改訂新版 世界大百科事典 「スペイン法」の意味・わかりやすい解説
スペイン法 (スペインほう)
ローマ帝国領の一部でしかなかったイベリア半島に5世紀初頭に西ゴート人の王国が誕生し,この地に初めて独自の政治組織と法が形成されるようになった。西ゴート王国には法典編纂に意欲をもつ王が少なくなく,ゲルマン民族最古の法典といわれるエウリック法典をはじめとしてアラリック抄典,レオビギルド法典,リーベル・ユディキオルムといった重要な法典がつくられた。イスラムの侵攻から国土回復戦争(レコンキスタ)が終了するまでの8世紀間のイベリア半島には,イスラム王国と複数のキリスト教徒の国が併存し,それらが別個に法を形成するが,8~13世紀のキリスト教の諸国では国単位の法は存在せず,都市・村落を単位とする局地法が無数に乱立していた。国土回復戦争の過程で危険の大きい辺境地に住民を吸収するため,王や領主が個別的に与えた入植許可状および各種の特権と地方の慣習法を文書化したフエロ・ムニシパルは局地法の代表的な形態といえる。中世後期には各国とも徐々に統一法形成に向かうが,それを立法によって実現した国とそうでない国とがある。いずれの場合にも,ボローニャ法学校などで復興ローマ法を修めた法曹の活躍を通じて普通法の継受が行われた。とくにカスティリャでは13世紀中葉にローマ法,教会法を主たる内容としたシエテ・パルティダスが編纂された。中世末期のキリスト教スペインにはカスティリャ,ナバラのほかにアラゴン連合王国の構成国であるアラゴン,カタルニャ,バレンシア,マリョルカの法が形成されていた。フェルナンドとイサベルの婚姻は形式的には統一スペインを誕生させたが,実質的には旧アラゴン連合王国内の諸地域の自治を残した連邦国を成立させたにとどまり,当然のこととして法も中世末期のままに存置された。
スペイン法が全体として統一に向かって大きく前進するのは,18世紀初頭のフェリペ5世の政策によってである。スペイン継承戦争に際して敵側のカール陣営支持にまわった旧アラゴン連合王国に対する制裁として,その政治的自治を剝奪しカスティリャに同化させる政策がとられた。この強引な措置によってスペイン全土の公法は統一されたが,私法についてはバレンシア法が廃止されただけで,他の地域は従前どおりの法を保持することになった。しかし旧アラゴンでは立法機関たるコルテスが廃止されたために,以後は新たな法の発展の可能性が閉ざされた。ナポレオンの侵略に対する独立戦争を契機として近代市民社会を成立させたスペインは,王政復古を図る反動勢力と闘いつつ徐々に近代法を整備した。近代法典の編纂には主としてフランスの諸法典が模範とされた。民法典編纂に際して,法典を全国共通法として一律に適用するか,あるいは近世末まで存置された地域法をそのまま維持するかが最も大きな問題となったが,結局は地方主義の勝利に終わり,法典を主法源とする共通法地域のほかに,数個の異法地域が残され今日にいたっている。
執筆者:山田 信彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報