11巻は事物起源についての問答体の形式をとっているが、この影響で僧行誉(ぎょうよ)は『壒嚢鈔(あいのうしょう)』15巻(1445)をつくった。その前年には『下学集(かがくしゅう)』2巻ができている。これは、通俗用語に有職故実(ゆうそくこじつ)まで加えて和訓をあげたもので、著者は東麓破衲(とうろくはのう)というから禅僧であろう。洞院公賢(とういんきんかた)は有職故実を中心に『拾芥抄(しゅうがいしょう)』3巻を編した。この両書は江戸時代に増補して使われた。文明(ぶんめい)年間(15世紀末)に『節用集(せつようしゅう)』が成立し、江戸時代には辞典から家庭の実用書としても利用された。
[彌吉光長・紀田順一郎]
江戸時代には中国的類書が先行した。中村惕斎(てきさい)は『訓蒙図彙(きんもうずい)』20巻で中国の事物を図説した。1666年(寛文6)初版序、増訂版1695年(元禄8)である。1694年には宮川道達(みちさと)編『訓蒙故事要言』10巻、平住周道(ひらずみかねみち)作『唐土訓蒙図彙』14巻(1719序)、服部南郭(はっとりなんかく)『大東世語』5巻(1704序)と続いている。伊藤東涯(とうがい)『名物六帖(めいぶつりくちょう)』31巻は白楽天の『白氏六帖』の書名によったが、中国の制度・事物を解説した類書で、高弟奥田士亨(しこう)の校訂で1726年(享保11)に刊行された。貝原益軒(かいばらえきけん)の『和漢名数』2巻(1678)、同続2巻(1695)は要領のよい類書である。中国型類書の傑作に医師寺島良安(りょうあん)の『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』105巻(1715)がある。明の王圻の『三才図会』の形式により全体を96類に分類した図説で現代百科事典の先駆である。医師の科学的研究法によって、伝説を信ぜず、合理的、実証的で、異説も注記しており、現代にも通用する。本草(ほんぞう)学者稲生若水(いのうじゃくすい)は『庶物類纂(しょぶつるいさん)』を編し、362巻まで清書して没した。将軍吉宗(よしむね)はこれを惜しんで丹波正伯(にわしょうはく)に続集を命じ、1747年(延享4)に正編1000巻、補編514巻で完成した。和漢の物産を本草書から地誌、紀行まで広く探って比類のない類書とした。そのほか日本歴史有職の類書の大作がある。書物奉行(ぶぎょう)浅井奉政(ともまさ)(1697―1734)編『事纂』121巻(1724成)、公卿(くぎょう)高橋宗直(1701―1785)『宝石類書』130巻(1752序)、大典顕常(だいてんけんじょう)編『皇朝事苑(こうちょうじえん)』4巻(1782刊)、畔田伴存(くろだともあり)『古名録』83巻(1843成、1890刊)がある。尾崎雅嘉(まさよし)(1755―1827)の『事物博採』は漢土54巻、皇朝30巻、各別に広くとって各19門に分類している。
江戸中期になると、日本の事物を和文で解説し、古書珍籍から抽出分類した日本式類書が出現した。山岡浚明(まつあけ)の『類聚名物考(るいじゅうめいぶつこう)』342巻である。日本の事物に関する古典珍籍の抜き書きをつくり、32部に配列し、各事項ごとに総説、引用文、異説、考証、結論を行った(1905年7冊発行)。その孫弟子にあたる当時の大学者屋代弘賢(やしろひろかた)は、国学の隆盛に伴い、国書の類書の必要を感じて進言し、幕命で一大類書を編集することになった。『古今要覧稿(ここんようらんこう)』である。中途で弘賢が死亡し、後任者を得ないので、浄書本518巻を献呈して中止されたが、これは『類聚名物考』によりながら、各藩の学者にその藩の事物の実査をしてもらうなど、実証主義的であった(国書刊行会1908年版は、稿本を加えて約700巻を『古今要覧稿』6冊として刊行)。類書の形式を庶民生活全体に広げ、その起源、発展、現代までを考証した類書で、その独創的実証に柳田国男(やなぎたくにお)が賞賛しているのは、喜多村筠庭(いんてい)(1783?―1856)の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』12巻である。江戸の食住習慣から遊芸、門付(かどづけ)まで27門に収めている(日本芸林叢書(そうしょ)刊)。
幕末にはオランダ系百科事典の翻訳が行われた。幕府が購入した蘭訳(らんやく)ショメル『日用百科事典』Huischou delijk woordenboekを、天文方高橋景保(かげやす)を通じて、馬場佐十郎、大槻玄沢(おおつきげんたく)らが翻訳を命ぜられたものである。しかし、馬場は2年後箱館(はこだて)に去り、高橋は1829年(文政12)シーボルト事件に連座して死んだため、翻訳は医学本草に限って進行を許され、終期は明らかでないが宇田川榕菴(ようあん)の死で中絶した。正式名は『厚生新編』70巻で、静岡県立中央図書館葵(あおい)文庫で存在が確認され1937年(昭和12)に複製された。
[彌吉光長・紀田順一郎]
明治の百科事典編集は、文部省で開始された。編輯寮頭(へんしゅうりょうのかみ)箕作麟祥(みつくりりんしょう)はチェンバーズの『国民知識事典』Information for the People第5版2巻(無刊記)の全訳を1873年(明治6)に開始し、『百科全書』と命名。1874~1884年93編でほとんど全訳、1883~1885年に丸善(まるぜん)はこれに索引をつけて3巻として発行した。次に西村茂樹(しげき)は、神宮司庁の援助で『古事類苑(こじるいえん)』を編集、1896年帝王部を出版、1914年(大正3)索引を刊行し洋装50巻を完成した。日本類書の集大成であった。また、物集高見(もずめたかみ)は独力で日本的類書『広文庫』20巻と『群書索引』3巻を1915~1916年に出版した。
ヨーロッパ式百科事典は田口卯吉(うきち)によって開始された。彼はまずボーンHenry Born編『Political Cyclopaedia』を『泰西政事類典』4巻に訳し、1882~1884年に発行、また『大日本人名辞典』4巻を1884~1886年に出版した。次に、『日本社会事彙』3巻を1888~1901年に刊行、再版、3版で好評を得た。彼はさらに『エンサイコロペチャ・ジャポニカ』を目標としていたが、実現をみずに没した。「現代の大家が専門の学術を分担執筆する」という彼の目標は、1908年(明治41)に第1巻が発行された三省堂(さんせいどう)亀井忠一(ちゅういち)の『日本百科大辞典』10巻に受け継がれた。しかし、大家の原稿の取りまとめと、挿画・写真の完全化は投資力を超え、1912年(大正1)、第6巻発行後破産し、斎藤精輔(せいすけ)が同辞典完成会をつくり1919年に索引を入れた10巻目が完成した。また、同文舘(どうぶんかん)主森山章之丞(しょうのすけ)は、ドイツ式に全学問の専門事典発行の計画をたてたが、大事業で負担に耐えず破産し、同刊行会によって完成された。すなわち、次のとおりである。『商業大辞書』6巻(1905~1908)、『医学大辞書』8巻(1906~1910)、『法律大辞書』5巻(1909~1911)、『教育大辞書』6巻(1907~1908)、『哲学大辞書』6巻(1909~1911)、『工業大辞書』8巻(1909~1913)、『経済大辞書』9巻(1910~1916)。
冨山房(ふざんぼう)の坂本嘉治馬(かじま)は芳賀矢一(はがやいち)と下田次郎編『日本家庭百科事彙』2巻(1906)をはじめ大出版を次々に行っていたが、1934年(昭和9)から『国民百科大辞典』15巻を発行、1937年に完成した。これは、ブロックハウス方式で成功した。平凡社の下中弥三郎(しもなかやさぶろう)は、世界国家と教養を主義として出版を続けていた。『大百科事典』28巻はその事業の一環で、毎月1巻発行の宣言をほとんどそのまま実現して1933~1934年の短期に完成した。
[彌吉光長・紀田順一郎]
第二次世界大戦後には、国際的大変革に応じて平凡社が『世界大百科事典』32冊を1955(昭和30)~1959年に完成。1960年代に入ると高度成長の持続と情報化社会の到来を背景に、平凡社の『国民百科事典』7巻(1961)や講談社の『新家庭百科事典』7巻(1968)をはじめとする家庭向けの企画が生まれ、百科事典読者の需要を新たに喚起した。この需要のうえにたって、まず小学館が『大日本百科事典』(『エンサイクロペディア・ジャポニカ』)19巻を1967~1972年に発行した。参考図書の付記と全カラー印刷は日本最初のものであった。ほかにも、ブリタニカ社が東京放送・凸版印刷3社合同で『ブリタニカ国際百科事典』30巻を1974~1975年に発行。大項目、小項目、書誌の三部構成であった。1995年(平成7)には第3版が全19巻(ほかに索引1)で発行されている。また、学習研究社は『グランド現代百科事典』21巻を1970~1974年に発行している。1984年になると、平凡社が『大百科事典』16巻を刊行、小学館も同時に『日本大百科全書』(『エンサイクロペディア・ニッポニカ2001』)25巻(~1989年)を発行した。児童向けには、玉川学園編(誠文堂新光社発行)『玉川児童百科事典』(新版1967版)、小学館『こども百科事典』12巻(1973版)、同『21世紀こども百科』シリーズ(1991~、既刊シリーズで8冊)、学習研究社『学習カラー百科』10巻(1972版)、同『新図詳エリア教科事典』(分野別、1994)などがある。
[彌吉光長・紀田順一郎]
社会の複雑化、科学の分肢、開発の発展に伴い、百科事典の項目は多様で巨大になる。そのため現代的百科事典では、項目構造にもくふうがみられるが、大別すれば大項目主義、小項目主義、さらには大項目と小項目とを調和配列させる折衷主義となろう。
大項目主義とは、全知識・情報を数千、もしくは数万項目にまとめるもので、1項目は1分野を組織的に展開し、他の項目と巧みに連関を行う。『ブリタニカ』(3万余項目)はその例であり、教養的読書に便利な事典といえる。
小項目主義とは、十数万項目を選び、あらゆる事項をあらゆる角度から簡潔に圧縮して説明するもので、情報を瞬間的にとらえることができる。『ブロックハウス』(32万項目)はその例である。
折衷主義は以上の両者を兼ねたもので、『アメリカーナ』(6万7000項目)をはじめ、日本の大多数の百科事典がこの例である。
そのほか、大小項目分割の例として『ブリタニカ百科事典』の15版がある。大事典macropaedia(1万項目)19巻、小事典micropaedia(10万項目)10巻で、教養と情報の2部に分かれている。ラルース社もまた『ラルース大百科事典』(10万余項目)10巻と『大百科事典』(1万余項目)20巻をそれぞれ独立に発行したが、前者は情報的、後者は教養的事典となっている。また、辞典を兼ねるものに前述の『ブロックハウス』があり、日常生活の便宜を図っている。さらに情報専門の百科事典として、アメリカの『コロンビア百科事典』The Columbia Encyclopedia(10万項目)1巻がある。
内容別には、小・中・高等学校各別に、学習用の百科事典、また家庭生活を中心とする家庭百科事典、専門領域の事項だけを扱う分野別事典がある。
[彌吉光長]
情報化社会の成熟により、多様なメディアから各種の情報が氾濫(はんらん)している今日、情報の標準性、的確性、権威性、鮮度などを備えた百科事典が求められている。百科事典の形態上の特色は、多くの異なった分野の専門事典の集積という性格を備えているため、一つの事項について相互参照が可能な点を活用したい。たとえば動植物の名前については、植物学、園芸技術などの知識のほかに、民俗学上の知識や文学上の意味などが理解できる場合もある。このために、百科事典の項目には必要に応じて参照の指示があり、索引も充実させるようにつとめている。
このような百科事典独特の機能は、電子化の時代を迎えていよいよ強化されることになった。とくに全文検索を利用することにより、従来の常識を超える関連項目数を検索することができる。たとえば特定の古典の書名を検索すると、その古典にふれているすべての項目を知ることができ、多角的な理解と情報の取得に役立てることが可能である。
百科事典のもう一つの役割は、あらゆる知識についての体系性や重みづけを理解し得ることである。たとえば人名、地名をはじめとする固有名詞は、一定の基準とバランスのうえで選択され、記述されているので、客観的な重要度や全体のなかの位置、相互関係などを把握することができる。これは利用者が不案内な事項について、周辺情報も含め体系的な理解を得たい場合にはとくに便利な機能といえる。
電子化によって、百科事典の記述は従来よりも詳細に多面的になる傾向があるが、もっとも有効な活用法としては以上のような性格を理解しながら、折りにふれていろいろな項目を読んでみることが必要であろう。それによって百科事典が扱っている範囲、記述の内容、奥行きなどが理解され、いざという場合に的確な利用が可能となるであろう。
[紀田順一郎]
社会の多様化によって百科事典への要求が複雑になるにつれ、情報の更新、参照機能の強化、索引項目の増補などを能率的に処理するため、電子化の動きが生まれてきた。世界に先駆けて百科事典の電子化を実現したのはアメリカで、1986年に『グロリア電子百科事典』The Grolier Electronic EncyclopediaがCD-ROM(ロム)として先鞭(せんべん)をつけた。これは印刷本の『アカデミック・アメリカ百科事典』The Academic American Encyclopedia約3万4000項目の本文に図版と地図を加え、それらを項目索引、語彙索引、条件索引、図版および地図索引など4通りの手段により検索可能としたもので、テキストの複写など簡単な情報処理機能も備えていた点で、初期の電子百科事典の標準となった。このCD-ROM百科事典は、いち早くインターネット機能を採用した新版『グロリア・マルチメディア百科事典』Grolier Multimedia Encyclopediaへと発展、印刷本の百科事典の課題であった敏速な増補改訂を可能とした。現在『グロリア電子百科事典』は本体の3万9000項目に加え、初級学習者向けの『知識の本』The Book of Knowledgeおよび専門家向けの『アメリカ百科事典』Encyclopedia Americanaを加えた会員制の総合百科事典サイト『グロリア・オンライン』Grolier Onlineとして機能している。
このほか1990年代前後のアメリカでは、パーソナルコンピュータ(パソコン)の急速な普及を背景に、ビデオ映像、アニメーション画像などマルチメディア機能を加えた『コンプトン百科事典』Comton's Interactive Encyclopedia、言語辞書と百科事典を兼ねた『ウェブスター・インタラクティブ百科事典』Webster's Interactive Encyclopedia、各種の記録的な数字をベースとした『ギネス百科事典』The Guiness Encyclopediaほか多数の企画が出現、8万2000項目を収録する学術的な百科事典『ブリタニカCD-ROM』Britanica CD-ROMや『ブリタニカ電子索引』Britanica Electoronic Indexなども、いち早くインターネットとリンクが図られた。この時点までは活字版の電子化が常識であったが、1993年に出版資本以外の勢力としてパソコン業界の大手マイクロソフトが参入、企画段階から電子出版を前提に本文を作成した『エンカルタ』Encartaを発刊した。当初は中百科事典なみの1万5000項目だったが、豊富な図版や地図をはじめ、音声、ビデオ映像、アニメーションなどを収録、10万か所以上のリンクを行った点が特色である。
ヨーロッパ各国においては、まずイギリスで1991年に2万7000項目を収録した『ハッチンソン電子百科事典』Hutchinson Electoronic Encyclopediaが刊行され、以後の改訂を経て現在5万3000の項目と4000の図版を収めた『ハッチンソン・マルティメディア電子百科事典2000』Hutchinson Multimedia Encyclopedia 2000となっている。フランスでは辞典を含む11万5000項目の『アシェット・マルチメディア百科事典』Hachette Multimedia encyclopédie、ドイツでは『マイヤース・マルチメディア百科事典』Meyer - Das multimediale Lexikon、イタリアでは『マルチメディア百科事典』Dizionario Enciclopedico Multimedialeなど、各国から電子百科事典が相次いで刊行された。
カナダでは『カナダ百科事典』Canadian Encyclopediaがマルチメディア的要素を十分とりいれたCD-ROMとして登場、現在はオンライン版も登場している。1996年に刊行されたロシア初の電子百科事典『キリル・メフォディア大百科事典』Болъшая энциклопедия Кирилла и Мефодияは8万項目の上に1万の図版を加え、ビデオ映像や音声資料などを収録している。そのほか、スペイン語の『サンティラーナ百科事典』『マルチメディア・ユニヴァーサル百科事典』やアラビア語(英語併記)の『Al Mawred Al Hadith Encyclopedia』などがある。
日本では1995年(平成7)、平凡社『世界大百科事典CD-ROM版』が、原本31巻に収録された9万項目、索引40万語、図版4200点などをそのまま電子化、次いで1996年小学館『日本大百科全書』(ニッポニカ)全26巻の電子ブック版が発売された。その後、前者は日立デジタル平凡社版『世界大百科事典プロフェッショナル版』として、後者は『日本大百科全書+国語大辞典』(スーパー・ニッポニカ)としてCD-ROM化(のちにDVD-ROM)、それぞれ大幅な増補が行われた。『ブリタニカ国際大百科事典』(TBSブリタニカ)も活字本に小項目事典の電子ブック版を付した(その後さらにCD-ROM版もセット化)。
1997年に刊行されたマイクロソフトの『エンカルタ97』日本語版は、本文1万7500項目のほかに6000点以上の図版、地図をはじめ、音声、ビデオ映像などを収録、検索機能も10万5000か所へのリンクをうたって、百科事典のマルチメディア化を促進した。これに対する日立デジタル平凡社版『マイペディア97』も、日本およびアジア関連の項目を重視した約6万2000項目に写真、絵をはじめビデオ映像、アニメーション画像、年表、地図、図鑑などの機能を加え、一時は電子ブック版やPDF版も刊行した。
インターネットの普及とその検索機能の進歩は、電子出版としての百科事典のあり方に大きな変化を促すこととなった。各国とも新しい利用者の需要を、よりいっそう迅速なデータ更新と、内容の総合化によって満たそうとしているが、そのためには大容量のDVD-ROMの利用はもとより、ネット上でのコンテンツ展開が常識化しつつある。日本でも『世界大百科事典』および『マイペディア』が会員制のサイト『ネットで百科@Home』(日立システムアンドサービス)に移行したのをはじめ、小学館版『日本大百科全書』の場合も、これを含む多数の辞書やデータベースによる同じく会員制の総合的知識探索サイト『JapanKnowledge』(ジャパンナレッジ)へと発展、現代の百科事典に要求される信頼性、網羅性、体系性に合わせ、迅速なデータ更新を実現している。
[紀田順一郎]
『彌吉光長・岡田温著『百科事典の歴史』(1964・平凡社)』▽『彌吉光長著『百科事典の整理学』(1972・竹内書店)』▽『梅棹忠夫・加藤秀俊・小松左京著『百科事典操縦法』(1973・平凡社)』▽『F・ヴェントゥーリ著、大津真作訳『百科全書の起源』(1979・法政大学出版局)』▽『桑原武夫編『フランス百科全書の研究』(1954・岩波書店)』▽『ディドロ、ダランベール編、桑原武夫訳編『百科全書――序論および代表項目』(岩波文庫)』▽『J・プルースト著、平岡昇・市川慎一訳『百科全書』(1979・岩波書店)』▽『『世界CD-ROM総覧'97』(1996・ペンローグ)』▽『Erin E. Holnberg editor :CD-ROMS IN PRINT 1997(1997, Gale Reserch)』▽『ナウカ洋書案内『КНИГА クニーガ』(1997・ナウカ)』▽『The CD-ROM Directory,16th edition :(1998,TFPL Multimedia)』▽『The Multimedia and Cd-Rom Directory 1998 (1998, Marketplace)』▽『津野海太郎著『だれのための電子図書館?』(1999・トランスアート)』▽『石川徹也編『デジタル百科への期待(人文学と情報処理23号)』(1999・勉誠出版)』▽『『世界CD-ROM総覧―日本および海外2001』(2001・日外アソシエーツ)』▽『Jef Sumner(ed.);CD-ROMS IN PRINT(2003, Gale Reserch)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…言葉の発音や解釈を行うものを辞典dictionary(辞書)というのに対して,事項・事件の記述をするものを事典encyclop(a)ediaという。しかし必ずしも厳密には区分されずに,西洋でも《グローブ音楽辞典Grove’s Dictionary of Musics and Musicians》のように,事典でありながらdictionaryと称するものも多い。…
…同じころパリ王立植物園長だったビュフォンが36巻におよぶ《博物誌》を刊行,進化思想で系統づけた自然誌を出した。以後は,知識がふえて内容が膨大になるのと数学的科学が自然科学の中心になったので,自然誌は百科事典にその役割をゆずった。 中国では3世紀に魏の文帝の命で繆襲(びゆうしゆう)らが《皇覧》(120巻,《隋書》経籍志による)を編纂したのをはじめとして,いわゆる〈類書〉が編纂されるようになった。…
…その呼称は,宋の欧陽修などが編纂した図書目録《崇文総目》や《新唐書》芸文志が,これらの書物に類書という分類を与えたのに起源し,《四庫全書総目》以降一般に定着した。一種の百科事典ではあるが,編纂者がみずから著述した書物ではない点で,現在の百科事典と根本的に異なるところがあり,資料彙編的性格が強いので,むしろ叢書に近いといえる。類書は,一度世に出た単行書を集成した叢書とともに,中国で特異な盛行をみたのであり,六朝時代から清代まで各時代にわたって編纂され,叢書の場合と同じく王朝の事業として当時の知識人を結集して作られたものも多い。…
※「百科事典」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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