スターリング(読み)すたーりんぐ(英語表記)Ernest Henry Starling

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スターリング」の意味・わかりやすい解説

スターリング(James Stirling)
すたーりんぐ
James Stirling
(1926―1992)

イギリスの建築家。グラスゴーに生まれる。1942年リバプール美術学校入学後、陸軍に従軍し、1944年、第二次世界大戦の連合軍によるノルマンディー上陸作戦に参加した。戦後、軍の奨学金で建築を学ぶ。1945年、リバプール大学建築学科に入学し、C・ローの指導を受ける。1949年、交換留学生としてアメリカに滞在。1950年、リバプール大学を卒業。1953年までロンドンの都市計画の専門学校で学ぶ。1953年、ライオンズ・イズラエル・アンド・エリス事務所に入所。この前後、各地のル・コルビュジエの建築作品をまわる旅を行う。1956年、ジェームズ・ガウワンJames Gowan(1923―2015)と事務所を開設。1963年まで共同し、1964年から個人で設計活動を始める。1971年以降、マイケル・ウィルフォードMichael Wilford(1938―2023)と共同する。

 スターリングは、戦後のイギリス建築界において指導的な役割を果たした。近代的なデザインでありながら、伝統的なモチーフを参照したり、生涯を通じて幾度か作風を大きく変化させた。折衷主義的な傾向をもつ1950年代は、住宅作品を手がけた。ハムコモン・フラット(1957、ロンドン)は、ル・コルビュジエのジャウル邸(1955、パリ)の影響を受け、伝統的な素材である煉瓦(れんが)と近代的なコンクリートを共存させている。こうしたデザインは、ニュー・ブルータリズム(素材を生かした荒々しい造形を特徴とする建築の作風)であると指摘された。

 1960年代に手がけたレスター大学ほかの大学施設の建築によって、スターリングは一躍有名になる。レスター大学工学部(1963)は、ピロティがある細長いタワーの管理棟や鋸歯(きょし)状のガラス屋根の実習棟をもち、その大胆なデザインはロシア構成主義や未来派のほか、第二次世界大戦前のイギリスの工場を参照している。ケンブリッジ大学歴史学部図書館(1967)はイギリスの気候を考慮し、大きなガラスの吹き抜けの閲覧室をもつ。オックスフォード大学を含め、一連の大学施設では、コンクリートの仕上げに煉瓦を使い、合理的なプログラムのなかに懐かしさを感じさせる機械のイメージを建築に投影した。

 1970年代の前半は、ハイテク・デザインを展開し、オリベッティ・トレーニング・センター(1972、バッキンガムシャー県)では、プラスチック・パネルを活用する。

 1975年、デュッセルドルフとケルンの二つの美術館のコンペに参加し、立地の文脈を意識した設計を行う。1970年代後半からドイツに加え、アメリカの大学など、海外のプロジェクトにもかかわる。

 1980年代以降は、ポスト・モダン的なデザインを開花させ、色使いもカラフルである。シュトゥットガルトの美術館(1984)では、19世紀の美術館を含む周囲の環境を考慮しており、シンケルの建築作品などから歴史的な要素を積極的に引用し、古典主義からハイテクまで過去と現在をコラージュした。ベルリン科学センター(1988)では、半円形のアリーナ棟や細長い柱廊など、伝統的な建築を抽象化したさまざまな形態を激しく衝突させている。これはビラ・アドリアーナ(イタリア中部のチボリにあるハドリアヌス帝の別荘。2世紀)の複雑な建築の構成を想起させる。

 ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)、ケンブリッジ大学、エール大学などで教鞭をとる。プリツカー賞、アーノルド・ブルンナー記念建築賞、アルバ・アールト賞、RIBA(英国王立建築家協会)ロイヤル・ゴールド・メダル、ドイツ建築家協会名誉賞受賞。ベルリン芸術アカデミー名誉会員。そのほかの主な建築作品に老人の家(1964、ロンドン)、子どもの家(1964、ロンドン)、オリベッティ本社プロジェクト(1971、バッキンガムシャー県)、ランコーン・ニュータウンの集合住宅(1974、チェシャー県)、ライス大学建築学部増築(1981、アメリカ、テキサス州)、テート美術館のクロア・ギャラリー(1986、ロンドン)など。著書に『James Stirling』(共著、1983)などがある。

[五十嵐太郎]

『ジョン・ジェコブス文、石井和紘・難波和彦共訳『ジェームズ・スターリング作品集』(1975・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『小川守之訳『ジェームズ・スターリング――ブリティッシュ・モダンを駆け抜けた建築家』(2000・鹿島出版会)』『Maxwell Stiring, James StiringJames Stiring (1983, St. Martin's Press, New York)』『Robert Maxwell, Michael Wilford, Thomas MuirheadJames Stirling , Michael Wilford , and Associates ; Buildings & Projects, 1975-1992 (1994, Thames & Hudson, London)』『Mark GirouardBig Jim; The Life and Work of James Stirling (1998, Chatto & Windus, London)』


スターリング(Ernest Henry Starling)
すたーりんぐ
Ernest Henry Starling
(1866―1927)

イギリスの生理学者。1889年ロンドンのガイ病院附属医学校の生理学講師となり、1899年から1923年までロンドン大学の生理学教授を務めた。1902年ベーリスWilliam Maddock Bayliss(1860―1924)と共同研究で、十二指腸の粘膜から分泌されるセクレチンが血液に吸収されて、膵液(すいえき)と胆汁の分泌を促すことを発見した。1905年スターリングはこのような内分泌物質を「ホルモン」と総称することを提案した。「ホルモン」はギリシア語で「呼び覚ますもの」の意で、体内に眠っている機能を呼び覚まし、活動をおこさせるものを意味する。また彼は、動物実験によって「心臓のスターリング法則」を発表した。心室へ流入する血液量が多くなれば、それだけ心室の張力が増大して、1回の血液拍出量も増加し、血液の過度の貯留のためにおこる循環障害を防ぐことができるというのである。主著に『人体生理学原理』(1912)がある。1911年(明治44)に来日した。

[古川 明]


スターリング(イギリス)
すたーりんぐ
Stirling

イギリス、スコットランド中部の都市。人口3万0791(1997推計)。エジンバラの北西59キロメートル、フォース川中流右岸に位置する。市名は「戦闘の場」を意味するゲール語に由来する。農牧業地域の中心として重要で、農業関連産業が立地するほか、長い間スコットランド高地地域への拠点であった。旧市街には、スチュアート家のスコットランド王の居城となったスターリング城ゴシック様式のホーリールード教会などの古い建物が多く、新市街の発達は19世紀以降にみられた。スターリング大学がある。

[米田 巌]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スターリング」の意味・わかりやすい解説

スターリング
Stirling

イギリススコットランド中部の単一自治体(カウンシルエリア council area)。行政府所在地スターリング。1975年の自治体再編でセントラル県の一地区となり,1996年に単一自治体となった。カトリン湖とフォース川の南岸は旧スターリングシャー県に,北部は旧パースシャー県に属する。西部はローモンド湖に面し,低地と高地を分けるハイランド境界断層が北部と西部を走る。フォース川の右岸に位置する河港都市スターリングは,丘陵上の城を中心に発展した町で,12世紀に勅許都市となり,1226年スコットランド王アレクサンダー2世により城が王城とされた。1314年南郊のバノックバーンロバート1世ブルースエドワード2世のイングランド軍を破り,スコットランドの独立を確立。その後 16世紀半ば頃までスコットランドの主要都市の一つとして繁栄し,城も王の居城となったが,1603年スコットランド王ジェームズ6世(→ジェームズ1世)がイングランド王位を継承してからは重要性を失った。今日では金融の中心地。北部と西部の農村部では,肉牛の飼育と酪農が盛ん。南東部の沖積低地では穀物の栽培や畜産が営まれる。南東部に炭田があり 19世紀に重工業が発達したが,ほぼ枯渇状態にあり,サービス業が主となっている。景観に優れた高地では観光が最も重要。電子機器,製紙,酒造などの工業も立地する。面積 2187km2。人口 8万7810(2006推計)。

スターリング
Sterling, Bruce

[生]1954.4.14. ブラウンズビル,テキサス
アメリカ合衆国のSF作家。 1980年代中盤にサイバーパンクの旗手として登場した。『ミラーシェード』 Mirrorshades: The Cyberpunk Anthology (1986) の編者としても有名。 1976年テキサス大学卒業後,アンソロジー『ローン・スター・ユニバース』 Lone Star Universeに"Man-Made Self"を発表してデビュー。最初の長編小説『塵クジラの海』 Involution Ocean (1977) は,ジストピア (暗黒郷) となった星を舞台に,麻薬におぼれることで混迷する人生から逃避しようとする住民たちの冒険を描いた。長編小説『スキズマトリックス』 Schismatrix (1985) では,自分自身を遺伝子的に改造するシェイパー (生体工作者) と人工的な装置を用いて改造するメカニスト (機械主義者) との相対する哲学を考察した。ほかに巨大情報ネットワークを扱った『ネットの中の島々』 Islands in the Net (1988) ,ノンフィクション『ハッカーを追え!』 The Hacker Crackdown: Law and Disorder on the Electronic Frontier (1992) などがある。ウィリアム・ギブソンとの共著『ディファレンス・エンジン』 The Difference Engine (1990) は,19世紀のコンピュータ時代の隆盛を想像した作品。

スターリング
Stirling, James

[生]1692. ガードン
[没]1770.12.5. エディンバラ
イギリスの数学者。オックスフォード大学に入ったが (1711) ,入学の宣誓をせず,1715年には,大学で研究生活を続けて学者となるのに必要な宣誓も拒絶してオックスフォードを去り,ついに卒業しなかった。その年,友人の紹介でベネチアに行って数学を教えた。 18年,ニュートンを通してロイヤル・ソサエティに最初の論文『ニュートンの微分法』を提出した。これは翌年のロイヤル・ソサエティ機関誌に掲載され,数学者としての彼の名が広く世に知られた。 24年中頃,彼はスコットランドに帰り,数ヵ月後にロンドンに落ち着いた。 26年,ニュートンの推薦でロイヤル・ソサエティ会員となり,同じ年,Little Tower Street Academyという学校で教えるようになった。 30年『微分法,無限級数の求和と補間についての説明付き』を出版するが,これは彼の最大の業績で,この本には,ニュートン=スターリングの中心差分公式や階乗の近似値を求めるためのスターリングの公式,第1種,第2種のスターリング数などが記されている。 35年,Scottish Mining Companyという鉱山会社の改革と管理を頼まれ,以後エネルギーの大部分をこの鉱山事業に費やす。 46年に C.マクローリンが死んだため,エディンバラ大学の数学の教授席が空いたが,彼がジャコバイト派であったため,跡を継ぐことができなかった。

スターリング
Stirling, Sir James

[生]1926.4.22. グラスゴー
[没]1992.6.25. ロンドン
イギリスの建築家。フルネーム Sir James Frazer Stirling。1950年リバプール大学建築学部卒業。1956年に建築設計事務所を設立。1956~63年はジェームズ・ゴワン,1971年以降はマイケル・ウィルフォードとパートナーを組む。1960年代はレスター大学工学部(1959~63),ケンブリッジ大学歴史学部(1967)など大学建築の設計が多く,ガラスと煉瓦を組み合わせた荒々しい表現がみられる。1970年代はケルン美術館(1975)など美術館計画を多く発表,シュツットガルト国立美術館新館(1977~84),クローギャラリー(1987)ではコンテクチュアリズムによる表現を追求した。1980年にイギリス王立建築家協会金賞,1981年にプリツカー賞を受賞。1992年建築学への貢献によりナイトの称号を受けた。

スターリング
Starling, Ernest Henry

[生]1866.4.17. ロンドン
[没]1927.5.2. キングストンハーバー
イギリスの生理学者。 1889~99年ロンドンのガイ病院講師。 1900年ユニバーシティ・カレッジ生理学教授。 02年以来 W.ベーリスとともに十二指腸粘膜の上皮細胞から分泌されるセクレチンが膵液の分泌を促進することを証明,このように特定の組織から血液中に分泌され,遠隔の器官に働く物質をホルモンと命名して,ホルモン学の基礎を築いた。また 24年 E.バネーと,腎臓尿細管が水分を再吸収することを証明した。心臓の拍出量が収縮前の弛緩期の心室容積に応じて,増加または減少することを証明した心臓法則は有名である。 11年に来日した。

スターリング
Stirling, Sir James

[生]1791
[没]1865.4.22.
イギリスの提督。 1803年イギリス海軍に入り,西インドなどで勤務,次いで 28年から 10年間西オーストラリアの植民地司令官,総督をつとめた。 53年クリミア戦争が起ると中国・東インド艦隊司令官として出動,日本近海のロシア艦隊を追って長崎に入港,幕府と折衝して日英約定7ヵ条 (日英和親条約) を 54年 10月 14日 (安政1年8月 23日) に締結,長崎,箱館2港を開かせた。

スターリング
Stirling, James Hutchinson

[生]1820.6.22. グラスゴー
[没]1909.3.19. エディンバラ
イギリスの哲学者。イギリスにおける新理想主義の先駆者。最初,医者であったが,哲学に転じ,イギリスに初めてヘーゲル哲学を紹介,イギリスにおけるその研究の中心者となった。主著『ヘーゲルの秘密』 The Secret of Hegel (1865) 。

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